「
予定なし 空白のまま カレンダー することせずに したいことなし」、「ニールさん 心の旅路 今いかに ヤングの苗字 常に若いと」、「キラキラの キャラ弁作り キャラを売る キャラメル添えて グリコのキリコ」、「忘れ傘 誰かの役に 立ちはすれ 忘れられ人 無益無害に」
一昨日投稿した後、本展を見るために大山崎山荘美術館に入ってすぐにもらえたA5サイズの小冊子図録があることに気づいた。その表紙の写真を今日の3枚目として掲げる。表紙込みで32ページで、全4章による藤田の軌跡と兵庫県立美術館の館長林洋子の「藤田嗣治の居場所」と題する文章が載るが、版型が小さいので作品図版はサムネイルほどだ。この小冊子は価格が記入されず、本展で無料配布されるために製作されたと思うが、評判がよければ版を重ねて販売されるかもしれない。一昨日はそれを全く読まずに古い図録を参考に書いた。また1985年の生誕100年記念展の図録に5枚の新聞記事の切り抜きがあることにも気づき、それらを全部読んで続きを書く気になった。訂正というほどでもないが、補足として書いておきたい。まず、今日の最初と2枚目の写真だが、これは10月12日に同じ美術館で見た『舩木倭帆展』の会場2階の一室に置かれていたもので、紙が薄く、また裏表ともチラシの表側としてデザイン的に機能するところから、チラシの試作であることはわかる。つまり本展開催2か月前の時点ではチラシのデザインが正式に決まっていなかったのだろう。そしてどちらも採用せずに、水玉模様のセーターを着てニューヨークで撮影された44歳時の写真が使われることになった。この写真は本展で初めて公にされるものというが、今日の2,3枚目の写真もそうなのかどうかは小冊子からはわからない。同図録の表紙に使われたのはキャプションによればフランス行きの三島丸船上で、1913年の撮影で、27歳だ。藤田の正確な身長が記録されているのかどうか知らないが、小冊子には小柄と書かれ、そのことはこの船上の写真から何となくわかる。しかし160センチ台であったように見えるし、明治半ば生まれではそれは高いほうではないだろうか。2枚目の写真のキャプションは「舞台装置(?)の飛行機に乗る藤田、1920年代」とあって、フランスで有名になった後のものだ。写真右端の布の皺のより具合から、舞台装置ではなく、飛行機の搭乗部分のみ人が入れる切れ込みが設けられた写真館の背景画ではないかと思う。とすれば一般人が同様の格好で撮った写真がたくさんあるはずで、地道に探せば今でも市場で見つかるかもしれない。藤田のこの写真は小冊子に掲載も言及もされず、藤田の写真は今後も出て来る可能性がある。また一昨日書いた柳宗悦と横並びになった写真についても小冊子には触れられず、これは今後の別の藤田の企画展が開催される可能性を示唆している。
小冊子を読んで知ったが、藤田の没後50年展が東京都美術館と京都国立近代美術館で2018年に開催された。一昨日書いたように後者では生誕120年展が2006年に開催されたので、12年後にまた藤田を取り上げたことになり、これはかなり異例のことだろう。筆者は展覧会のチラシを収集しているというほどでもないが、美術館で見かけると必ず持ち帰るので、藤田の没後50年展のそれもどこかにあるとは思うが、当時そのチラシを見て「またか」と思って気に留めなかったのだろう。それで同展に足を運ばず、図録の入手も考えなかったが、早速ネットで確認すると、図録の表紙は2種あって、東京と京都で違ったようだ。どちらの会場か知らないが、生誕120展のチラシに使われた有名な「カフェにて」が図録の表紙を飾り、その意味で生誕120年展と没後50年展の区別がなおさらつきにくい。ついでに書いておくと、「カフェにて」は生誕120年展では個人蔵とされるが、その後ニトリの社長が購入し、函館の自身の美術館の目玉作品のひとつに収まったのではなかったか。TVでその様子が紹介されていた。