「
届けたし 想いあれども もう故人 せめて手元に ゆかりの品を」、「名を成して 何か残すや 政治家は オレは王様 死ぬのは最後」、「教え子の 心に宿る 教師あり よきもわるきも この世は連鎖」、「有益と 思う自惚れ 下衆ごころ 恥ずかしながら 隠れて生きよ」

まず昨日書き忘れたことから。今日の2枚目の写真が示すように、アレックス・カッツの1985年の「夏、三部作」は等身大の3枚の絵を横につなぎ、各画面に描かれる男女のカップルは画面右から左へと進む。これは日本の絵巻からの影響を思わせる。右端の画面では女性は男性の腰に手を回し、男性は女性の肩に手を置いてふたりは見つめ合う。中央画面の男女は手を取り合って歩みをやめ、そして見つめ合う。左端の画面では男性は女性が組んだ腕をつかんでふたりは左方向に歩み去ろうとしている。中央画面でふたりは思いが一致したことを示し、両端の画面は同じような姿ながら別の意味合いを持つ。全体としては対話、共感、そして目標へ向かっての前進という物語性があり、卑近な言葉を使えば男女の愛の物語だ。この愛が健全なものか不倫関係かはどうでもよく、いずれにしろ夏の森の自然の中での男女の親密な行動として描かれるだけに爽快感がある。88年展の図録の表紙にこの作品が選ばれたことは、カッツが愛や幸福、調和を重視していたことを示す。カッツの作品に嫌味や諷刺はない点を、小市民的と感じて好まない人はいるだろう。しかしカッツが妻のアダを何度も描いたその堂々たる幸福自慢はレンブラントにもあったもので、素直に絵を見る者に心地よさを伝える。美術本来の最も重要な意味、価値はそこにある。自分は凡人と違ってこれほどの夢魔を内面に抱えていると言わんばかりに出鱈目な夢の映像を無責任にコラージュする凡庸な画家がいるが、そういう絵はAIが最も得意とする。AIにないものを人間が描くとすれば、それは愛が感じられる作品しかなく、それをカッツは巨匠の名作から学んだ。ついでに書いておくと、1年ほど前にキャプテン・ビーフハートの69年の曲
「SUGAR‘N SPIKES」の歌詞について書いた。その歌詞は若い男女の仲のよい新しい生活ぶりを描き、78年のアルバム「シャイニー・ビースト(輝く獣)」のジャケットの絵、すなわち獣になぞらえらた男女が手をつないで歩くとつながるが、そのジャケット絵はビーフハートの若い頃を描いたものか、諷刺味はなく、微笑ましい。そしてカッツの「夏、三部作」に影響を与えた気がする。ビーフハートの絵は当時アメリカで流行していたニュー・ペインティングの流派に分類してよいが、カッツはそうした激しい即興的な筆致の画風に染まらず、緻密に構図を組み立て、画面のどの部分もほとんど同じ調子でていねいに絵具を塗り込めた。何でも流行があってそれに加わって名を挙げる者もいれば、背いて独自の道を歩んで大家を成す者もいる。

これも思い出したので書いておくと、昨日触れたカッツの82年の「レッド・コート」はアダの巨大な顔の赤い口紅に画題の中心があると言ってよいが、その赤をコートの同じ赤が取り巻き、またアメリカのポップ・アートの印象からはやや離れて渋めの赤である点が実によい。カッツは稀に見るカラリストで、中間色の使い方がうまく、色彩の配置も熟考している。「レッド・コート」のアダに限らないが、アダの唇に焦点を合わせたカッツの絵は、1世紀ほど前に描かれたマン・レイの「天文台の時―恋人たち」からの影響が大きいだろう。筆者は昔のマン・レイ展でその油彩画の絵はがきを買い、長らく大事にしながら、ある年に年配の女性にお礼の返事用に送ったことがあり、妙な誤解をされかけたことを思い出す。その女性の巨大な赤い唇が空に浮かぶ絵はデペイズマンのひとつの代表的な作品だ。唇が性的な意味を持つのは当然で、マン・レイがその赤い唇を見上げる、また唇から見下ろされる構図は、女性器崇拝を感じさせる。一方、富士正晴は男が性の処理に悶々としている時、空に巨大な女性器が浮かんでいる様子を妄想することを自身の経験から書いたが、富士はマン・レイの先の絵を知っていたかどうか、空に唇が浮かぶ様子を描くデペイズマンの画法は、人間の根源的なことに根差していて、とってつけたようなイメージの合体ではない。