「
長短は 相対的と 知りつつも 平均よりも 短き悔し」、「万博の 時代終わるか 情報化 実物だけに 宿る迫力」、「スマホ持ち 知らぬを知らぬ こと多し 啓蒙の意味 人それぞれに」、「多数派が わが者顔の 民主主義 何が愚かか わたしが決める」
今年の時代祭について先日投稿した時、佐野常民について書いた。参考にした本『佐野常民』に、1873年のウィーン万博に鎌倉の大仏の頭部を象った張り子が展示された室内のイラストが挿絵に使われていた。それは『博覧会の政治学』と題する『中公新書』からの引用で、当時ウィーン在住の画家が描いたものだろう。ところが挿絵ではなく、同じ展示室らしきの内部を撮った精緻な写真があることを『佐野常民』を読む以前に知った。それは難波の高島屋史料館で現在開催中の『万博と仏教』展のチラシで、ネットの同資料館のサイトに載っていたが、イラストとは向きが違い、同じ博覧会場で撮られた写真かどうかはわからない。同展は8月5日から12月25日までで、4か月以上に及ぶ長い会期であればそう急ぐことはないと考えながら、
梅田の老舗ビア・ホールで丸尾丸子さんがアコーディンを演奏する機会があることを知り、どちらがついでかわからないが、昨日書いたように先月29日に本展を見た後にその演奏会に行くことにした。時計を持っていなかったので正確にはわからないが、本展会場にいたのはたぶん10分ほどだ。本展は40年ほど続いたINAX、後のLIXILのギャラリーでの無料の企画展にふさわしいもので、そうであったならば同ギャラリーが必ず制作したブックレットの形で企画展がどういうものを展示したかがよくわかるのだが、同じ無料での展覧ながら、高島屋史料館はそこまでは力を入れず、残る資料はチラシのみだ。しかも本展のチラシは他の美術館とは違って広く配布されないはずで価値は年々高まるのではないか。それはともかく、LIXILギャラリーが独自の企画展を開催しなくなってから、大阪のこの高島屋史料館はひとり文化的な展示に気を吐いている感がある。さて、本展は文字が多いパネル展示が中心で、それらを文字を全部読むには1時間では足らない。そこで要点のさらなる要点だけ把握して会場を後にしたが、それは本展のチラシが示すように、大仏すなわち仏教を当時の日本が外国に見せるべき重要なものとしたことで、その最初の考えが1970年の万博まで引き継がれたことだ。チラシに副題らしき言葉「EXPO & BUDDHA」と「オリエンタリズムか、それとも祈りか?」が書かれ、これはたとえば京都の龍谷ミュージアムや茨木の民族学博物館が開催してよい内容で、その意味からもよくぞ高島屋という一企業が所有する史料館が開催したと思う。また本展は2年後の大阪で開催される万博の特色を浮き彫りにし、これは本展を見る人の考え次第だが、暗に2年後の万博を批判してもいるように感じられる。
本展チラシの白黒写真は片隅に極小の文字で印刷されるように、1873年のウィーン万博でPeter Panzer(ペーター・パンツァー)という人物が撮影した。この写真が前述の本『博覧会の政治学』に使用されなかったことは、ネット社会になって発掘されたのではないかと思う。もっと言えば、本展の最大の衝撃はこの1枚の写真で、またそこに異様な雰囲気を放ちながら展示室内を見下ろしている大仏の頭部に誰しも目が行く。ところが本展は佐野常民がこの大仏を出品を目論んだことに言及しない。会場の展示パネルは撮影禁止のものとそうでないものが分けられていて、アコーディオンの演奏会に急ぐ筆者はその区別を意識しないままに写真を撮ったが、ここでは明らかに載せてもいい写真だけを使うが、説明パネルの文章からは若干の引用はする。本展が佐野について触れないのは、万博の出品は国家事業で、ひとりの政治家に焦点を当てるべきでないとの考えかもしれない。しかし筆者のように『佐野常民』を読み、また佐野が始めた時代祭に携わる身としては、大きな事業であってもそこには最初に意見する重要な人物がいることを意識する。話は少し変わるが、2004年秋に大阪市立美術館で『世紀の祭典 万国博覧会の美術』展が開催された。チラシには「2005年日本国際博覧会開催記念」の文字があって、これは愛知万博を記念してのものだが、同展の展示内容と愛知万博のそれはほとんど共通点がなかった。