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●『中国古代の暮らしと夢-建築・人・動物』
以前から探しているものがある。それを今夜は見つけてこのブログのネタにするつもりであったが、やはり出て来ない。前から何度も探しているが、狭い家なのにあまりにもガラクタが多いので、一旦何かを見失うと、何年も出て来ないと諦めるしかない。



●『中国古代の暮らしと夢-建築・人・動物』_d0053294_2245718.jpg昔の人もこんなことがあったのだろうか。物を溜め込む性質のある人間はいつの時代でもいるはずで、きっと文明が始まってすぐにいたと思う。その資料がなくても書けるが、どうしても確認しておきたいことがあった。そのため、今日予定していたことはまた先送りになる。別に今日でなくてもいいのでちっともかまわないが、5月の連休でもあり、いつものように展覧会の感想では何だか気分が乗らない。だが、また書くべき展覧会が8つほど待っている状態で、このままでは見て1か月が経ってしまいそうなものもある。それで、今夜は先月9日に細見美術館で見たものを取り上げる。「陶器が語る来世の理想郷」と副題がある。この美術館の所蔵品ではないと思うが、チラシを見てもどこから借りて来たものか書いていない。会場内のパネルにもなかったと思う。細見美術館の蔵品はよく展覧会で日本各地に巡回するから、日本各地の美術館とつながりがあって、いわば交換展のような形でこうした特別展は開催しやすいのだろう。あるいは、よその美術館との共催で企画したか、どこかの美術館が企画したものをそのまま巡回しているかだ。展覧会にもさまざまなケースがあり、本当はそうしたことをチラシに明記すべき思うが、昔からそれを隠す場合は少なくない。個人蔵が中心になっていたり、どこかの画商が持っているものを一括で借りて来たり、とにかく表に出してもみんなあまり喜ばないような場合だ。実際今回のチラシ裏面に出ている5点の作品はみな「個人蔵」となっている。これが悪いと言うのではないが、公的機関が所有しているのと違って、どうしても一般人は真贋を怪しく思ったりする。だが、これは単なる偏見で、国宝でも個人所有のものがあるし、ちゃんとした公的機関でも時には贋作をそうとは知らずに所有していることもある。個人蔵であればあまりに値の張るものは稀であろうから、鑑賞者としてはありがたみをあまり感じないが、これもいい加減なもので、同じ個人蔵でもたとえば平山郁夫所蔵となると、もうこれはみなもっと別の眼差しで注目する。結局無名か有名かで同じものでも雰囲気が違って見える。
 さて、チラシにはこうある。「中国では古くから、死後も魂は不滅で、墳墓が永久に魂の住まいであると考えられてきました。明器は生前の生活愛用品を模した縮小サイズの副葬品で、実用性は失われています」。明器とは、墓に入れるミニチュアの人や動物、建物などの陶器だ。墓に入っていたので何だかあまり気持ちのよいものではないが、そのことに目をつぶればたとえば伏見人形と同じような玩具としても鑑賞出来る。それよりもまず、中国にはこういうミニチュアの彫像を作る技術が大昔からあったことに驚く。陶製のほかに青銅や木などさまざまな材質で作られたが、今回は陶製が中心となっていた。とにかく中国にはあらゆる工芸の源がある。歴史的に見ても日本は全くその末流にしか過ぎないことを思い知らされる。明器が作られたのは漢(BC206-AD220)時代からなのか、今回は清(1644-1912)までの間に作られた陶製のもの110点が展示された。だが、会場パネルには漢から唐(618-907)までと書いてあった。どちらが正しいのかここで確認出来ないが、いずれにしても千年以上の間にかけて作られた中から選ばれていて、膨大な数の明器が中国にはあることがわかる。そのため優品は無理でもそこそこのものであれば個人でも割合簡単に入手出来るものかもしれない。となると、贋物もきっと多いだろう。清時代も作られていたとなると、形や焼き加減など、おそろしく種類が豊富であるので、贋物であってもなかなかそれを見抜けないに違いない。そう考えて、急に見ていて関心を失ったが、昔の人々の来世に対する憧れと、それを本当は信じていたのかどうだか、こうした明器をせっせと作っていた人の気持ちを考えると、また人間的興味も湧いてそれなりに面白く見た。