「
知らぬこと ばかりに気づき 仏かな 生まれて死ぬも みな仏なり」、「アマチュアと 呼ばれてひがむ 甘ちゃんは アマチュアちゃんと ちゃんと呼ぶべし」、「写真見て 老けた自分を 確認し 老いを拒否して 加工しまくり」、「年よりも 若く見えるは 無責任 はた迷惑を 知らぬ顔つき」
今月12日に兵庫県立近代美術館で本展を見た。次に急いで行く場所があったので、最後の2部屋はほとんどまともに見ていない。チラシを入手出来ず、図録を買わなかったが、会場は撮影が許され、数枚撮った。今日はそれを元にして書くが、いつも以上に適当な内容になるのは以上の理由から仕方ない。感想を書かずに済ますほうがよさそうだが、二度と安井仲治について書く機会はないはずで、少しは触れておこうと思う。仲治は「ちゅうじ」ではなくて「なかじ」と読むことがチケットの「安井仲治」の4文字の背後に影のように印刷される平仮名からわかる。1903年まれで38歳で病死し、本展は生誕120年に相当する。展示数は多く、活動が旺盛かつ多彩であったことがわかる。戦後まで生きていたならば作品にどういう変化があって、どう評価が下されたのか、若死にはもったいない気がするが、それを考えても仕方がない。与えられた寿命の中で安井が懸命に写真を撮って考えた軌跡を紹介するのが本展で、現在の写真家にもさまざまなことを突き付けているのだろう。本展を見てまず思ったことは、大阪生まれの安井は経済的にかなり恵まれていたことだ。今でも写真撮影を趣味とするのは経済的なゆとりがあってのことだろう。機材に凝り、旅して撮影場所に赴くのは、金も暇も必要だ。そうでない人ももちろんいるが、人目を引く写真を撮るには才能もさることながら、運と根と金が要る。そう思ってしまうと、昔も今も写真家は画家以上に気楽でいいなと思われるだろう。デジタル時代になってフィルム時代より写真を紙焼きすることに安上がりになったのかどうか知らないが、フィルム・カメラからデジタル・カメラに持ち替えた写真家は機材によけいな出費を迫られ、なおのこと経済格差が出て来たのではないだろうか。筆者の昔の知り合いに、ある会社の重役を定年退職した男性がいて、趣味として写真を学び始め、ハッセルブラッドのカメラを手に海外を旅して撮影していたと聞く。カメラだけでも1千万円近くし、それに外国旅行であるから、金持ちの道楽と思われて普通であるし、実際そうであった。そういう趣味人は戦前からいて、安井もその部類であったが、自分で現像して焼き付けもするので、手作業に時間を割く分、仕上がった写真は味わい深いものになる確率は高かったであろう。ただしそれは技術と感性の多寡の問題で、安井の名が現在伝わって回顧展が開催されるのは安井が生きた時代において特筆すべき仕事を残したからにほかならない。
これは趣味人であっても、仕事は正統に評価されることを示しているが、カメラを手にして凝った焼き付けも自分で行なった時代と違って、デジタルの現在はもっと即物的になって、よい写真の定義が難しくなっているのではないかと想像する。筆者はこのブログのためにたいてい毎回写真を撮って載せるが、画素数をかなり落とす必要もあって、不本意な場合が多々ある。ないよりはましかとの思いに過ぎないが、それでもトリミングを施して構図にはこだわっている。それゆえ写真の面白さは知っているつもりだが、高価な機材を揃え、遠方に旅してこだわって撮りたいとまでは思わない。それをするなら絵を描く。しかし絵と写真は方形内に構図を定めることは同じだが、予期しないものまで写ってしまう写真と、不要なものは描かない絵とは根本的に異なる。また写真はどんなものでも撮影出来るが、絵画には不向きな場面がある。たとえば電車の窓から向かい側の電車の窓を見通し、その窓から見えるさらに遠方の景色を見ることはよくあるが、それを写真に撮ると誰にもその状況がよくわかるが、絵画向きの眺めではない。絵に描いてもさして面白くならないだろうし、自分が乗っている電車の窓と向こうの電車の窓との距離感はうまく描き切れないはずだ。その点、写真は遠近とも正確に捉える。以上の情景をもう少し凝ったものにした場合はなおさらだ。電車の中にいて向かい側の電車の窓の向こうの景色の中のあるビルの窓が西日で光っていることに気づく場合がある。