生誕120年展の後、12年の間に林洋子が本展に展示される手紙や最晩年の小品を研究し、その成果を盛って没後50年展の開催に漕ぎつけたと想像するが、小冊子に氏はこう書く。「監修に加わった2018年の没後50年展はいまから考えると奇跡のような宝物である。2018年の夏から秋にかけて東京と京都で、そして2019年1月からパリで実現した展覧会、その一年後からのパンデミックと、さらには国際的な紛争・戦争を考えると、もはや大規模な国際的な作品借用自体が経費や安全性だけでなく、欧州の美術館で展示される「エコロジー」的な考え方からなかなか実現することが難しくなったと思われる。」続く文章では本展は没後50年展と並行する形で着想されたが、コロナ禍のために今年の冬までずれ込んだとあり、また「回顧展を越えた、つぎのステージの藤田研究を感じさせるもの」とも書いて、先の柳宗悦との関係も今後の研究課題であろう。それで今日は続きとしながらも、藤田研究という大それたものではないにしろ、思いを書き添えておきたい。いつものごとく、筆者のブログは脳裏に次々に浮かぶ思いを整理せずに即興で書き、土門拳が藤田の作画を評したように、細部を積み上げて全体の構想を考慮しない。それは欠点であることは間違いないが、藤田が描きながら考えたことは、筆者が書きながら考えることとどこか似て、熱中するあまり、そこに意外なものが生まれることを信ずる思いはあったと想像する。藤田は下絵なしに描くこともあれば、しっかりと素描し、それを元に描くこともあって、素描は着色した本画よりも白描性が勝っているのは当然として、本画も白描を思わせ、素描と本画の区別は藤田にはほとんどなかったように思う。
それは素描段階で本画が完成していたことであって、素描と本画が大きく異なる例は藤田にはほとんどないだろう。本画は素描に足りなかった何か、それもごく細部を加えるだけで、それは即興で書いた文章をその後の推敲でわずかに文言を換えることに似て、藤田の本質は素描すなわち眼前の対象を一発勝負で描くことにあった。それを筆者は即興と呼び、筆者の文章もそうだと言いたいのだ。筆者の文章を何時間もかけて推敲すると、おそらく最初の熱気のかなり部分は失われてしまうだろう。それはどうでもいいが、藤田は描きたいと思った対象を目の前にして描いた素描を元に本画を描くとして、一方では慣れもあって型が生まれた。それはたとえば大津絵を描く職人と同じで、熟練によって同じような絵をいつでもどこでも瞬時に描き切る能力を持つことで、その職人的な型に嵌った表現に対し土門拳は時に目を背けたくなる作品があると評したのだろう。しかしそうしたいわば量産絵画ではない藤田の素描は忘れ難い印象をもたらす。日本の関取や南米や中国の現地人を描いた作品はフランス女性や猫を描いた絵よりも、あるいはそれらとは全く違う逞しさと言えばいいか、写実的素描に命を懸けた画家魂を見る。簡単に言えば抜群にうまく、同じ技量を持つ素描家はそうはいない。今思い出したが、ポール・ジャクレイの多色木版画に描かれる人物は同じ味わいを持つが、藤田のほうが美しさを気取らない分、装飾性を排して真実味が深い。しかしフランス女性や猫、あるいは少女を描くのに、同様の逞しい表現は盛れない。藤田はその意味で抜群に器用であり、またどういう絵が歓迎されるかをよく知っていた。それは売り絵を積極的に描くという意味ではない。売り絵特有のいやらしさは藤田にはない。売り絵は言葉を変えればきれい事で、美人を理想化して描く、あるいはそこにエロを加える日本の人気画家はいろいろいたし、今後も出て来るが、そうした絵のつまらなさは人間の真実味の幅の捉え方があまりに小さく、画一的であるからだ。金持ちで絵を理解しない人々にはそうした絵は大いに売れるであろうし、またそうした人に藤田の絵のどこが美しいのかは理解出来ないだろう。藤田の絵は表面上は決して美しくない。時に醜いとさえ見える。土門拳はそこを見て目を逸らしたくなると思ったのかもしれない。土門も対象の真実性を撮影することを旨としたが、写真と絵画とではその点は全然違う。絵画が写真を真似て超写実に邁進してもそこに真実が表現され得る保障はない。そこに森田子龍の書の絵画に対する優位性の考えを持ち出せば話がややこしくなるが、対象を前に一瞬で感得したことを、なるべく素早く自身の手で描く行為の中に、より真実味が出やすいことは確かではないか。そう考えると、どこまで真意であったかどうかわからないが、藤田が「モナリザ」をあまり評価しなかったことの意味がわかる。
