「
つまんない 見るだけじゃなく 見せたいと まつり見ながら 子ども呟く」、「三大の ひとつであるも 新しき 時代祭は 維新の後に」、「現代も 時代とはいえ 劇呼ぶに 維新以前を 時代劇とす」、「いずれまた 京に遷都が なされれば 時代祭の 維新後いかに」
時代祭の2日前に佐野常民についての本を買った。それを読み終えて今日は今年の時代祭について書こうと思った。佐野常民の名前は見覚えがあった。小学5年生から記念切手の収集を始め、当時白黒印刷の「日本切手型録」が毎年販売され、近所の兄さんにそれをよく見せてもらった。筆者は中学生になって最新版を買ったが、戦前の切手には馴染めなかった。戦争の影がちらついていたからだ。ブログに書いたことがあるが、1950年頃の切手が大好きで、今も50,51年頃の記念切手、通常切手は日本切手史上最高のデザインと思っている。戦後やや落ち着いた頃に切手の図案家たちは新時代の到来を感じたのだろう。戦前の切手のデザインが厳めしいのは、天皇を象徴する菊の御紋が図案の最上部中央に入っているからだ。戦後これはなくなり、まだ印刷の色は一、二色が中心であったが、自由の気風がみなぎっている。戦前の切手をほとんど所有していないが、子どもの頃から気になったのは肖像を描いた何枚かの切手だ。郵便の父の前島密は当然として、戦争開始の2,3年前に通常切手で乃木将軍と東郷元帥の肖像が図案になった。戦争が始まってシンガポールを手にすると、それを記念してその乃木・東郷の二種の通常切手に「シンガポール陥落」の文字を加刷し、国民はなおさら戦争を意識することになった。一方、ヨーロッパの軍人や貴族のように胸に勲章をやたらとつけ、温和で慈悲深い表情をした老人の肖像写真が記念切手になった。赤十字条約成立75年を記念したもので、「型録」にその人が佐野常民であることを記してあった。この切手は1939年発売だ。佐野没後から37年、戦争が始まった直後だ。当時日本政府がなぜ赤十字条約を記念して切手を作ったのか。戦争が始まってからこの切手の発売が決まったのか、あるいは戦争とは無関係に以前から決まっていたのかを考えるに、75周年はやや中途半端な区切りであるから、戦争で多くの人が死ぬことを想定し、敵味方に関係なく人命を助ける赤十字社の精神を日本も守る考えを再確認したためではないか。つまり戦争が始まって政府は佐野常民を思い出したと想像するが、佐野が当時生きていたならば戦争を奨励したであろうか。1866年のパリ万博に際して佐野は大いに活躍し、渡欧してヨーロッパの文明を実体験した。切手に使用された佐野の肖像写真は日本に赤十字社を根づかせた人物の精神を如実に表わしている。軍人ではこの表情は持てないだろう。戦後は画家や小説家、医者や哲学者などの文化人切手シリーズが発売された。佐野の肖像を使った前述の記念切手はその先駆けになったと思う。
筆者が買った「佐野常民」と題する本は「佐賀偉人伝」というシリーズ本の9冊目で、著者は國雄行だ。佐賀県立佐賀城本丸歴史館発行の1000円ほどの低価格で、要領よく生涯をまとめてある。佐賀と言えば真っ先に売茶翁を連想するが、このシリーズは幕末明治期に活躍した人物を取り上げ、全部読みたいと思わせる。「佐野常民」本の帯の謳い文句に、「美術は此の如く国家の品位を高むるのみならず又工業と密着して之を助け国家の富源を開くに欠く可かざるの要素なり」とあって、パリ万博を機にヨーロッパ各国を視察してその後佐野がどう行動してこの思想を持つに至ったかが想像出来る。佐賀は日本におけるその位置からして大陸に最も近く、外来の文化に敏感、そして輸出入で潤ったことが誰にでも想像出来る。鎖国していても密輸入はあったはずで、それは金儲けのためもあるが、日本国内にないものをほしがる、またその逆に日本の特産品を外国がほしがるという人間の本性から当然のことで、佐賀の知識人たちの目が広大な外国に向けられていたゆえに、「佐賀偉人伝」シリーズが組まれることにもなった。それを言えばどの藩でも偉人を輩出したとの反論があろうが、佐賀の偉人が国際的であったことは佐野常民の人生を見てもわかる。そして万博を舞台に佐賀藩が利益を上げるにはどうすればいいかを知るには、実際に渡欧し、各国が万博に何を出品するかを見なければならない。