デペイズマンの応用で名画が生まれるのは、そうした誰もが心の奥底で感じているイメージを結びつける場合で、サイコロを振るように異なるイメージをむやみに合体させても、その絵には何の面白味も生じない。シュルレアリスム絵画はさんざん実験され尽くし、マン・レイの唇の絵画のような名画を描くには、自己の内面に深く沈潜して用意周到にイメージを厳選し、そして完璧な構図にまとめ上げるしかない。またそうして描いて名画が生まれるのは生涯に1点からせいぜい数点であろう。それは、画家がそれほどに一作に全神経とエネルギーを費やすからで、そのことが絵画への愛であり、責任でもある。話を戻すと、アレックス・カッツはマン・レイのその唇絵を妻のアダをモデルに使って、デペイズマンなしに写実絵画で行ない続けた。そこにはアダに対する揺るぎない愛情があった。つまり充足した愛情がアダを描いたどの絵にも込められている。その愛は他の男女のカップルを描く場合も同じで、その代表作が「夏、三部作」だ。さて、同作は右端の絵の右端に1本の木が描かれる。そこにカッツの巧みな策略がある。その木が昨日書いたように今回のカッツ展の中心画題となったが、90代半ばになったカッツは相変わらず人物画に関心はあるとは思うが、「夏、三部作」における愛する男女を取り巻く自然、とりわけ木に焦点を合わせたことは、図録代わりに配布された1枚の紙に印刷されるフィリップ・ラーキンの詩が説明している。昨日はその詩について書かなかった。
その詩「The Trees」は67年に作られ、数年後に発表された。かなり有名でネットに全文が出ている。88年展図録の岡田隆彦氏の文章によれば、カッツが1951年から翌年にかけて描いた「冬の光景」は樹木のみを画題にしている。若描きの1000点を廃棄したカッツがその絵を残したことは、20代半ばで樹木に強い関心があったことを伝える。つまり本展の樹木絵は初期からつながっていて、「The Trees」以前にその詩と同じ意味を感じていたであろう。人は死ぬが、樹木は時として人より長生きする。また人は動き回るが、樹木はその場に立ち続けるので、どちらが偉大でよいかは言えないが、冬場に死んだように見える枝から新芽が吹き、新しい枝をぐんぐん伸ばして花を咲かせ、やがてすっかり見違える樹形になる。わが家の裏庭は合歓木や梅、椿やその他の高さ数メートルになる木々を10本ほど抱えているので、ラーキンのこの詩はよくわかる。それで根元から切ってしまう気にはなれずになるべく伸び放題にしている。さて、以下に詩の全文と筆者の訳を載せるが、熟考せずに逐一訳し、また原文の韻は無視している。比較的簡単な英語なので英語のまま味わうべきだ。
The trees are coming into leaf (木々は葉に入って来る)
Like something almost being said; (よく言われているように;)
The recent buds relax and spread, (新しい蕾は和らいで広がる、)
Their greenness is a kind of grief. (木々の緑は一種の悲しみだ。)
Is it that they are born again (木々は生まれ変わり)
And we grow old? No, they die too, (そして人間は老いるのか? いや、木々も死ぬ、)
Their yearly trick of looking new (木々の毎年新しく見える策略は)
Is written down in rings of grain. (年輪として書き留められる。)
Yet still the unresting castles thresh (休まない城はのた打ち続け)
In fullgrown thickness every May. (5月には成長しきって生い茂る。)
Last year is dead, they seem to say, (去年は死んだ、木々は言うようだ、)
Begin afresh, afresh, afresh. (新たに始める、新たに、新たに。)
