「『
徒に 生きるはよしと 仏言う イキる神様 悪戯生徒」、「踏み台に 上って届く 神棚に 触れて足元 揺らいで転ぶ」、「自惚れの 強さで励み 腕磨き さらに自惚れ みんなは呆れ」、「熟練と 創意工夫の 双方に 社交と度胸 芸で食うには」
今年最後の展覧会の感想を書く。22日に大山崎山荘美術館で見た。この美術館は小さな部屋ばかりで壁面が少なく、大作は展示出来ない。安藤忠雄設計の地下の展示室はいつもモネの大作が3点飾られ、本展のような企画展には使用されない。モネの大画面を収蔵する空間がないのかもしれない。それはともかく、小部屋に展示するとなると小品ばかりとなる。藤田嗣治は幅が10メートル以上もある巨大画面にも描いたので、小品中心では真髄がわかりにくいと考えがちだが、本展の副題にあるように、手紙、また小品を意味する手仕事の作品からも充分に個性はわかる。それはリー・ウハンの著作『縮み志向の日本人』そのものを体現する見事な一例で、藤田の絵を理解するには一点一画をおろそかにしないという細部に注目せねばならない。『縮み志向…』を批判する人が例に挙げるのはたとえば戦艦大和で、日本は巨大なものも世界に負けずに作る能力があると主張するが、リーが「縮み志向」と言ったのは小さくまとまって満足する内向性の意味に限らない。細部を厳密に捉え、その集成で大きなものを作るという思想が日本人特有と思えばよい。細部が駄目な造形に全体がよいはずはない。名作の細部が荒く見えている場合、それで充分であるとの画家の考えからであって、その荒さは消極的意味の手抜きではない。それはともかく、藤田の作品は小品であれ、極大の作品であれ、細部に神経が行き届いている。その意味は本展で展示された手紙や小さな画面の絵画、あるいは手作りの人形や陶芸作品からもわかる。簡単に言えば、藤田は手先の器用さを誇り、あたりまえのことながら、その技術は修練を積み重ねて得たものだ。その意味で藤田の作品はいくらAIが進歩しても模倣作であることがわかる。これが画面上の図像を重視する画家、たとえば横尾忠則であれば、AIは容易にもっと驚くような複雑、突飛な画面を作るし、いずれコンピュータは画面上の図像ではなく、絵筆を持って描くだろう。そこには修練を重ねて得た、画家のみに可能な精神が宿った個性は生まれない。生まれるとすれば、AIが人間そのものになった時だが、子どもを簡単かつ無限に生める人類がそういう技術を開発する意味が元来ない。ネット時代になって何でも画面で見て満足するようになると、画家もいかにして驚くべきイメージを作り上げようかと腐心するようになって不思議でないが、その夢悪的イメージは、百年前にさんざん使い古されたデペイズマンの思想で簡単にAIでも生み得るが、それは真の詩情とは無縁で、画家が無理やり作り上げた気まぐれ、つまり出鱈目を得意がることであって、落書き同様につまらない。
佐野常民の言葉「美術は此の如く国家の品位を高むるのみならず又工業と密着して之を助け…」における美術は、手仕事を工業化する考えで、明治の日本はそのことを万博で世界に示し、美術工芸品を輸出したが、藤田の仕事はその延長上で捉えるとわかりやすい。藤田は1886(明治19)年に東京で生まれ、佐野より64歳下であった。佐野が死んだ1902(明治35)年、藤田は16歳で、中学に通いながら夜間学校でフランス語を学び始めているから、佐野と同じように目は外国に向いていた。そして外国に負けない絵画は何かと考えて日本の絵画が伝統的に誇る技術を学びながら西洋画を描くようになるが、日本のイメージに固執せず、画題は好きなものを選び、それをまずどういう線で描くかに専念した。その誰にも同じようには引けない線描の技術の獲得は、たとえばザッパのギター演奏と同じで、卑近な言葉になるが、血を滲ませる努力をせねばならず、またそれは好きなことであれば寝食を忘れて没頭出来る性質であることも意味する。