ここでレオナルド・ダ・ヴィンチの話につなげる。藤田の描く女性や少年少女の顔は晩年になるほど定型が顕著になって行ったように見える。それは口元によく表われている。前述の「カフェにて」もその一例で、何かを話す前の口元ではなく、故意に何も話さないことを意識した、いわゆるきりりと結んだ一文字の口元で、藤田の絵を見る者は誰でもそれに無意識ながら気づき、土門拳ではないが、目を逸らしたくなる気分のようなものが湧くのではないか。頑なな表情を見て、絵に入り込むことが拒否されているような気がするからだが、なぜ藤田はそのような表情を好んだのか。笑顔を意識すれば口元はほころぶし、そうならなくても柔らかくなる。日本のアイドルの若い女性の顔写真が口を半ば開けているのは、写真を見る者に対して優しく語りかけてくれそうな、一方ではエロティシズムを感じさせることが目的だが、藤田の絵にはそういう味わいは一切ない。どの肖像画も口は意識してしっかり閉じている。ではその表情を藤田は何に学んだか。思い当たるのはダ・ヴィンチの絵だ。有名な「受胎告知」の天使は横向きで描かれ、口元はマリアに向かって話しかけているように半ば開いている。今日の4枚目の写真のように、天使から告知を受けるマリアの口元は、藤田の絵ほどではないが、しっかり閉じている。本展で展示された1947年の「スペインの女」の顔はこのマリアの顔と角度はほぼ同じで、藤田がダ・ヴィンチの絵を意識していたことが想像出来る。藤田がフランスに帰化してレオナールと改名したのは、ダ・ヴィンチを意識してのことであったろうが、藤田がダ・ヴィンチから影響を受けたとすれば当然人物像であって、またその口元に絞っていいのではないか。藤田の人物像の口元がどれも同じように定型化したのは、それが理想的な口元であったとして、なぜそのように理想化したかを考えるに、日本から脱出してフランスに住むようになってからは特に日本でのことを誰にも本音を明かすことを拒否したからではないか。つまり「見ざる、言わざる、聞かざる」の言わざるを絵で表明した。また固く結ぶ口元は抵抗の表現であって、少女がその表情で描かれるのは藤田の思いを代弁すると同時に、大人に対する懐疑の表われもあるだろう。もっと言えば大人は子どもより純粋でないとの思いだ。藤田はそのことを戦争絵画の責任問題で日本で思い知らされたのではないだろうか。藤田は何度も結婚したのに子が生まれず、晩年に子どもをよく描くようになるのは、彼らを純粋にかわいいと思ったことと、自分の子を持てなかった悲しみゆえの理想像でもあるだろう。本展の小冊子に図版が載るので思い出したが、藤田手製の額に4センチ四方の絵を収めた1955年の作品「二匹の猫を抱く少女」がある。裏面に「Pour Kimiyo」と書かれ、キャプションではこれを遺言と見ている。
その少女の表情も相変わらず口元を固く結び、頬にもそのために出来る影が強調されている。またこの小品は「モナリザ」の構図を反転しつつ、胸元に猫を加えた図で、藤田の画業はダ・ヴィンチと猫と少女の三点に凝縮されたものであったと見てよい。藤田はよく猫を描き、実際に飼ってもいたのだろう。少女は自らは得られなかったが、汚れのない存在として憧れの対象であったはずで、ダ・ヴィンチの女性を描いた絵もそうだ。それを最晩年に4センチ四方に凝縮して描いたところに、日本人特有の「縮み志向」、佐野常民時代から日本が国際的に広めた模型の精神の表われがある。言い換えれば紛れなく日本の手仕事の技術を受け継いだ藤田で、それを西洋絵画の伝統に対して生涯を費やして問うた。