これは万博において佐野の思想である「美術が国家の品位を高める」が看過されて来たことと言ってよいが、その代わりに日本では戦後無数の美術展が各地で常に開催され、万博で美術や工芸の作品を展示しなくてもよいことになって来たことを意味している。美術や工芸作品は実物を目の当たりにしなければ本当の感動は得られないが、国威を示すには美術作品だけでは足らないと政治家や国民が考えるようになり、その意識を万博が反映しているとして、では世界各国に展示館を建設させ、そこで何を見せるかとなれば一方ではさまざまな見本市が開催され、思いの一致は得られにくいだろう。1970年の茨木での万博は「人類の調和と進歩」という題目が選ばれたが、その後瀬角各地で戦争が絶え間なく起こり、「調和と進歩」は理想そのものであるのが実情で、万博の趣旨は定めることは困難になって来ている。ネットでは世界中の情報が瞬時に得られるのでもはや万博の時代ではないという意見が散見されるが、スマホやパソコン画面で実物を見た気になることは錯覚だ。何でもスマホで足りるのであれば、美術展覧会を開催する意味はないし、新商品を展示する見本市も不要となる。そこで世界各国が集まって「物」を展示し、そこから観客に何かを感じ取ってもらう機会はなくならないだろう。そのいわゆる見世物が地球上からなくなるかと言えば、情報化社会がいくら進歩しようが人さまざまだ。
『世紀の祭典 万国博覧会の美術』展の図録は電話帳ほどに重く、ヨーロッパ初のロンドンでの万博やその後のウィーンやパリの万博工芸と美術のふたつの分野の作品図版をカラーで豊富に紹介する。資料的価値が高いことは否定しないが、どのような展覧会でも特定の切り口から作品が選定され、同じ万博の美術を取り上げるにしても監修者が違えば内容は違ったものになる。面白いことに同展では本展チラシの写真が紹介されず、「万博と仏教」の関係については全く無視されていると言ってよい。それは同展の企画者、監修者がウィーン万博に佐野が持って行った展示物が美術ではないと判断したためかどうかわからないが、佐野は美術こそ日本の品位を示すものと考えて作品を選んだのであって、日本の陶芸や金工、染織ばかりに光を当てるのはあまりに現在的な考えによるのではないか。本展のチラシの写真に見えるように、佐野は日本の民家や神輿、五重塔の模型や大仏の頭部などを展示し、これは本来は日本に来てもらってそれらの実物を見てほしいが、まだそういう気軽な観光が誰にでも許される時代ではなく、せめて模型で見せるしかないと判断したことがわかる。また写真に見える展示物は木と紙で出来たもので、よく言われるように日本住宅が木と紙で出来ていることを如実に示し、それはそれで150年前のウィーンの人々に珍しがられたはずだ。逆に言えば佐野はそれらがヨーロッパから見ればあまりに貧弱、脆弱に見えたとしても、職人の技巧の精緻さでは負けず、日本らしい美の特質もあると考えたであろう。ヨーロッパの建築を模倣して現在は国際的な建築家を輩出するようにはなったが、日本の風土に見合った材質となれば木造であるし、欧州に滞在した佐野はそのことを実感したはずで、木と紙の文化を恥じなかったはずだ。それもあって平安神宮大極殿を8分の5で復元したのであって、はなから欧州文化礼賛主義者であったならば、また内国勧業博覧会の目玉と考えるのであれば、最先端のヨーロッパ建築を模して建てたであろう。佐野がそうしなかったところに京都の千年を超える歴史の重みの尊重と日本人としての矜持があった。話を戻すと、『世紀の祭典 万国博覧会の美術』では本展チラシの佐野がウィーンに持って行ったものが全く無視されていて、それら建築模型や張り子の仏像は今では歴史に残る美術ないし工芸とはみなされていないことになる。それはやはり材質が脆弱であることと、あくまでも模型としての展示で、それらは会期後に現地で販売に供されたはずだが、購入者がいたのかどうか、いたとして現在まで保存状態がよいままで残っているのかどうかはわからず、売れ残ったものはよほど重要なものでない限り、日本に持って帰らずに現地で処分されたのではないか。つまり同じ見世物としても、陶芸や金工、七宝などの美術的な工芸品になり得なかった。