しかしそれをすればいい作品が生まれ、また有名になるかと言えば、保証はなく、たぶん99パーセントの人は無名で終わる。一方、ハイネが諷刺したように売名が上手な者はいつの時代もいて、彼らは中身空っぽのままで時代の寵児になることに血眼になるが、没後は見事に忘却される。それどころか永遠に恥を晒し続けるのだが、本人たちはそうなるとは思わないほどに自惚れが強く、またそうであるゆえに後の代で正統な評価が下されて顧みられなくなる。藤田が世界的に有名になったのは、世渡り上手な面が誰よりも大きかったからだが、それよりも優先したことはやはり技術力だ。それはどの画家も苦心しながら独自に見出さねばならず、また誰かが簡単に真似出来るものであってはならない。完璧な技術を手にすれば自尊心は高まるが、独自の描画技術がないのに自尊心だけが高い画家がいるし、また藤田の線を模倣した贋作はたくさんあるが、必ずどこかに馬脚を現わしている。結局誰よりも練習して他の追随を許さない境地に至るしかない。それは古来手仕事の世界では常識であった。藤田はその伝統を継いだ。明治生まれではそれは当然かもしれないが、画家は自分の手で描くのであるから、技術重視は基本中の基本ではないか。ところが日本では手仕事は明治のようには盛んでなくなり、服も自分で縫う人は稀で、食事も店で済ます若者も多いだろう。そうなれば手仕事が軽視され、画家の技術が落ちるのも当然で、画家はいかに名前を将来にわたっても売るかを描画技術の獲得以上にこだわるが、それは世間と絵画をなめた行為だ。そういうことは普段絵画を見ない人にも案外伝わる。名声好きのミーハーは有名人となれば何でも絶賛したがるが、今の日本はミーハーが大手を振って眼力のある人は口をつぐむ。
本展で初めて見た写真がある。説明書きはなかったが、東京駒場の日本民藝館を藤田が訪れたのだろう。柳宗悦と横並びになってふたりとも笑顔の白黒写真が飾ってあった。藤田はスーツ姿でとてもよい表情をしていた。それは俗物ないし平凡な人と話したのでは出て来ないものと言ってよく、藤田はぜひとも柳に会いたかったのだろう。その写真がいつ撮影されたかとなれば、両者の年譜を対照させると、藤田が渡仏のために渡米する直前ではないかと想像する。となれば1949(昭和24)年3月以前で、たぶん離日直前、別れの挨拶がてらに柳に会いに行ったと思う。柳は1889年生まれなので、藤田よりも3歳下だ。藤田が柳をどう思っていたかを全く知らないが、本展の主題の手仕事を考えれば藤田が柳に接近して何ら不思議ではなく、柳も藤田の職人芸的な絵画を好意的に見ていたことは納得出来る。藤田と後輩画家との関係は後者が前者を神のごとく思うといった、大物の藤田の前でちぢこまる子犬のようなもので、日本画家も含めて藤田には盾突くことは出来なかったろう。それは絵で示した実力による。ここで話は脱線する。筆者が中学生の時の学校の美術の先生の苗字は「藤田」であった。そのF先生は生徒が人前で話すことを恥ずかしがらない訓練として、毎週美術の授業中に黒板の前で2,3人に何か話させることが始められた。歌などを披露することもよい。F先生に学んだ3年間にそういう機会が3,4回あって、筆者はある回で新聞の切り抜きを持参してそれを読んだ。1966年、藤田嗣治がフランスで教会の壁画を完成させたことを伝える記事であったはずだ。当時筆者は15歳になる直前で、ビートルズの曲を毎日聴いていたが、今にして思えば有名画家の新聞記事に目がつきもしていた。藤田はその翌年に81歳で亡くなるが、藤田の展覧会を最初に見たのは図録に記す年月日から77年2月13日で、会場は大阪の阪神百貨店であった。箱入りの図録で、文章が読み応えがある。また本展の出品作はかなりの部分、その77年展とだぶる。この77年展は生誕90年、没後10年で、大阪以外にどこで開催されたかの記録が図録にはない。次に見たのは1986年の生誕100年記念展『レオナール・フジタ展』で、東京、大阪、京都、広島、福岡で開催された。広島、福岡以外は77年展と同じく百貨店での開かれ、そこに藤田の日本での取り扱いの難しさが露呈していると当時の筆者は思った。86年展の図録に藤田の他の日本での展覧会のチラシを挟んであって、88年11月から翌年2月にかけて東京都庭園美術館で『レオナール・フジタ展』が開催されたことがわかる。ようやく決定打となったのは生誕120年『藤田嗣治展』だ。2006年5月から7月にかけて京都国立近代美術館で開催され、これは図録は買わなかった。