藤田は晩年に小品が多くなったのかどうかだが、本展を見る限りはそう見えるし、そのことは最初の妻に書き送った手紙に添えた絵と直接つながっている。これは藤田の画業がミニチュアの絵から始まってそれに戻ったことであって、そこに日本人の特長が出ている。藤田が晩年に木製の玩具や小さな絵を製作したのは、自分が没後に妻が経済的に困らないように配慮したためと小冊子では書かれる。その妻は藤田が50歳で結婚した堀内君代のことで、生誕100年展の図録には君代の年齢は書かれないが、小冊子には2009年に亡くなり、また藤田より二回り年下であったとされる。50歳の藤田は自分の半分の年齢の妻を得、藤田が81歳で死ぬ1968年まで一緒に暮らし、当時君代は57歳となるが、1910年生まれであれば99歳まで生きたことになって、藤田と生活した期間より10年長生きした。藤田がそれほど妻が長生きすると思ったのかどうか、ともかく藤田の作品を売りながら暮らして行けるようにとの配慮から小品を作った。君代が実際にそうしたかどうか知らないが、戦後すぐに藤田が宮本三郎に語ったように、腕一本さえあればどういう時代になっても食べて行けるという考えは本心であったろう。それは絵描きは絵だけ描けばよいとの信条でもあって、藤田が妻のためにどういう作品をどれほど製作したかは特別の展示が今後なされるべきだろう。あるいは本展がそのひとつであるはずだが、林洋子は君代と会ったことを小冊子に書き、本展は君代の考えを代弁したものでもあるだろう。そこで思い出すのが生誕100年展の際、新聞に載った記事だ。前述したように同展図録に記事の切り抜きが3点挟んであって、その1枚は1989(平成元)年10月9日の読売新聞で、「豪華カタログは著作権侵害 故藤田嗣治画伯の夫人勝訴 東京地裁賠償命令」の見出しがある。同展の図録は表紙が金色一色で、藤田の作品図版ではない点がかなり奇異であったが、著作権の問題を関係者は気にしてそういう装丁にしたのだろう。結果を言えば君代に347万円が支払われ、図録の販売は禁止、原版は廃棄された。
筆者はその経緯を知っていたので生誕120年展は意外であった。しかし同展は君代が亡くなる3年前で、君代は出品に協力したであろう。そうなれば君代のいない没後50年展はもっと開催が容易であったであろう。生誕100年展の図録は1900円で約1万8千冊が販売された。347万円の賠償金は1冊当たり193円で、図録の販売価格からすれば妥当な気がする。当初君代は図版の複製を断っていたのに、東京の美術展企画会社が著作権法にある「観覧者のために著作物の解説または紹介をすることを目的とする小冊子」として製作販売した。著作権法には、図版の大きさは1ページの天地高さ半分未満とあるのに、美術展企画会社はその点を無視し、画集と変わらぬ体裁で印刷した。売れ残った図録は廃棄されたはずだが、売れたものは今ではネット・オークションでも買える。新聞記事の切り抜きのうち他2点は藤田が日仏の関係の窓口になる機関に描いた絵だ。87年4月12日の記事には、昭和11年に京都の日仏会館に寄贈した縦2.1、横2.7メートルの額装された絵が紹介され、3人の女性や白い犬、リンゴの木などが野原を舞台に描かれる。筆者は同会館の前を何度も通りながら、訪れたことがない。レストランの名前が変わっても展示されていたようだが、コロナ禍で店は閉鎖になったのではないか。そうなれば絵をどこに飾るかだが、日仏会館がある限り、失われることはない。次は2000年1月23日の記事で、ェクトで修復する話題を伝える。絵画は「日本への渡来の図」と「馬の図」で、1929年に豪商の薩摩次郎八が藤田に依頼した。「日本館」は武家屋敷風で、双方の絵画は金箔地に描かれたという。没後50年展の作品を知らないが、こうした半ば埋もれた作品の展示があったのかどうか。それに昨日書いた巨大な壁画2点はどうであったのだろう。ミニアチュールから巨大壁画まで、藤田の画業は途方もない。