それは手先の器用さを誇る日本が外国人好みのものを作るためで、そこに商品の立場として、大ざっぱに言えば外国で流行中のデザインを模倣したようなものとそうではない日本独自のものがある。そしてこの問題は150年ほど経った今でも問われ続けていて、前述の帯の文句は何度も立ち返って吟味する必要を感じさせる。それは平たく言えば、パリやウィーンの万博に佐野が中心となって出品した物品から当時の日本の位置が見えつつ、現在の日本のあるべき姿も示唆を受けるとの考えだ。本書で特に興味深いのは、1873年のウィーン万博での日本館のイラストだ。佐野が展示したものの中に巨大な仏像の頭部がある。本文にはこうある。「…日本独特の工芸品が並べられ、その奥には御輿や五重塔、鎌倉大仏の頭部模型が据えられ、日本の風景が再現された。実はこの大仏さん、張り子である。本当は日本庭園に鎮座させ、雨ざらしにしても破れない和紙の力をアピールする計画であった。ところが展示準備中に作業員の煙草が原因で焼けてしまい、残った頭部のみを室内に展示することになったのである。…」張り子というのは青森のねぷたからヒントを得たのだろう。佐野がヨーロッパにないものとして大きな仏像を意識し、それを張り子で再現して展示しようとしたことに感心する。そして帯の文句にあるように「美術が国家の品位を高める」と考えたところに、日本の近代美術の幕開けがあった。
明治時代の日本はまだパリやウィーンのように国際万国博覧会を開催する力がなく、戦後の1970年まで待たねばならなかった。そこで佐野常民だけではないが、当時の政治家は国内で博覧会を開催することにした。それが多大な利益をもたらすからで、「内国勧業博覧会」と銘打って東京でまず3回開催し、東京がその地位を独占したがったが、大阪や京都が誘致に名乗りを上げ、毎年持ち回りで開催が決まり、第4回は京都、第5回は大阪で開催された。しかしその後は日露戦争後の恐慌によって国家規模の博覧会が開催されなくなった。「佐賀偉人伝」シリーズの「佐野常民」は佐野が京都での内国勧業博覧会で成した役割について書く。「農商務大臣就任と第四回内国勧業博覧会」の節の最後辺りを次に引く。「佐野は京都は美術の中心地、大阪は商業の中心地で、それぞれ重要なので、第四回は京都、第五回は大阪、第六回は東京で開催するという三府輪番制を提案した。当初、大阪と東京はこれに応じなかったが、十一月に大阪が京都開催に同意し、翌年一月の第四議会に提出された東京開催案が否決されると、京都開催が決定した。京都が誘致に成功した理由の一つは、内国博を桓武天皇の遷都千百年祭(紀念祭)と抱き合わせてアピールしたことである。開催年の明治二十八年(一八九五)は、桓武天皇が平安京に遷都し、翌年に大極殿で執務を始めてから、一一〇〇年にあたる年であった。誘致に成功した以上、京都は内国博とともに紀念祭を成功させなければならなくなった。そこで京都市議らは後援団体として平安遷都千百年紀念祭協賛会を設立した。そしてその総裁に有栖川宮熾仁、会長に近衛篤麿、副会長に佐野が就任したのである。この協賛会は各都道府県に支部を置く全国組織となり、三十八万円もの寄付を集め、祭場に紀念殿(摸造大極殿)を建設することとなった。しかし、計画途中で佐野がこの案の規模を拡大した平安神社建設構想を明らかにし、これが実現して平安神宮になったのである。明治二十八年四月、第四回内国博が開会し、京都の社寺は本尊開帳や宝物を公開するなど内国博を盛り上げた。…同月、七十四歳を迎える佐野は伯爵となった。なお、紀念祭の余興として催された時代行列は、現在も時代祭として続いている。」この後に「日本赤十字社と日清戦争」と題する節がある。京都市内の各自治連合会には赤十字社から募金業務を委託されている委員がいて、毎年一軒当たり500円を求めるが、わが自治連合会では10数年前は80から90万円ほどあった募金総額が現在は3分の1ほどに減っている。共同募金も同じようになって来ているはずだ。一方で社会福祉協議会という自治会とは別の組織があって、これも自治会員からの募金によって活動しているが、自治会加入世帯はこうした組織についての運営の仕組みをほとんど知らない。どの組織も同じ人物が30年は代表を務めているからでもある。