本展のパネルのひとつ「見世物としての大仏」に、ウィーン万博に出陳された大仏の頭部についての説明があった。そこに佐野への言及はない。「《鎌倉の大仏》の模型や写真は、万博に何度も展示されている。初めて日本が公式に参加した1873(明治6)年のウィーン万博では、生人形師蝋屋伝吉が制作した《鎌倉の大仏》を模した模型(頭部のみ)が出品された。外国人居留地があった横浜からも比較的近い《鎌倉の大仏》は、幕末にはすでに外国人が訪れていた。さらに屋外に設置されていることからも撮影が容易で、《鎌倉の大仏》の写真はヨーロッパに出回っていた。欧米における知名度と、見世物としてのインパクトを兼ね備えた《鎌倉の大仏》は、その後も…日本を象徴するイメージとして使用されている。他方で、国内の博覧会では奈良の象徴として《奈良の大仏》が使われた。…海外だけでなく、日本国内においても大仏が人目を引く存在であったことがわかる。こうして、江戸時代にたびたび興行された大仏の細工見世物の娯楽性が、博覧会にも引き継がれていったのだ。」生人形師、細工見世物といった言葉は今は死語同然になって娯楽的見世物の興行は映画、TVの出現によって芸能界が担うようになり、技術の限りを尽くした明治の工芸もかなりの部分はもう日本から失われた。それに代わって国際的に通用する画家や工芸家を多く輩出しているかとなるとかなり疑問だ。そのことは先日書いたように、京都の遷都1100年祭と1200年祭の差からもわかる。その百年の間に日本では手仕事の文化が著しく衰退した。これも先日書いたように、美術が国家の品位を高めると同時に国家の富源を開くために必要な要素という考えがほとんど顧みられなくなった。国家の富源は美術とは無関係に築けばいいという考えが出て来て、そこで芸能やIT産業その他が経済を担い、観光産業もそこに加えてよいが、外国人観光客は実物の鎌倉の大仏に容易に目の当たりにすることが出来るようになったことで、佐野がわざわざ張り子でそれを模倣制作したことの意味が失われたかと言えば、それは確かにそうなのだろうが、本展チラシの大仏の頭部を見ると、その優れた制作技術が失われたことを惜しむ人は外国人観光客にもいるのではないか。それはともかく、蝋屋伝吉の作品が伝わらず、写真だけが残った状態は、娯楽的見世物は芸能人と同じく、その場を賑やかにさせるだけのはかないものという印象を新たにする。しかし佐野は蝋屋伝吉の作品も美術の一端と考えたであろうし、美術は高度な手仕事があってのものという思想が見える。しかし美術と工芸という二分化によって、前者は高度な技術、技巧は絶対に必要なものとはみなされないようになり、芸能人やそれ風の画家の下手な絵が人気を博すに至り、ましてや精神性など問題にされなくなり、品位は失われ、金だけが動き回るようになった。
日本はウィーン万博から百年間は世界各地での万博に際して仏教色を特徴とし、1970年の日本の万博でもそれは顕著であったのに、その後は失われた。これは戦後信仰の自由が保障されたことの結果で、万博という国家事業では木造でなくても社寺の特徴を持った建築物は好ましくないと自粛したからだろうか。そうであれば70年の万博で日本国内のある企業が五重塔をパヴィリオンとしたことはその反動であったことになりそうだが、世界の貴重な美術品を展示した万博美術館で日本は仏像を中心に出品したので、仏教国の意識はあったと言える。本展チラシ裏面にその辺りのことが書かれる。「…1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)における仏教イメージのあり方です。…これまでの欧米における万国博覧会では、あくまで物質として機能し、おおよそ信仰とはかけ離れた存在であった仏教関係の展示物が、大阪万博では多くのアジア諸国の来場者に、信仰の象徴が展示された空間として受けとめられたのです。博覧会における仏教イメージが、オリエンタリズムから宗教的意味を帯びる存在へと変化したという点において、画期的な万博だったと言えるでしょう。」宗教的意味を帯びたかどうかは、積極的という意味では疑問であるし、大仏を張り子で展示しようとした佐野が信仰とはかけ離れた意味でそうしたとは全く言えない。佐野がそのような人物であれば平安神宮を建てなかったはずであるからだ。