そして若い妻を得たにもかかわらず、子をもうけることが出来なかったのは実際の秀吉を思わせ、大物の生涯は案外そういうものであることを思う。さて、一昨日書いた元GHQで藤田の作品の収集家となったフランク・シャーマンは自分の死後に藤田の作品は日本にあるべきと考え、本展で展示された藤田のシャーマン宛ての手紙は目黒区立美術館の所蔵と記される。絵画ではないが、藤田の生涯を知るうえで貴重なそうした資料は公的機関が所蔵すべきだ。前述の「二匹の猫を抱く少女」は岐阜県美術館に寄託中で、君代が所蔵していた作品はいずれ美術館に入るだろうが、日本の美術館は作品の購入資金が乏しく、寄託か寄贈に頼ることは情けないが、外国にあるよりはいい。しかしそれは藤田が、日本画壇は国際的水準を目指すべきと言ったことにどう寄与するかの問題はある。筆者は芸術作品はなるべく世界に散らばっているのがいいと思う。一か所にまとまれば、特に災害日本では危険だ。
これも小冊子に図版があるので思い出したが、1957年の「路傍」と題する作品はベンチに横になって眠るホームレスの母子を中心に置き、背景上部に制服姿の子どもたちが通り去る列が小さく描かれる。これは明らかに貧富の差のある現状を示す意図があり、藤田が貧しい母子を気の毒に思っていたことが伝わるが、絵を描く腕は持っていても絵が売れないことには収入にならないという不安も抱えていたからではないか。藤田夫妻はパリからかなり東方のランスに定住し、シャーマンは縁もゆかりもない同地で藤田がさびしかったことを想像した。それはともかく、「路傍」も手製の額に収めるミニアチュールにも描かれ、その際には背後の学校に通う子どもたちの列は除かれた。「モナリザ」に通じる「二匹の猫を抱く少女」とは違って浮浪者母子を描く絵は売り絵としては考えにくく、藤田が君代と目撃したその母子の姿によほど感銘を受け、そして描いたのは、自分の没後に君代がその母子のように経済的に困窮しないように、一種の警句として作品を描いておこうとしたからではないか。それは自分には描く才能があるという安堵感ではなく、浮浪者に対する同情だ。それは人間であれば誰にもある感情だが、従軍画家となった藤田にすれば平和時にも家もない人がいることの現実を、それもフランスで確認し、描かずにはおれなかった。そこに藤田がキリスト教に帰依した理由もあるに相違ないが、現実は日本もフランスも同じで、貧しい人に救いの手を差し伸べる人は稀だ。本展小冊子には藤田が戦後フランスに入った時、高額な税金を支払う必要があったことを書く。それを支払うには絵を描いて売らねばならない。そして売れる絵となれば美しい女性や少女が相場で、それは藤田が得意とするものであったので問題はなかったが、それらの人物の口元はあまりに引き締められている。レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」と比べれば、受胎を拒否していると思えるほどだが、不幸な現実を嘆いているのでは全くなく、果敢なくそれに向かって行こうとする気力が伝わる。それは藤田の晩年の心境そのもので、精神の強靭さを失うことはなかった。明治生まれはそのような人物は珍しくなかったであろう。今もそうした人はいるはずだが、藤田ですら戦後大いに叩かれたことを思い返せば、才能があまりに目立つ人物は早々と疎外されて世に出て来られないのではないか。また藤田は戦後の美術界で抽象絵画が流行になっていることを当然知っていたが、藤田より5歳年下の堂本印象がその動きに反応し、晩年は書の持ち味を加味した著色の抽象画に進んだことをどう思っていたろう。抽象絵画を手がける気力がなかったか、知っていながらそうした絵画は売れないはずで、君代の助けにならないと思ったか。写実に徹底して抽象にいわば逃げなかったところに藤田の人間臭さがある。
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