時代祭は平安講社本部が自治会費から毎年の割り当て金額を徴収することで成り立っているが、そのことも知らない人は多い。それで去年は自治会費からなぜ時代祭の運営費用を出すのかという疑問から、とある地区で住民による訴訟があった。地区によって時代祭の担当に要する経費にかなりの開きがあり、住民が減少している自治連合会は時代祭に参加出来ない場合が今後は増えるかもしれない。またニュータウン中心の自治連合会も時代祭に無関心で、平安講社に所属しても時代祭の担当を引き受けない場合がある。それはさておき、大極殿は発掘によって規模が判明したが、それと同じ大きさのものを岡崎に造ることは費用の点で難しく、8分の5に縮小された。佐野がそれを模型と言ったことは間違いではないが、ガラスケースに収められるような小さなものではなく、神社として実際の使用に堪える風格を具える。それは佐野がウィーン万博の際に鎌倉の大仏を張り子で実物大に造った考えに通ずるところがあるとはいえ、張り子の仏像とは違って、遷都1100年にふさわしい、また後世に伝わる本格的なものを想定したところに、維新後さびれる一方であった京都に活力を与えることに大いに寄与した。現在まで平安神宮は火災に遭わず、応天門も第4回内国博当時のままで、岡崎は陸の孤島と言われもするが、勧業館(現在のみやこメッセ)、府立図書館、市美術館などが集まり、京都を代表する文化ゾーンになっている。時代祭は現在まで130年ほど続き、しかも京都市の人口増加に伴って平安講社は規模を拡大し、行列に参加する人数も増えて来ている。さて、5月20日に筆者が所属する平安講社第十一社の例会があり、その終了後の渡月亭での直会で筆者の隣りに平安神宮の権禰宜のAさんが座り、閉会になるまでの2時間、筆者は質問しながら興味深い話をいろいろと聞いた。その中で半ば冗談気味に、京都に文化庁が来たことは将来的に東京から遷都される可能性がなきにしもあらずで、そうなれば時代祭は扱う時代をどうすべきか、また平安神宮が平安京を遷都した桓武天皇を祀っているのであればその遷都時の天皇も祀るのかと訊ねた。もちろんAさんにそれがわかるはずはないが、そういうことも考えておけば時代の大きな区切りに際して平安神宮や時代祭の変革があってもうろたえることはないだろう。遷都1100年に際して佐野のような人物がいたことで現在の京都の文化の基礎が新たに出来たが、遷都1200年は1100年祭に比べるとあまりにさびしかった。遷都1100年から100年後の日本は万博も開催出来るほどに国力が増したというのに、「美術は国家の品位を高むる」という思想を持つ政治家はいない。文化に金を出さずにカジノで儲けようなどと、品位の欠片もない人物が大いに人気を博して毎日TVに出ている。
二度目の大阪万博では木製の巨大リングが建つことになっているが、費用を比較すれば平安神宮とどれほどの差があるか知らないが、百年以上そのままで建ち、実際に神社として機能している平安神宮と違ってその意味不明の木製リングは半年で取り壊す。佐野が生きていればどう発言したか。知性も徳もない人物が政治を司ればどうなるかは小学生もわかっている。ところがいつの時代も大多数は羊のようにおとなしく、指示されるがままに動く、洗脳されやすい人物がたぶん9割以上を占め、それがSNS時代になってさらに為政者にはつごうのよいことになって来た。さて、東京に資本が集中したことは最初の3回の内国博が開催されたことからもわかるが、その一局集中はここ100年でさらに圧倒的になり、大阪も京都も疲弊する地方都市になり下がった。話を戻す。時代祭は平安時代から明治維新までの実在した人物に時代衣装に身を包んだ人がなり切って、京都御所を出発して平安神宮までゆっくりと2時間半ほど歩くもので、去年平安講社所属のある人が例会で70代ではその距離は歩きづらいのでもっと縮小出来ないかと意見を述べた。2000人ほどの人が集まって歩き始めるための市中中央の広い場所は御所しかない。また平安神宮を最終地とすることは佐野の考えからしても譲れない。となれば70代で体力のない人は裃姿にしても行列に参加すべきでなく、時代祭の伝統のほうが折れる必要はない。出発は正午で、順に御所を出て行くので筆者が所属する第十一社の「室町幕府執政列」は30分ほど後になる。