ゴールデン・ウィークが昨日から始まってちょうど天気もよく、今日も本当に行楽日和だった。
自由業でいると別に連休であろうとなかろうと関係なく好きな時に出かけるが、やはりみんなが遊んでいる時にそうしたい気持ちがあるから、今日は朝から出かけることにした。それで、今日の出来事を書いてもいいが、まず以前から書くつもりでいたことを消化する。順不同、思い出すままだ。
桜がもうほとんど終わったある日のとても天気のよい暖かい昼下がりのこと、何気なしに庭に出ようと扉を開けた。目の前に桜の花がはらはらと降り落ちている。まるで雪のようだ。わが家には桜の木はない。半径100メートル以内にもない。遠くの山にはまだたくさん見えているが、そこから飛んで来たにしては様子がおかしい。どこからやって来たのかわからないまま茫然とたたずんだ。風に乗って斜め方向から降り注ぐ様子ではない。真上の天上から次々に下りて来る。空を見た。雲はない。風もない。大きな鳥が羽ばたいた様子もない。それなのにうす桃色の花びらがわが家の庭だけに降り注ぐ。夢かと思って庭の草のうえに落ちた花びらを見ると、消え去らない。1枚を手に取ってみた。ほんのり湿っていた。まだ花は落ちて来る。内心慌てた。カメラを持って来てその様子を撮影しようかと思った。だが、写真ではその様子はわからない。ビデオの方がよい。それはないので結局何もせず、花びらが落ち終わるまで見つめていた。後方で煮物が沸騰する音が聞こえた。われに返ってガス・コンロにかけつけると、吹きこぼれた煮汁がガスの炎をオレンジ色に変化させ、湯気が上がっていた。鍋の蓋を外し、炎を小さく緩め、中を覗くと、白い大きな豆が湯の底に見えたが、いくつかが破裂して無残な形になっている。1個を箸でつまんで食べた。固い。まだまだ炊かねばならない。そして湯を全部捨てて新たに水を張ってまた新た煮始めた。豆は夕方にようやく炊きあがった。白い豆が倍ほどに膨れてつやつやしている。こんなにうまく出来てのは初めてだ。記念にウィスキーのボトルを横に置いて写真を撮った。大きな豆だなあ。
幼い頃、母に毎日夕方になると近くの市場に連れて行ってもらった。時計と反対回りに市場の中を回る。出入口のちょうど反対の裏口手前に煮豆屋があった。そこを通るのが一番好きだった。いろんな色の豆が大きな大きな鍋にいっぱい炊きあがってきらきらしていた。あんな風に豆が自分で炊けるといいなと思った。だが、それには大きな鍋がなくてはとずっと思っていた。それに豆はどこで買えばいいだろう。そうそう、母はよくぜんざいを炊いてくれた。小学校に入学する前夜のこと、母は火鉢に鍋をかけてぜんざいを炊いた。入学記念だ。前日の夕方からゆっくりと炊き始めたのだ。だが、その日の夜、火事があった。真夜中に母に叩き起こされた。眠気眼で外を見ると、外は真っ暗なはずなのにオレンジ色に染まっていて、いくつもの動く人の影が大きく見えていた。慌ててそのまま母と一緒に外に出た。30分後には家はすっかり焼け落ちた。裏の工場から出火したのだ。10軒以上が燃えた。火が燃え盛るのを真正面に見ながら、母は半狂乱で泣き叫んだ。それを筆者はまるで一人前の大人の男がするように、袖をつかんでなだめた。朝が来た。すっかり屋根も崩れ落ちた家の中を見た。火事の後すぐに雨が降ったため、黒くなった柱や畳は消防車の放水と合わさって水びたしになっていた。ふと見るとアルミの鍋が転がっている。近寄った。中からぜんざいになるはずの小豆がこぼれていた。炊き上がった煮豆を頬張った。おいしい。煮豆屋になる人生もいい。スーパーでビニール・パックで売られるようなものと違って、毎日炊くのだ。白、茶色、緑、黒、黄土色、それに大きさもいろいろだ。みんなつやつやテカテカ、ふっくらと炊いてあげる。大きな鍋も買うことにして。あの煮豆屋さんたちはどこへ消えたのだろう。それに火事の夜、真向かいで筆者ら親子を慰めてくれた駄菓子屋の人のよさそうな夫婦やおばあさんたち。威張り散らかす人なんかいなかったな。
