「
トンガラシ 赤く染まって 鷹の爪 高をくくりて 詰め甘きドン」、「言葉数 少なくてよし 男前 会話なくして つまらぬ男」、「生きていて 意味のなきこと 嘆く人 励ましせずに そっと距離取り」、「落ち込めば 愛されぬこと 知りつつも 優しさ求め さらに落ち込み」
今日の写真は先月30日のものだ。民家の敷地に踏み込めないので、この庭に隣接する月極駐車場のブロック塀越しに撮った。スーパーに行くのにほぼ必ず利用する道沿いで、軽自動車を停められるだけの狭い土地に去年は見事な鶏頭の花が群がって咲いた。その写真は
「今年の本気の鶏頭、その11」の3枚目として載せたが、その時に書いたように、今も同じ写真をデスクトップ・パソコンの壁紙にしている。それを見るたびに「鶏頭の王国」を感じ、どうにか友禅染の屏風に出来ないかと想を練り続けている。それで細部を知るために断って写生させてもらっておけばよかったと後悔している。同じ場所の鶏頭の同じ時期の花の状態が今日の写真であるからだ。なぜこんな砂漠状の土地に咲くようなさびしい状態になったのか。種子が地面にこぼれ、また運よく開花したはいいが、家の人は関心がなかったのだろう。それは去年も同じはずだが、今年は何かが違った。その最大の理由はこの土地が駐車場として本格的に使われ始めたからだ。花は車の最後尾がぎりぎり接しない場所に咲いているが、排気ガスの影響があるうえ、車の乗り入れの際に花は踏まれるはずで、その過酷な環境に応じて咲いた。いいものを見たという経験は、より大きな期待を膨らませる。しかし現実はその反対となる場合が多い。うっとりするほどきれいであった女性が、30年ほど後に対面すると、さまざまな労苦によって見る影がないほどに変化している様子に出会うことがある。それは仕方のないことだ。そうしたことをたとえば今年のこの鶏頭の写真が示している。この調子であれば、来年は全く姿を消すはずで、誇らしげに美しい状態は一瞬であったということだ。それに出会えるのは僥倖で、去年見事な王国を見せてくれたこの場所に、筆者は通りがかるたびに哀切の情を催しながらも去年の開花を感謝する。若い人が美しさを誇るのは当然で、全員がくよくよせずにそうすべきだ。だがその美しさを、年月を重ねても別の意味において保つように心がけなければ、それこそ本当に見る影のない枯れ花になる。高齢になってもはっとするような美しさを漂わせている女性はままいるもので、そういう女性の美は若い女性のそれ以上に輝いて見えることがある。しかし過酷な条件下で美しさが失われるかと言えば、そうとは限らない。誰しも精いっぱい生きていることの美はやはりある。今日の写真の鶏頭は去年と比べれば全く見栄えはよくないが、不毛の権化に見える地面にいくつもの花を咲かせているではないか。それも積極的に賛美すべきで、命が芽生えて開花するものはすべて美しい。
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