同展で最も印象的であったのは、長年アメリカにあって日本に戻された戦争画が展示されたことだ。戦争画については70年代半ばにオットー・ディックスの銅版画を見ていたし、またディックスの油彩画は画集で知っていたので、藤田のそれはさほどショックではなかったが、理想化抜きの克明な惨状の描写はあまりに迫真的で、藤田の最高傑作と言ってよい。藤田以前にも以降にも誰も描けないもので、厭戦気分を惹起すると言ってもよく、当時軍部からも手放しで賛美されなかった。敗戦後、藤田は横山大観や川端龍子とともに戦争画を描いたことで大いに糾弾され、それが最大の原因かどうか、藤田はフランスに行くことを画策する。ところがなかなか許可が下りず、フランス政府からは入国にふさわしくない人物として数年みなされ続けた。それを助けたのが、77年展の図録で文章を寄せているアメリカ人のフランク・シャーマンだ。その文章はほかに発表されているのかどうか、彼にしか書けないことが多々ある。77年展の出品作の半分ほどは彼の蔵品だ。戦後GHQの一員として画家の向井潤吉を介して藤田に面会し、その後藤田の作品の収集家になり、後に文通をするようになって、本展でも藤田が彼に送った手紙は展示された。英語力もさることながら、添えられた絵やまたきれいな読みやすい横書きの英文は藤田の高い知性と遊び心、それに何よりも美しい手仕事を重視する姿勢が見える。結局シャーマンを介して渡米し、そこからフランスに入ることが出来た藤田はその後二度と日本に戻らなかった。77年展図録にあるように、藤田が1949年、63歳で離日する際に放った言葉は、「絵描きは絵だけ描け」、「仲間喧嘩をするな」、「日本画壇は国際的水準になれ」の三つで、これには耳の痛い画家は今も多いのではないか。シャーマンの文章は、藤田が案内して一緒に歩いた嵐山を含む京都の思い出が特に印象深く、藤田がいかに日本を愛していたか、言い換えれば日本の手仕事の職人を愛していたかを強調し、また戦後のフランスは藤田がよく知る戦前の面影はなく、藤田は本当はフランスに住みたくなかったのではないかと想像する。藤田は敗戦を知ると、戦争協力者と批判されることを見越して何日もかけてさまざまなものを疎開先で燃やした。また、同じ画家で後進の宮本三郎に密かに話したことも図録に書かれる。それは「腕がある限り、どういう時代になっても、どこで住もうとも、生きて行ける」という考えは、技術を自負する職人魂であって、誰よりも巧みに素早く描く才能があれば、看板絵でも何でも描いて糊口をしのげるとの自信だ。元来絵描きとはそういうものだ。上手に絵を描く人物がいると、必ずその噂は広まり、描いてほしいという人は現われる。シャーマンが藤田に会いたいと思ったのもそうで、ボストン在住の10代半ばで新聞の日曜版で藤田の絵が紹介されていたことからファンになった。
彼は当初藤田をボヘミアンと思っていたが、実際に面会して謹厳実直であったことに驚いたという。藤田は腕だけが自慢の職人と言い換えてもよい。藤田は若い頃、すなわち20代後半、パリでダ・ヴィンチやラファエロの模写を徹底するなどして、人体のどの部分もどの角度からも想像で描けるほどになるまで修練したが、それはアカデミズムの重視で、西洋の正統な絵の学び方だ。そこに単なる輪郭ではない線によって精神を表現することを目指した。筆者には藤田の絵は日本の白描絵巻に近いように見える。