人並みにまみれて同じ方向に歩いている。天気のよい春の日の午後だ。御所の一般公開があるのだ。それに向かう人々だ。流れに混じって歩んでいると、やがて中立売御門まで来た。中に入るとたくさんの人が砂利を踏んでさらに先に進んでいる。宜秋門から人が入るようになっているが、各人はそこで手荷物検査を受ける。爆弾なんか持っている人はいないかなというわけだ。それをパスして中に入った。御車寄まで来た時、警備員が拡声器で何やら大声で怒っている。「そこの人、禁煙だ! その外人たち! 引率者、何をしている! こらっ、煙草を捨てるな! 外人! 拾って持って帰れっ!」。10人ほどの中年のアメリカ人グループがいて、ひとりの大学の先生風の老人が引率して説明をしていたのだ。近くの女性が連れの女性に言っているのが聞こえた。「いやな感じね。あんなに怒鳴らなくてもいいのにねえ」「そうよ、何よ、横柄な」。ここは何と言っても天皇さまの御所であるのだから、みんなはしずしずとありがたく拝見させていただく場所というわけだ。気まずい空気は周りの人に伝染した。ちっとも桜もきれいでない。靴が汚れるだけの話だ。二度と行く気はない。
天気が悪いので傘を持って出た。それが正解であった。だが、雨は小降りでほとんど気にならない。問題は寒さだ。なぜこんなに肌寒い日が続くのだろう。それでももう今日しかない。天満橋に行くのだ。造幣局の桜の通り抜けが目的だ。いやそうではない。それは本当はどうでもよい。去年の11月に近鉄奈良駅前で見た路上ミュージシャンがこの時期にまたそこで演奏しているのだ。その情報を先日知った。彼らの健在ぶりをまた見るのが目的だ。京阪電車で天満橋駅に着いた。京橋駅から天満橋駅に向かうまでの外の景色は大好きだ。江戸時代はどうであったのだろうといつも想像する。水の都の大阪を今もよく伝えるのがそのあたりの景色なのだ。雨粒がいっぱいの電車の窓からでも、川向こうに桜並木がよく見えた。あそこをずっと歩いて行けば、きっとどこかで演奏しているだろう。だが、たくさんの屋台に混じって演奏するには地元の親分に挨拶をしていくばくかのお礼もしなくてはならないから、そんな仁義を知らない外人バンドはきっと全然別な場所で演奏しているだろう。それに問題は雨だ。ひょっとすれば雨のかからない場所で演奏している可能性もある。だが、そんな場所があるだろうか。そんなことを考えながら駅を出た。振り返ると駅ビルの中で、いつもは造幣局で売られている記念の煎餅などを販売している。通り抜けの人ごみの中でけが人が出ては困るので、今年からは場所を変えて販売することになったと新聞に書いてあった。それにしても無粋なことをするものだ。けが人が出る前に自粛というのはいいかもしれないが、もっとほかに方法があるだろう。そんなことを思いながら、すぐに大きな天満橋。それをわたる時の寒さ。来るのではなかったな。風も強い。人はみな同じ方向に進む。こんな雨でも花見というわけだ。橋を越えたところにある信号をわたるとすぐに交番がある。そこから通り抜けの道のりが始まる。白っぽい靴なので汚れてはいやだなと思いながらも仕方なしに傘を指して歩いた。交番から50メートルほど行ったところで、背後でかすかに音楽が鳴った気がした。振り返った。遠くで確かに鳴っている。その方向を見る。そこは一方通行の造幣局の通り抜けとは平行した帰り道の終点だ。人の列からはずれてUターンし、音の鳴る場所に行った。すると予想どおり、アンデス・バンドが演奏していた。路上だが、うえには大きな木があるので、あまり雨はかからない。だが、4人であったはずなのにふたりだけだ。去年見た顔で赤いポンチョを着ている。もうふたりはどうした。そんなことを思いながらまず写真を撮った。去年撮ったのと同じような角度だ。傘を指さずに済むように、ふたりの前を通って背後に回り、大きな木の下に行った。木は一段高い植え込みにある。50センチほどだろうか。そのうえに上がった。演奏するふたりをやや背後から見る形だ。真正面に公衆トイレ、背後に交番という位置だ。ほとんど人は立ち止まらない。花を見た客は別の方向から帰るのか、こっちに向かってやって来る人は少ない。ふたりは「コーヒー・ルンバ」を演奏し始めた。その演奏に乗ってひとりの中年男性が踊り始めた。それが実にうまい。通り行く人をまるで誘うような感じで手に持った傘を操り、さっさと回転しながら踊る。それは素人のものではなく、社交ダンスを学んだ人を明らかに示していた。踊る様子を見て楽しかった。出来るならば筆者も踊りたい。音楽はそのようなものだ。演奏が終わった後、男性は小銭をケースに入れ、すぐにその場を離れたが、奥さんだろうか、彼女だろうか、とにかく連れの女性がやって来たことを確認したのだ。ふたりは何事もなかったかのようにその場を去って、すぐに天満橋を歩いて行った。次の演奏は「コンドルは飛んで行く」だ。11月もそれでひとまず演奏が終わったが、その日もそうであった。だが、ほとんど誰も見ていない。雨と風でとても寒く、おまけに足元もぬかるんでいる。まったくさびしいショーは終わった。2曲しか聴かなかったが、次には京都で見たい。その時はCDを買おう。ふたりはまた九州に戻って演奏していることがネットではわかる。造幣局の桜は全く見ずにそのまままた天満橋を戻った。