明器の中には明器を販売する店をかたどったものもあって、明器は買えたのだ。これは仏壇仏具屋が日本にもあることを思えばあたりまえだが、明器を扱う店の明器があるとすれば、本当に予想外のあらゆるものがあったはずで、この世の形あるすべてのものを作って墓に埋めたのだろう。来世で現世と同じような生活を望むのであればそうでなくてはならない。だが、墓のサイズの問題がある。指先程度のミニチュアなら大きな街全体を陶器で作って埋めることも可能だが、掌サイズの小動物もあるとは言うものの、伏見人形のちょっとした大型サイズ程度のものが多く、墓に入れられる数にも限りがある。そのため、結局はまず家が中心ということになる。現世の生活では屋根のある家さえまずあれば心配ないからだ。その次は食べ物に関するものであるのは当然予想がつくだろう。
 筆者が明器を初めて見たのは安宕コレクションにある漢時代の「緑釉楼閣」だ。手元の図録によると1979年で、まだ東洋陶磁美術館が出来る前のことだ。現在は同館の中国陶磁室の最初の展示品としてこれが見られるが、その一種独特の異様さに誰でも強い印象を受けるだろう。同館の展示の99パーセントは壺や皿といった器であるので、そんな中に建物の模型があるのを見てこれは一体何だと思ってしまう。この「緑釉楼閣」は高さが1メートルほどある。4層の建物で人の姿も見える。だが、本物の楼閣をそのまま縮小せず、かなり省略して部分を誇張している。そのため、どことなく子どもが作ったようなユーラスな雰囲気がある。写実性の技術がなかったからではないだろう。その必要がなかっただけの話で、この簡単なとも言える模型で充分に本物の建物がどういうものであったかがわかる。それは本物の太陽を「日」という形にするのと同じ単純記号化であって、漢字を生んだ民族にはふさわしい造形だ。何でもかんでも写実でなければならないとなると不便で仕方がない。実際本物をたとえば20分の1のサイズに完全に縮小しようとすると、途轍もない手間がかかるし、また不可能でもある。つまりそこそこでよいのだ。人間はそれを大昔から知っている。であるので、現在の人が明器を作るとすればやはり同じような形になってしまうはずで、その意味でとても身近に感じられる造形と言ってよい。千年程度では人間が何も変わらないことを知るには、器よりもむしろこうした実際の生活の様子を具体的に伝えてくれるものの方がはるかによい。チラシにもこう書いてある。「…ドールハウスを彷彿させる住居。さらにはミニチュアの生活用具に、舞い踊る人々など、明器や俑は各時代の暮らしぶりを伝える貴重な手がかりでもあります」。「俑」は明器の一種で、人物や動物の像だ。今回は竈もたくさん展示されていたが、俑も含めて伏見人形と共通するものが多く、これは影響関係を考える必要もあるように思えた。どんな民族でも形あるものを小型化した像を作るので、明器が伏見人形に影響を与えたとは言えないが、それでもあまりにも似ている要素が多い。小型の像であるので、何らかの形で古墳時代頃に大陸から入って来た可能性はあるだろう。ない方がおかしい。
 明器が大流行したのは後漢(AD25-220)だ。種類が最も豊かで、竈や井戸、厠、作房(農作業用の小屋)、穀物倉などがある。前述したような高層の楼閣もこの時代の特徴で、水辺に立てられた宴遊のための楼閣や軍事目的の見張り台、城砦があって、中には高さが2メートルを越えるものもある。緑釉陶、灰陶、褐色緑釉陶、それに加彩のものもあるが、唐には三彩も登場する。古代のヴェトナムは中国の政治支配を受けていたため、中国式の慱(せん:本当は土へん)室墓が多く築かれ、明器が出土するが、ヴェトナム北部から出土した紅陶も展示されていた。また三国時代から南朝にかけて浙江省で焼かれた青磁は古越磁と呼ばれ、多彩な造形の明器が多く作られた。井戸や竈、鶏舎、狗圏(犬を飼う囲い)、猪圏、牛車、厩舎、作坊、薬研、碾(ひき臼)、爐、供物、椅子、衣櫃(衣装箪笥)、寝台、案(脚つき膳)、酒器、食器、祀堂、宝塔、舎利塔、明器舗など、何でもありの状態だ。「井戸」はなかなかリアルで、井欄や釣瓶、滑車と寄せ棟屋根がひと揃いになっていた。水道文化がなかった頃の生死にかかわる重要な存在をよく示す。