カッツがこの詩を本展を訪れた人に読ませたかったのは、彼の作品の理解の手助けを思ってのことだが、毎年新たに芽吹いてやがて枝葉が生い茂って城のような樹形を作る樹木に、自分の創作活動を重ね合わせたいからだ。樹齢数百年でも花を咲かせる木はある。カッツもそれに倣って新しい気分で新しい絵を描きたいのだ。カッツはかつては枯れた幹や枝だけの樹木図を描いたが、本展では花咲く様子か、新緑の木々ばかりだ。あるいは美しい紅葉だ。深読みすると、そこにアダを描かなくなった理由があるように思える。老いたアダを描き続けるのが愛かもしれないが、アダが拒否したかもしれず、また皺が目立つ前にアダが死んだか、カッツとは別れたかもしれない。そうであっても若い頃のアダを描いた多くの絵は手放しでアダの魅力に参っているカッツが伝わり、嫌味は全く感じさせない。ラーキンの詩では新緑の木は一種の悲しみでもあると言う。これは筆者が幼ない子どもを見た時によく感じることと同じはずで、これから元気に生きる命にすでに晩年の姿がかすかに見え透くからだ。人生は一瞬というが、そのとおりで、赤ん坊が両親のどちらにも似ているならば、赤ん坊の人生はほとんどわかっている。それでも生きている限りは元気で楽しく生きるべきで、ラーキンの詩は結語でそのことを言葉を変えて言っている。カッツは自作でそのことを謳いたいのだ。絵画行為に意味があるとすれば、それ以外にないではないか。それは詩でも音楽でも同じで、作者が生を肯定し、その美しさを苦心して、責任を持って構築しなければならない。

ここからが本当の本題。昨日載せ切れなかった残りの写真を今日は全部載せ、会場で撮った写真は1枚も没にしない。昨日の5枚目右の写真は、カッツの絵の展示部屋の右手の廊下に二曲屏風があることを示した。今日の最初の写真はその屏風で、分割撮して合成したが、左曲は画面上部の賛を撮らなかった。絵は鶴を描き、月並みな吉祥の詩と思ったからだ。この屏風は会場となった弘道館の最初の主の皆川淇園の作だ。皆川存命中から同館にあるものだろう。他にも皆川の作品を所蔵するかどうかはわからない。筆者は執筆中の本がらみで弘道館と皆川淇園には20年前から関心がある。上京区に弘道館があることは知っていたが、場所がわからず、たぶん近くではないかと思って中学生時代の同窓生のAに訊いたことがある。還暦前に死んだAは筆者と同じ大阪市内生まれで育ちだが、同志社を出て京都市内に住み、同じ大学の男性と結婚した。Aは皆川淇園の名前を筆者から聞いた途端、「ああ、知ってる。わたしの遠い親類と聞いたで。」と言った。それは間違いないだろう。筆者はAの両親と面識があるが、どちらも教養は高く、またいかにも人格がよさそうで優しかった。それはさておき、結局弘道館はわからずじまいで、筆者の思いから遠ざかったが、本展によって突如そこを訪れる機会に恵まれた。皆川淇園は柳澤淇園と混同する人がよくいるそうだが、ふたりは全然違う。筆者は両者の作品をいくつか持っていて、特に柳澤淇園は最大に崇めている文人画家だが、皆川も書画をよくし、字も絵も作風は一度見れば特徴がわかるほどに個性的で面白い。しかし美術史では正統に評価されておらず、その学問についても誰もほとんど詳しくは知らないのではないか。文人画は江戸期に大いに流行し、大家を何人も生んだが、皆川はその系列に含まれているにもかかわらず、図録を具えた作品展は一度も開催されていないはずだ。話が先走るが、弘道館を辞する時、係員のかなり若い女性にその事実を伝え、ぜひとも皆川淇園の作品展をとお願いした。しかし同館はあまり所蔵していないのだろう。となれば画商に頼んで各地から集めねばならず、その経費は展覧会の入場料では賄えない。そこで京都国立博物館の出番になるが、文化に投ずる国費があまりにさびしい日本だ。しかも京都では優先すべき画家が大勢いるので、皆川淇園を中心に光を当てた企画展の開催は望みうすだ。そういうことをかねがね思っているので、本展で弘道館内部が見学出来、しかもわずか1点だが、皆川の屏風があったことは嬉しかった。アレックス・カッツに関心があって皆川淇園にも興味がある人が本展でどれほど訪れるのかはわからないが、筆者なりに皆川について書いておきたい。次に屏風の右隻の書の全文を載せる。写真が不鮮明でもあって、読み間違いはあるかもしれないが、たぶんネットには載っていないはずだ。