カメラがあれば即座にその眺めが撮影出来るし、その写真は何枚ものガラスを通して遠方に見えるガラスが光っている様子を誰でもよくわかる二次元の画面となる。同じ感動、感覚を絵に描こうとしても無理だろう。絵画も光と影を描くとはいえ、その光と影を最も正確に画面に定着出来る手段は写真だ。その意味で、写真が登場してから画家は写実以外に抽象絵画の道があることに気づいた。そして写真のほうも抽象表現が出来るとばかりにそうした写真がヨーロッパで生まれ、すぐに日本でも追随者が登場したが、写真は絵画には不向きな写実に進み、絵画は抽象表現を除けば写真にはない虚構的写実を求めるようになった。あるいは抽象と写実の混在もあって、要はびっくりさせるような絵を求める向きが強くなって来たが、写真も絵画も作者がいるから、結局のところ、作品に作者のどういう思いが反映しているかを人々は見抜くし、やがて自ずと作品の評価は定まって行く。それは端的に言えば人柄ということになりそうだが、筆者が作品は人柄を表わすと思っていても、そう思わない人もある。作品と作者は別で、作品だけが優れていれば人となりはどうでもよいとの考えだ。それに人となりの実際は誰にもわからない。それで作品を通して作者を想像し、人は優れた作品を求める。
何で読んだか忘れたが、ある有名な著述家は金をもらわねば文章を書く気がしないと言った。金を得るために文筆活動をしているプロであるから、仕事は必ず対価を求めると言うのだが、それは金ももらうからには金をくれる人の意に沿うような文章を自在に書く能力が自分にある、すなわち自分はサービス業をしているという考えだ。それがプロであると本人は自覚しての人生であったのだが、そこで筆者が思い出すのは10代後半で読んだカフカだ。カフカはどこに発表するあてもないのにひたすら小説を書き、死の間際に友人のマックス・ブロードにその原稿一切を燃やすことを頼んだ。しかしマックスはそうせずに原稿を公にし、カフカの名は世界的に知られるようになった。完全なアマチュアであったカフカは名声も金も求めずにひたすら書いた。そういう考えや活力を前述の日本の物書きは理解しないだろう。プロは生活するには金が必要であるからと理由づけるだろうが、金を得るための仕事が金目当てでないアマチュアのそれよりも高尚である保証はない。自作を売る必要はなかったからでもあろうが、安井はアマチュアを自認していた。それは本展で示された安井の言葉を印刷した文字パネルからわかった。当時プロの写真家となれば、写真館を経営して一般人の肖像写真を撮るか、絵はがき用に風景を撮るか、あるいは新聞記者となるかくらいしかなかったと想像するが、好きな対象を好きなように撮った芸術的写真は同好の士の間で披露し合うくらいしか方法がなかったのではないか。戦前にも当然写真雑誌はあったはずだが、そこで芸術志向の写真が紹介されても、その実物をほしがる人はほとんどいなかったのではないだろうか。白黒写真であっても長年壁に飾れば色が飛ぶし、それなら絵画のほうがよいと一般人は思う。今でもそうだろう。となると写真家は絵画を意識し、なおかつ絵画では表現し得ない画面の仕上がりを意図する。安井の初期の作品に猿回しを捉えたものがあって、猿回しの男と猿以外に横並びで老若男女が背後に写っている。この写真はゼラチン・シルバー・プリントにブロム・オイルの技法を足したものと説明があったが、前者はよく耳にするものの、後者はよくわからない。油絵具を何にどのように塗っているのか、写真を凝視しても筆者には理解出来なかった。それはともかく、油絵具を用いて焼き付けたことは、油彩画の質感を求めたからだろう。これは写真のみでは重厚感が欠けるとの思いとして、やはり写真の地位が絵画よりも低いことを意識していたからとなる。それはネガがあれば何枚でも同じプリントが出来ることの後ろめたさでもあって、焼き付けの段階で手仕事を加えて絵画のように一点ものを意図した。つまりネガに写ってしまった唯一のものを手加減しに創意工夫を施したが、写真の加工はデジタル時代ではさらに巧妙な方法が多く開発され、修正や変形など、何でも自在になった。