「爐」では5匹の蝉の串刺しにしたものを2本造形してあった。蝉を食べていたことよりも、そうした実際の食べ物を表現しているのが面白い。「供物」は祖神への捧げ物で、豚の頭、鴨、桃、反物などがあった。「明器舗」は副葬品を売る店で、唐の長安に設けられた市場に葬儀屋があって、副葬品の販売や葬儀の請負を行なっていたそうだ。スペインの風車小屋を思わせる筒型の穀物倉庫の明器があったが、これは現在でも同じ形の倉庫が中国には存在している。だが、明器の底には魔除けの意味合いから熊の形をした三つの足がついている。これは実際にはないものだろう。穀物の倉は方形もあって、豊穰を象徴する吉祥のモチーフが刻まれている。南宋には鉄絵の小型のものもある。「米倉」の文字が入っていた。これらの例からは多くのヴァリエーションの存在が想像出来る。住居の明器は、人がいたり厠が付属しているなど、生活空間をなかなかよく再現している。明(1368-1644)の時代になると、この住居の明器は四角形の庭を囲む形で北に母家、東西に廂坊、南に門を置き、これらを壁で結ぶ「四合院」という建築様式を再現したものになる。屋根は切妻造りで、傾斜は急だが、これは慱(本当は土へん)などで建物が丈夫に建てられるようになった明や清に一般化したもので、宋の時代にはあまりなかった。
 今回の展示は3つのセクションから成っていて、以上までが「住まい」で展示されていたものだ。残りふたつの「人と動物」と「古代の世界観」はあまり出品が多くはなかった。「人と動物」は明器の中でもやや特別な一風変わったものをまとめていた。「解牛」「解猪」「庖人」は、屠殺する人や料理人。「楽人」「舞人」「童子」は説明不要だが、「臥仙」は「寝ころんだ仙人」ということで、明器であったかどうか。「笑人」「踊る農民」「武人」「騎馬武人」「馭者」「侏儒」「仕女」などは王朝文化からは当然の主題だ。動物の中では「穿山甲」があったが、いかにも何でも食べる中国らしい。「古代の世界観」は少し説明が必要だ。中国では霊魂が墳墓に住むという考えが発生する以前から、魂は死後に天の昇るというもうひとつの考えが広く浸透していて、この死生観を反映した副葬品もまた墳墓に納められ、天を突く高い山や大樹といった天界や神仙世界を象徴的に表現したモチーフを多用していた。江南(長江南岸)地域を中心に見られる副葬用に特に制作された「魂瓶」、西晋時代(AD263-317)に作られた古越磁の「青磁神亭壺」、南宋時代(AD263-317)に作られた「日月壺」など、あまり展示は多くなく、少し理解し難い印象が残った。「桃都樹」は中国東南にあると伝えられる桃都山のうえに生える大樹をかたどっている。上方には天鶏がとまっていて日の出とともに鳴き、これにしたがって天下の鶏が鶏が続くとされた。「神亭壺」は楼閣や鳥、動物、人物などを貼りつけた壺を神仙の住む館と考えたものだ。「日月壺」は東京国立博物館から借りて来た白磁製のものが展示されていた。そう言えば最初のセクションでは東洋陶磁美術館から借りて来た漢時代の加彩の酒器や食器もあった。個人蔵ばかりではなく、一応は有名なところからも借りて来ているわけだ。「日月壺」は宋代江南の壺型明器で、太陽と月を表わすことが多いが、蓋の先端に翼を広げた鳥、その下に雲気文、さらにうえには観音がついてその上方には爪を広げたダイナミックな龍が巻きついていた。龍の頭のうえに太陽を示す円盤状の貼りつけ文があったが、全体があまりにゴテゴテとバロック的であるため、近寄って見ないことにはよくわからない。このセクションではほかには香炉の一種の「博山炉」、鎮墓獣、酒温尊などがあった。地域も広大、歴史も長い、とにかく中国には何がどれほどあるのか茫然とさせられる。一旦何かを見失うと、何年も出て来ないと諦めるしかないと思うが、そう言えば忘れるところだった。今回、ややおまけ的な展示として戦国時代(BC431-BC221)の半瓦当や瓦当があった。これはまたの機会に紹介する。忘れなければ。
by uuuzen | 2006-05-01 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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