「陸是家城市 等斎隠竹林 薩聲堀屋遠 山色入堂深 為道観開物 詩篇擬故零 悠々千古栄 多左意回心 書歳 皆川愿書」全40字の五言律詩で、読みやすいように5字ずつ区切った。文人画家は万巻の本を読んで千里を旅せねばならないと言われる。皆川は前者は文句なしに果たしたであろう。最後の文人画家とされる鉄斎も同様で、自作の鉄斎は絵よりも賛を読んでほしいと言っていた。絵は詩の添えもので、鉄斎は画家と呼ばれるよりも詩人であることを欲した。しかし鉄斎は自分の詩にこだわらず、自作にほとんど必ず書いた詩文は他人の引用も多い。その点皆川がどうであったか知らないが、先に掲げた詩文は明らかに皆川のものだ。古典や他人の作に近い部分もあるが、江戸時代の教養人は詩を詠み、書く才能があって当然であった。画家にはそういう才能は乏しいが、蕪村や大雅はそうではなかった。応挙やその弟子筋もたいてい絵のプロではあっても詩の才能はなかった。皆川は応挙の弟子の蘆雪と特に親しく、蘆雪の絵によく賛をしたので、皆川の賛は市場では見る機会が多い。また門徒を三千人も抱えたほどに有名であったのに、WIKIPEDIAには詳しいことは書かれず、皆川の「開物学」についてもあまりに難解云々とされて肝心の中身はわからない。「開物学」は「怪物学」と言われたほどに途轍もない内容とされ、万巻の書を読破するにはほど遠い凡人には全く理解がおぼつかないらしい。漢文で書かれたこともあって、研究者が少ないからだ。日本の哲学者は西洋の哲学を解釈するのに時間を取られ、江戸後期の儒者の思想をつぶさに調べることに興味はないのだろう。その理由は、大学で教える場所がないからだ。教授と言われる人も結局は飯のタネにならないことは研究しない。だがそのことを皆川自身がよく知っていた。皆川は儒者がもはや無用になった時代を感じて生き、「開物学」が誰かに理解されようがされまいがどうでもよいと考えたであろう。それは商人からすれば唾棄すべきことだろう。現代になっても大阪の商人は学者を無用と考える人がままいるが、学問は本来経済活動とは関係がない。金持ちは他人より多く稼いだことで歴史に残ると勘違いしているが、大金をいかに使ったかが重要で、貯め込んで死ねばただの愚か者だ。筆者は「自分は誰かの役目に立っている」と本気で考えている人を信じない。何事も好きであるゆえにやらねばならず、その行為が社会的に無益であっても、本人が幸福であればそれで充分意義がある。本人が役立っていると思っても害であることも多く、皆川が自分のような儒者はもはや無用であると考えたことは謙虚で正しい。またいまだに皆川の学問が解明されていないこともよい。百年早く生まれた天才はいくらでもいるもので、皆川の思想が解明されることは将来大いにあり得る。商人とは違って学者や芸術家は、本人が生きている間に勝負は決まるとは限らない。

さて、先の皆川の五律だが、漢字を見ただけでだいたいの意味はわかるだろう。それが漢詩のよさだ。面白いのは「等斎隠竹林」だ。詩の前半は、京都市内にあって寺の音や粗末な民家を遠く眺め、また社寺の建物が山の色に深く染まって見える中、皆川は竹林に隠れていると言う。「竹林の七賢」は中国絵画の有名な画題で、蕭白も描いたが、賢人と竹林はセットになっている。これは浮世から離れて静かに暮らす境地への憧れで、文人画家が竹をよく描いたのはその思いによる。「淇園」は竹林を意味する言葉から採ったもので、柳澤淇園は竹図をよく描いた。ついでながら、カッツは「竹林の七賢」の画題を知って「夏、三部作」を描いたのではないか。そこには6人しか描かれないが、カッツを含めると7人で、全員が仲良く林のそばで談笑している。そこに老荘思想の話題はないだろうが、人生をいかに楽しく、愛し合って行くべきかという、重要なことは話され、描かれている。また、富士正晴は文字通り竹林を開いた土地に住み、小柄ゆえ「珍竹林」と自他ともに呼び、現代日本の代表的隠者であった。皆川の五律の後半の最初「為道観開物」は「開物学」について言及する。「物を開き観て道を為す」は「開物学」の骨子だろう。「開物」が「博物」とどう違うのか厳密にはわからないが、後者の名前は「哲学」と同様、明治になって生まれたものであろう。万巻の書を読むとなれば皆川が老荘関係以外に植物や動物、鉱物に関心が強かったのは当然で、また未知な物を目の前にした時、それを命名するにはそれなりの誰もが納得する深い理由が必要で、物は命名されて初めて人間にとって存在し始める。