20代前半に至文堂の『日本の美術』の『白描絵巻』の号を買ったが、その墨一色で描かれた絵巻の美しさは比類のないもので、思い出すたびに心が引き締まる。藤田は『鳥獣戯画』を含め、白描を徹底的に学び、独自の線とリズムを得ようとしたに違いない。それは欧米のどの画家も真似が出来ず、しかも日本の伝統に沿っている。つまり日本の伝統美を武器に西洋の画材で描けば、唯一無二のものとなる。これは和紙を使えば簡単だが、麻地のキャンヴァスにどのように面相筆の細い線を自在に引くかという問題以前に強固な地塗りをどうするかという前人未踏の技術的な障壁もある。繊細かつ強靭という矛盾を画面に同居させるには細部と全体の構図の双方を重視するのは当然だが、フォーヴィズム絵画のように太筆でざくざくと描く画面と違って時間を要するうえ、輪郭線の細さは白描絵巻のように清潔さを表わすにはよくても、日本画のように平板な画面になりやすい。筆者は藤田の絵は日本と西洋の融合を目指したものとして評価はするが、冷たい空気が漂っている作品の多さに大ファンにはなれない。そのことを77展の図録で写真家の土門拳が書いている。同展図録には彼が撮影した藤田の写真が表紙を初め、何枚か紹介されている。撮影時期は不明だが、1947か8年頃だろう。当時土門は40歳の少し手前で、すでに名声を確立していた。さすが多くの有名人の肖像写真を撮って来た土門で、藤田の絵についても遠慮なく思いを述べている。図録に載る文章は『偉大なるアルティザン』という題名で、次の下りがある。「藤田本人も、自分がアルティザンだということに誇りを持っていた。…私個人の好みからいえば、藤田の作品は、一般評価をそのままというわけにはいかない。評判のいい小品にしても、そこにアルティザン藤田の限界をみて、目をそらすこともある。…藤田の製作方法は、まず部分からはじめて、それを一枚のタブローにするというやり方である。…つまり、部分の把握、ディテイルの描写からはじめる。全体的な展望は、描いているうちに出来あがってくるらしく、思いついたところからどんどん描いていくのである。…しかし、この藤田の製作方法が、逆に藤田の作品の弱点にもなっていたのではあるまいか。要するに構想力は豊かなのであるが、構成力が弱いのである。」
以上の引用は前半は筆者の思いと同じだが、後半は完全には同意しない。というのは、藤田の巨大な作品はそれなりに構成力は予め考察されていなければ描けないもので、構成が破綻しているようには見えない。生誕100年記念展の図録に2001年9月から11月まで名古屋市美術館で開催された『藤田嗣治の壁画 大地展』の横開きのチラシを挟んでいる。同展を名古屋で見た記憶はないので、チラシのみどこかで入手したと思うが、『大地』は南米旅行の成果で、1934年に描かれ、戦争画を除けば最も脂が乗り切っていた頃の平和な画題の最高傑作としてよい。銀座のブラジル・コーヒー陳列所の依頼で描き、40年にブラジルに移されてから左から4分の1ほどと画面上部が切り取られ、画題の部分が塗り潰されもしたが、現在は日本のある会社が所蔵する。横が15メートルとされ、それが切り取られる前か現状かはわからない。モデルなし、下絵なしで朝8時から夜9時まで丸一か月360時間を要して描き、藤田は2001年当時に換算して1億円を受け取った。助手に東郷青児、海老原喜之助、鶴田宏の3人を使い、藤田は鶴田に寝転んだポーズを取らせたかと思うとすぐにそれが絵では別の人物となって描かれたというから、「神技というより他に云いようがはなかった」と東郷は回顧した。次に、以前書いたことがあるが思い出したので書いておく。前述した中学の美術のF先生は京都市芸を出て何年経っていたのか知らないが、京都三条河原町の朝日会館の壁画を東郷青児が任された時、それを実際に描いた4,5人のひとりであった。東郷は地上から拡声器で指示しながら足場上のF先生らに描かせたそうで、筆者はその壁画が現存していた頃に何度か見たことがあるが、会館は建て換えられ、今は同壁画の小さな写真パネルが1階に展示されている。