今日の最初の写真は第十一社の馬に乗る人たちを中心に撮った。出発の用意が整ったところだ。出発まで時間があったので、最初の行列の出発地点まで行って3枚目の写真を撮った。その上下に写るのは「維新勤王隊列」だ。彼らは笛と太鼓を休みなく指揮に合わせて同じ旋律を繰り返し奏でながら2時間半ほどは続けるので、歩くこととは別に体力を要し、若い人でなければ無理だ。行列はこの明治維新から始まって時代を遡って行く。また「江戸時代婦人列」、「中世婦人列」、「平安時代婦人列」、「白川女献花列」など女性ばかりの列もあって、佐野は時代絵巻の実物すなわち動く美術品との意味合いでしか味わえない華やかさを意図した。衣装や武具は学者が時代考証をしたものだが、それは程度の問題で、映画撮影所で使われるものと大差ない感じもある。キモノの色合いは昔のとおりの染色方法に頼ることは予算的にも技術的にも無理で、化学染料を使っているはずだが、渋さは劣ると言ってよい。その伝で言えば武具も専門家が見れば手抜きして作られているところが目につくかもしれない。馬も昔とは違うだろう。今はサラブレッド系が主流で、昔の日本の馬は集めるのが難しいだろう。時代祭全体で50頭ほどが必要で、当日に体調を崩さない馬を準備する馬方の労苦が偲ばれる。
牛車を引く黒い牛も必要で、それを用いる太秦祭が一時復活してまた開催出来なくなった理由はその牛の確保が出来ないからと聞いた。となれば時代祭はよく手を尽くしている。その点は京都の三大祭のひとつとされるだけのことはある。筆者は歩き慣れているせいもあるが、今年は行列に参加しなかったもののの、それと同じ速度で歩いた。今日の4,5枚目の写真は歩道から撮った。4枚目は和宮で、葵祭の斎王代のようには多大な費用の負担はないはずだが、出演を希望する若い女性は少なくないはずで、選ぶのは大変かもしれない。5枚目は出雲阿国で、彼女は沿道でカメラをかまえる人たちに向かってポーズを決めるサービスをして人選は最適であった。俳優かそれを希望する若い女性が担当しているかもしれない。ついでに書いておくと今年は上の妹の旦那が行列に参加し、出発前に少し話した。筆者は「来年は馬に乗らねばならないかもしれへん」と言ったところ、「馬に乗るには百万円ほど支払うんやろ」と言うので、「そんなにかからへん」と簡単に言葉を返しておいた。億万長者のその旦那にすれば百万円出しても乗りたいだろうが、そういう人に依頼はなかなか行かないだろう。さて、わが家で着付けした裃姿のふたりを平安神宮で待った。その区域は当日は関係者以外立入禁止だが、筆者は特別の証書を常に携帯していて、それを見せたところすぐに応天門の奥に入ることが出来た。今日の6,7枚目の写真は行列が入って来るのを待ちながら撮った。6枚目は行列の先頭に走った自動車だ。今年は市長と、文化庁が京都の移転したので初めて文化庁長官が乗った。この2台の車は平安神宮が所蔵しているのかどうか、時代祭の1日だけ運転するからには毎年整備は必要だろう。7枚目上は筆者が待っていた場所で、少し高くなっているので写真右上に見えている応天門から入って来た行列はよく見える。車2台を除けば行列の先頭である維新勤王隊が入って来たところを撮ったが、彼らは観客が見てない状態でも演奏を止めなかった。6枚目下は大極殿前に維新勤王隊が到着したところで、大極殿に向かって一礼し、そしてまたしばし演奏をして役目を終えた。応天門から南の大鳥居までの間の両側は有料の観覧席で大勢の見物客が見守る中、マイクで各行列の説明が随時なされる。前述のように、来年はわが自治連合会が5頭の馬のうちの一頭に乗る番で、乗り手が見つからない場合は筆者が乗る。もちろん百万円の十分の一の金額も支払う必要はないが、乗馬の練習に遠方まで行くなど、車の運転が出来ない筆者には面倒なことが多々ある。それに聞くところによれば70歳が限度らしく、それ以上の年齢では落馬した時に怪我をする可能性が高い。人生に一度のことなので筆者が乗ってもいいが、そうなると来年の裃2名の着付けは筆者が出来ないので、それをどうするかの問題がある。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→