写真の世界ではヴィンテージ・プリントが高く評価される。版画と同じで、最初のプリントや摺りをオリジナルと見る。本展ではヴィンテージ・プリントがない場合、残されたネガから新たに紙に焼かれた。それがヴィンテージとどう差があるかは誰にもわからないが、ネガがあるからには焼く付けが出来るから、ヴィンテージがない場合はそうするしか方法がなく、また新たに焼いてみることで発見されることも多々あるだろう。生前から有名であった安井であるので、ネガのおそらくすべては保存され、戦災に遭わなかったのだろう。それは絵画と違ってネガははるかに嵩張らなかったためでもあろう。ネガも保存環境によっては劣化が激しいはずだが、モノクロであればその点はカラーよりはるかにましではないだろうか。デジタル時代になって写真の保管はさらにコンパクトになり、画像データは物理的な場所をほとんど取らなくなった。筆者がブログに文章を書くのも同じ理由で、ブログ運営会社がつぶれない限りは筆者の文章はネット上で無料で誰にでも晒される。前述した金をもらわねば文章を書かないプロとは違って、筆者のブログはアマチュアで、安井のように好きなことを好きなように書いている。ついでだが、以前ブログのコメント欄にコメントを書き込んでいた人物は、筆者がそれを期待しているかのようなことを書いた。その直後、筆者はコメント欄を閉鎖した。誰のコメントも期待していないからだ。褒められても別段嬉しくないし、密かに書いていることを誰かが密かに読んでくれればそれでよいし、誰も読まないでもかまわない。自分が感じたことを文章に出来ることが楽しいのであって、収入につながればいいに決まっているが、そういう大それたことは思わない。その点は安井も同じでなかったかと思う。ただし安井は生前から有名で、没後に公の機関で広く紹介されることになったのに対し、筆者は大いなる無駄な行為をしている思うこともあるが、それを言えば誰の人生でもそうだろう。安井の仕事を知っているのは写真好きなごく一部の人であるはずで、芸術はそのようなものだ。それでもそれが必要であるのは、あまりに世の中がくだらないことばかりであるからだ。さて、安井はテーマを見つけるとしばしそれに没頭したようで、本展でもテーマ別、あるいは時代順かもしれないが、安井の仕事がいくつかのカテゴリーに分けられていた。最後の2部屋はユダヤ人が神戸にたくさんやって来た時の撮ったもので、これは安井の代表作として昔見た記憶がある。同じ時期か、サーカス小屋の女性を撮った作品も何かで見た記憶が蘇った。そこに共通するのは簡単に言えば人生の悲哀だ。安井とは全く違う境遇の人々の生活を見る優しい眼差しと言ってもいい。それは初期の猿回しにも表われていたもので、好きな写真を撮れる身分の自分を見つめていたとも思える。
ファインダーを通して冷徹に対象を見つめるというカメラマンならではの態度は安井に明白にあったが、それ以上に眼前にいる人々の生活や行動を理解しよう、あるいは同情の思いがあった。それは筆者の感傷かもしれないが、大きく感じ入った数枚の写真があった。どこで撮影したかは説明がなかったが、朝鮮人部落を取材したシリーズ写真だ。豚小屋かあるいは掘っ建て小屋的な住居か、そして4,50代の痩せた女性が豚に餌を与えているのか、川の土手のような殺風景な場所を訪れて撮ったもので、安井はそのことについて言葉を残している。正確には覚えていないが、安井はその朝鮮人部落で人々の逞しい生活ぶりに心を打たれ、それが人生で初めての経験であったというような意味のことを書いた。自分の生活とは天地の開きがあるほどの貧困を強いられている朝鮮人たちに同情するというより、その生き様に驚嘆したという思いだ。そこに安井の優しい性格というものより、安井の写真を撮る以前に人間としてごくまともな感情を持っていた姿が明らかにされていて、筆者はその言葉に感心した。戦前の在日朝鮮人の生活ぶりを撮影するのはかなり勇気が必要であったろう。そういう部落に入って行くことすら普通の人には考えも及ばない。それは昭和30年代になっても同じで、ましてや戦前ではカメラをかまえた一般人が部落に近づけば危険と言われていたはずだ。ところが井上はあえて侵入し、そして感動して写真を撮った。現在なら森山大道がやりそうなことだが、森山はそうした日本のディープな場所に潜入して撮影することを積極的に好んでいるだろうか。