朝、家内が叫ぶ。「牡丹が咲いたよ」。えっ、まさか、昨日はまだ緑の蕾であったのに。慌てて庭に出た。すると二輪とも咲いていた。今年の正月に牡丹で有名な大根島で2本だけ苗木を買って来たのだ。牡丹を植えるのは初めてだ。昔は毎年ゴールデン・ウィークになると牡丹の写生をするために長岡京の乙訓寺に行ったものだ。それが自分の庭で鑑賞出来るとは。おばあさんは絶対に咲くと言っていたがそれは正しかった。だが、1本は「島ノ藤」という紫色の品種であったはずなのに、ピンク色に咲いている。養分が足りなかったのだろうか。きっとそうだろう。おまけに日当たりもよくない。1日の半分は日が照る必要があるのに3分の1も照らない。近くに大きなグミの木や椿の木があるからだ。その枝を紐で括って少しでも日が当たるようにしてやったがそれでもまだ足りなかった。だが、もう途中で植え返ることは出来ない。5月中旬には咲いてくれるかなと思っていたが、何とふたつとも同じ日に一気に咲いた。牡丹には熊蜂が飛んで来るものだが、本当にそれがブーンとやって来た。写真も撮り、そしていつものようにはがき大の写生ブックに描いた。出かけなければならないので焦ったが、明日はもう同じようにはなっていないだろうから、今しかないと思って描いた。この2本をうまく手入れして毎年咲かせたいな。花が終わってからが大事で、手入れはいろいろと面倒なようだが。蕪村さん、どうすればいいかな。
桜がもう終わったある日のとても天気のよい暖かい昼下がりのこと、夙川沿いを歩いた。八重桜がほんのわずかに残っている。地面には散った花びらのほかに、まだしっかり咲いていたのに何かが触れて落ちたちょっとした八重の花の一輪があった。それを家内は拾ったがすぐに捨てた。よく見ると半分はすでに萎びて変色していた。去年4月18日、ひとりで西行が葬られている古墳のある弘川寺に行った。まだ桜が咲いていた頃だ。とても天気がよく、本当に出かけてよかった。大阪の南河内郡の辺鄙なところなので、京都からでは1日がかりだが、途中で藤井寺の葛井寺(ふじいでら)にも訪れた。西行の古墳はそれほど大きくはない。一周しても100歩ほどだろうか。富田林の駅で弁当を買い、それを古墳の前で食べた。誰も人がおらず、天気のよい昼間ではあったが、どこかひんやりとした空気が流れていた。ふと地面を見ると、八重桜の一輪が落ちている。まだ落ちたばかりのようだ。そのままにしておくのはもったいないので、左手に持って、右手でそれを描いた。その後、寺の背後の山部を歩いた。見晴らしがとてもよく、絶好の写生日和だ。西行がこの場所を好んだ理由がわかる気がした。わが家から直線距離で200メートルほどしか離れていないところに、西行桜で有名な寺がある。そこには西行の姿の古い木彫りもある。もちろん今はもう西行がこの寺に立ち寄った際の桜の子孫は植わっていないが、境内には枝垂れ桜が毎年花を咲かせる。夙川沿いをずっと歩いて国道2号線をわたり、さらに南下した。香櫨園の駅が見える頃、右手に赤い色の固まりが見えた。血のような赤だ。近寄った。椿だ。花は大きめで、黄色い匂いの部分も大きい。肥後椿系だろう。まだ細い幹をしたのが4、5本固まって立ち、満開になって地面に無数の花を落としている。あたり一面まるで血の海だ。古い花のうえに新しい花が重なり、厚い花絨毯になっている。すぐ傍らのベンチに老女がふたりこちらを向いて座っていた。にこりともせず、むしろ恐く見えた。「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」。これは西行の歌だが、老女たちもそんな気分で椿の木の下にいるのだろうか。花は踏むのをはばかられた。靴底が赤い血で汚れるようにも思えた。
(西行の墓を少し上がったところから眺めた風景)