話を戻して、77年展では縮小写真が展示された『秋田の行事』は1937年の作で、縦3.65、横20.5メートルの巨大な油彩画で、発注者の秋田の富豪平野政吉コレクションとして今も秋田にある。77年展図録に平野が文章を寄せていて、いかに藤田が破格の人物であったかがわかる。『秋田の行事』の製作は174時間で、村上華岳や山口蓬春、前田青邨が見学に来たというので、藤田は日本画家にも関心がもたれていた。実際、『秋田の行事』は図録で見ると日本画のようだ。『大地』の半分で済んだ製作時間で、画料は材料費を別にして今の価格の1億円かそれ以上は受け取ったであろうか。面白いのは、藤田が平野に用意させた絵具が3本未使用となり、その返却時に藤田は謝ったそうだ。大画面であっても藤田は絵具の量を正確に測ることが出来た話として、やはり職人芸を思う。シャーマンが当初思ったようなボヘミアンであれば、気が向いた時だけ描き、途中で仕事を放り出しもしたろう。
土門拳は藤田が職人的であったことに限界があったと言うが、シャッターを押せば作品が出来る写真家らしい考えだ。もちろん写真はシャッター・チャンスを待つもので、土門は適当に大量に撮ったのではないが、シャッター・チャンス狙いは狩猟家と同じで、こつこつ努力する農民型の藤田とは本質が違った。シャッター・チャンスは待っても訪れないかもしれず、写真家はとにかく多大な時間を費やせば作品が何とか仕上がる努力型には限界があると見るのではないか。そう言えば筆者は写真大学を出た家内の友人の主人からこう言われたことがある。「大山さんは仕事しいやからなあ。」筆者を努力型と見るやんわりとした批判だ。彼はブティック経営者で、女性関係も派手なようだが、まあ女性からもてるのは狩猟型で、農民型ではない。しかし家内は筆者をどちらの気質もあると言う。父は海辺の漁師、母は山間部の血筋なのでそれも当然かもしれない。ところで、藤田は年譜に登場するだけでも4人の女性がいる。本展では最初に結婚した日本女性に藤田がフランスから宛てた手紙が紹介され、そこでパリの画家らと催す仮装の会での衣装について説明している。絵も字もとても細かく、また衣服は藤田が縫ったようで、異国で存分に遊びながら絵を学んでいたことがわかる。ところが藤田は妻を呼び寄せずにそのまま離婚する。手紙が残されたことは妻とその遺族が保管したからだ。言葉は悪いが、藤田は女を踏み台に目的を遂げて行った。大物の芸術家とはそうしたものだろう。藤田ははがきにも絵をよく描き、それらも本展で披露された。陶芸の絵つけは藤田の個性がよく出ていて、陶磁の分野に進んでも有名になったことを思わせる。フランスのアトリエを描いた絵では、日本の藍染の大きな暖簾がタペストリー代わりに使用され、日本の民藝品を愛したことがわかる。とりあえずは売ることが目的でなく、木製のさまざまな動く玩具や自作の絵を収める額縁を作ることは、とにかく手を動かして何かを作っていなければ気分が落ち着かない性格を表わしている。本展のチラシやチケットには1930年頃、40代半ばにニューヨークで撮影された肖像写真が使われた。水玉模様が首元から裾へと次第に大きくなって行くセーターは珍しい。藤田はお洒落で、自分の髪型や眼鏡、チョビ髭など、イメージ作りに余念がなかった。手首に腕時計の刺青をいつ入れたのか知らないが、そこに絵師の身分を低く見る日本に対する反逆が見え透く。死後に勲一等を叙勲されたが、そういう名声よりも自作がいずれ国宝になることを夢想していた。しかしフランスに帰化したこともあって、至文堂の『近代の美術』の60冊では取り上げられず、敬して遠ざける雰囲気が今もある気がする。それは戦争画を描いたことの影響が大きいだろう。藤田のような画家はもう日本からは生まれないと思う。名作より名声を得ることを優先する画家が多いようでは。
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