また今ではそうした人々をまともに見つめてカメラを容易に向けることは困難かもしれない。しかしそれは井上も同じかもっと難しかったのではないか。写っている朝鮮人女性に許可を得たと思うが、それが快い返事であったので勇気づけられたのかもしれない。それはともかく、社会の底辺の人々を撮ることは猿回しや放浪ユダヤ人の写真に通じていて、安井は経済的に裕福な自分をどこかで恥じていたのかもしれない。しかし道楽とみなされるアマチュア写真家であれば、それなりの矜持は示したいはずだ。そこで考えたのが、普通の写真家では意識しない被写体を見つけることだ。本展のチケットに使われた若い男性の労働者の顔にも悲哀は浮かんでいる。安井と同世代か、ファインダーを覗きながら安井はこの男と目があった。デモする人々からクローズアップで捉えた唯一の写真かどうかわからないが、横3枚、縦6段の計18枚の写真がひとつの額に収められる中、最下段の中央の写真がこの男の上半身を捉える。そして男の顔をトリミングし、他の構造物を重ね合わせて作品としたが、本展ではネガからその過程が再現された別の組写真が額に収められて展示された。それによれば男の顔は左右反転して焼いたことがわかる。
そのこだわりは画家が構図を腐心することと同じで、またよほどこの男の表情が心に残ったのだろう。男の顔はさびしげで、何かを訴えている。それは生活苦が根底にあるやるせなさで、虚無感と言ってもよい。安井はストでデモ行進を目の当たりにし、彼らが警官によって殴られる様子も撮影した。横3枚、縦6段の組写真では上から5段目中央がそれだ。画面左上の逃げようとするデモ隊の下半身の群像や警官に殴られる男も切り取り、警官のみの背後と捕獲する警官と捕獲されるふたりの影を中心に焼き付けをした。いたたまれない現場をそのまま再現せず、暗示に留めたのだが、この作品を見る者はそこにただならぬ暴力的なことが起こっていることは感じ取る。無駄を排して真髄のみで見せ、そうすることでなおのことデモの一瞬の不幸な出来事が凝固した。安井には政治信条はなかったであろう。そのため朝鮮人部落やデモ隊と警察の衝突の撮影は何かに抗議したいためではない。またそうした安井とは別世界の眺めを芸術写真に昇華させたいという冷酷さが勝ってもおらず、ただ目の前で起こっている現実を写真に撮り、それを自分が感じたように端的かつ完璧な構図に仕上げることのみに心を砕いたであろう。写真が見る者に最大限に訴求力を持つには、そういう態度とそのように自分が満足出来る形に仕上げる能力を持たねばならない。それがアマチュアを自認しても本当のプロというものだ。言い換えれば作品に責任を持つことで、写真という技術の可能性を追求する。漫然と撮ってこれが自分の感性であると開き直るところには、安井のような綿密に考えられ、組み立てられた写真は生まれようがない。先の影を中心にトリミングした写真からわかるように、写真は光と影で構成され、そのことを静物画的な写真で安井は追求した時期があった。たとえば光沢のある面に落ちる影の形の面白さを捉えたものだ。また階段に並べて立てかけた鎌と斧の影が、アルファベットのBの形にように階段に落ちて黒々と見えている写真などで、実物が影になった時に予想外の形に見えることに着眼した。それも絵画ではほとんど行なわれない眼差しだが、キリコの絵には街中に置かれた彫刻や人物の影が異様に印象的なものがあって、安井はそれを知っていたかもしれない。となれば形而上写真を目指したことになりそうだが、そういうことはとっくに誰かが書いているだろう。会場には「結局アマチュアの楽しみでやっているので新鮮な魅力を感じるときは飛込むのも必要だろう。」など、安井の残した言葉の紹介も多く、特に気になったものを写真に撮った。読みにくいが、撮ったものを全部載せる。また中庭に面したガラスには、「いろはカルタ」に倣っての安井の信条を文字シールで貼り詰めてあって、そのひとつに「アマチュアーとて甘やかさぬがよろし」というのがあった。短い写真家人生の安井であったが、やり尽くした感を抱いた。
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