皆川は海外も含めて続々ともたらされるそうした珍しい物を前に、その本質を表わすために名称の学問といったものに関心があったのだろう。現在は百科事典やWIKIPEDIA によって名前のない未知なる物はもはや存在しないように思われているが、命名されていないものは永遠に出現し続け、物は開き続ける必要がある。それはともかく、皆川が当時の京都では誰もかなう者がいないほどに知的で博学であると思われていたから三千人もの門弟がいたが、その皆川が作詩と絵をよくしたことは改めて考えてみるべきだ。いくら頭がよくて一流大学を出ても、詩才がなく、美がわからない者は俗物であって、ただの商人学者が今はメディアに引っ張りだこになって顔を売る。そういう時代であれば皆川はいよいよ肩身が狭く、その学業を研究する人も現われにくい。五律の「詩篇擬故零」は古に倣う詩篇はないとの意味で、これは中国の詩文をほとんど知りながら自作の詩はそれらを模倣しないという意味だろう。五律の結びは、そういう皆川の住む京都は悠々と千年栄えていて、以上の詩文は何度も立ち返る思いであると締めくくる。「書歳」は正月に書いた意味で、結局のところ自らの「開物学」に邁進して一家を成す覚悟の表明だ。

カッツの絵は詩文が書かれないし、西洋画にその伝統はないが、本展に寄せてフィリップ・ラーキンの詩「The Trees」が引用されたことは、カッツの絵に添える賛がその詩ということになる。それは皆川の書画に通じ、本展が弘道館で開催されたことの意味がより鮮明になって来る。とはいえ、日本で文人画家の輝かしい歴史は鉄斎で終わり、漢詩を作るどころか、漢詩不要論を唱える有名人もいる。だが、日本が今後英語により馴染んだとして、これまで何度も書いたことだが、英詩を作る才能はまあ生まれない。ラーキンの先の詩は中学生でも訳せるが、韻は巧みに踏まれていて、日本のよほどの知識人でも同様のものは詠めないだろう。その点、文字数が決まっている漢詩や短歌ははるかによい。漢詩では厳密な平仄があるので、その知識がなければ出鱈目を作ってしまうが、短歌なら現代語で新感覚を謳えばよい。さて、弘道館は庭を自由に散策出来た。カッツの絵を見た後、家内と庭を一巡し、写真を撮った。皆川や同時代の画家がこの庭を歩いたことを想像すると、京都のさすがの貫禄に圧倒される。大広間からもわかったことだが、木々はどれもよく手入れをされ、皆川の時代とは植生は違っているだろうが、雰囲気は保たれているはずだ。石は特にそうではないだろうか。苔蒸した石に紅葉の楓の葉が絵を思わせるように落ちていて、これは今日の写真にもわずかに写っている庭師の造作ではないかと思ったが、飛び石のすぐ際に、ユズリハだろうか、大きな葉が数枚落ちていて、今日の最後の写真が示すように、家内が先に進むのを追いながらカメラのシャッターを押し、またそのさまざまな多少の斑点のある落ち葉の1枚を拾って手提げ袋に入れた。それらの落ち葉が、同館を訪れた人を驚かせるためにわざと配置された小道具であったならば、筆者は窃盗罪を認めるしかないが、自然に落ちたもので、庭師がいずれ拾って処分するものなら、その時期が少々早かっただけで、筆者が記念に手元に置くことは許されるであろう。どんどん様変わりする京都市内にあって、弘道館は竹林の静けさがある。皆川淇園は有名画家と市内各地を花見に出かけたりもしたが、大半の時間はひとりで読書に耽ることに費やし、隠者のような生活を好んだ。カッツも同じような暮らしではないだろうか。となれば本展はそうした大人向けの、またとない贈り物であった。市内に明るくて白い壁のギャラリーでは何倍もの人が訪れるが、カッツと皆川淇園の作品を知っている者がわざわざ訪れるのであれば、感想も深い感慨を秘めたものになることが求められる。もちろん筆者はそれにふさわしくはなく、末尾を汚すに過ぎない。会ったことはなく、顔を知らない作者の作品を知るだけで、その作者の存在が心を占めることがある。筆者はあえて会いたい人はいないが、見事な作品には接したい。それは形が整い、決して威張らず、自惚れのないものだ。

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