むしろ70年万博は佐野が夢想した形が実現した機会ではなかったか。オリエンタリズムは外国がそう思うのであって、日本が最初にそれを主張して売り込んだのではないだろう。70年万博はアジア初で、パヴィリオンを建てたアジア諸国は仏教国を反映して寺院風で、その意味ではウィーン万博からつながっていた。2025年の大阪での万博では日本の目玉としての展示は巨大な輪が建設され、それが木製である点で佐野が生きた時代の木と紙の文化の日本という伝統を継いでいるが、巨費を投じての平安神宮のような生々しい神社建築は許される雰囲気ではなかったのかどうか、「人類の調和」の概念を無理やりこじつけられそうな木製の輪としたところに佐野の時代には考えられなかった意味不明かつ莫大な費用の蕩尽だけは目につく。それだけ日本が経済的に豊かになった証だが、模型として作られた平安神宮が神苑も含めて130年そのまま残って貴重な文化遺産となったのに対し、円形の木造構造物はたとえば蝋屋伝吉の手仕事の妙味は全く感じられず、ましてや美術作品でもない。わずか半年だけ現存する仮設建築で、そこに迷走する日本の何かが色濃く反映していると誰しも思うだろう。筆者は来年中に『世紀の祭典 万国博覧会の美術』展の二番煎じではなく、また本展の拡張でもない、万博をこれまでとは違う切り口で展示物を通して見せる展覧会の開催を期待するが、まあ無理だ。
今は芸能人ばりに名前と顔を売ることにだけは長けた有名人ばかりで、70年万博に活躍した岡本太郎や梅棹忠夫のような人物がおらず、「太陽の塔」や「国立民族学博物館」に匹敵する歴史に残る遺産も生まれようがない。さて、本展では「太陽の塔」についての説明パネルもあって、そこにカラー写真も添えられていた。「太陽の塔」が古代の遺物に似ているという話は70年当時からあって、岡本は昔に自分に似た人物がいたと言った。その古代の遺物が何であるかは忘れたが、高さ10センチほどの古代イタリアのテラコッタ像にもそっくりなものがあって、岡本はそうした似たものを参考にしたと思われがちだが、外形が似ることはよくある。岡本はそうした古代の造形を参考にしたのではなく、何枚もスケッチを重ねて形を単純化して行く中で、かつて人類が造形したものに似ただけの話で、岡本の言うとおり、古代にも岡本に似た人物がいたのは確かだ。本展のパネルはさらに別の視座を指摘している。「《太陽の塔》と仏教」と題し、こう書く。「…《太陽の塔》の独創的な造形のひとつのモデルと考えられているのが、チベット仏教の供物であるトルマである。トルマは大麦の粉やバターを混ぜて作られた供物で、形状たたいてい円錐だ。…岡本太郎は日本滞在中のチベット人僧侶から、トルマの写真を見せられながら教示を受けた。…」最後の下りは『月刊みんぱく』からの引用で、筆者は「太陽の塔」がトルマに似ていることを初めて知ったが、この説明パネルに掲げられる写真を見る限り、確かに似た部分はある。パリに学んだ洋画家の岡本太郎が縄文文化に着目し、また仏教の造形にも関心を抱いたとして何の不思議もない。しかし芸術家であったので、特定の、つまり様式が定まって見慣れた、あるいは見覚えのある仏教建築や神社の建築を用いてのパヴィリオン構想には賛同しなかったはずで、「太陽の塔」がチベット仏教に大いに関係があると見られることは拒否したであろう。70年万博のアジア諸国の寺院建築パヴィリオンは日本の民間に払い下げられ、現役で使われているものもある。今日の2枚目の写真は70年万博のラオス館に展示された木製の鐘で、これは叩いてもよかったので筆者は一度だけ鳴らした。2025年万博の円形の木造建築は同じ場所では存続は無理で、万博公園などに移設しても木造では「太陽の塔」のようには長年保てない。本展のチラシの副題「オリエンタリズムか、それとも祈りか?」の文言を、「太陽の塔」や2025年万博の円形の木造建築に適用すれば、それらは「祈り」を込めての構想で、佐野の思いを受け止めていると思いたい。しかし会場を訪れる人はオリエンタリズムと同じく異国趣味的な見世物感を先に感じるはずで、「祈り」に必要な静寂さも会場には無縁だろう。そこに万博開催の本音と建て前が見え透く。
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