「
マジと聞き ジメの答えに 目が点に 洒落のわからぬ ダサ真面目者」、「鶏の 頭切っては ギロチンと 呟く者を 技与胆と呼び」、「季節過ぎ 勝負はついて 結果あり 生き物すべて 盛期を迎え」、「鶏頭の 花にバッタの 殿様か 赤い絨毯 見栄えよろしき」

今朝裏庭に出て雀に米をやった後、鶏頭の鉢を見ると花の上にバッタが乗っていた。若冲の有名な著色画に鶏頭にカマキリが乗る様子を描くものがあるので、バッタよりカマキリがいいのにと思ったが、カマキリを裏庭で見かける可能性はこれまでの経験で10年に一度くらいで、そのカマキリが鶏頭の花の上に乗るのは数十年に一度であろうから、バッタでもよしとせねばならない。一方、トノサマバッタという言葉を思い出し、赤い鶏頭の花の上に葉のような緑色の体はよく似合うから、そのバッタが緋毛氈に立つ殿様を思えばいいと考え直した。しかしこのバッタはショウリョウバッタだ。精霊と名がつけばお盆で、その頃に最も多く見かけるのだろう。田畑があればどこにでもいると言いたいところだが、筆者がこのバッタを夏休みに大阪市内から母に連れられて京都に行った昭和30年代とは違って、その後は化学肥料や除草剤、殺虫剤の時代となって害虫は減ったが、同時にこうしたバッタも激減したのではないかと想像する。今朝見かけたこのバッタは遠方から来たのではなく、わが家のすぐ近くにある小さな畑で孵化したのだろう。そして裏庭を草木で鬱蒼とさせているわが家にやって来るのはごく自然だ。ただし春にはいろんな蜂も飛んで来るし、初夏にはムカデが家の中に侵入するから、自然の豊かさを歓迎することは嫌な虫も受け入れることだ。殺虫剤で嫌な虫だけ殺すという発想がそもそも傲慢で、その嫌な虫は自然界の中で人間にはわからない重要な役割を持っているに違いない。それはともかく、鶏頭の花も野生が本当は最も美しいのだろう。その人の世話に頼らない「勝手に咲く」ことは人間も同じで、あまりに庇護される者は面白くなく、本人もそのことを知っているだろう。しかし野生の鶏頭でしかも筆者が描きたくなる花はどこにあるか。その出会いは大げさに言えば奇跡で、それが何度も起こるはずがない。鶏頭ファンが日本に点在していて、彼らがSNSで立派に咲く鶏頭の写真を随時ネットに載せているかもしれないが、その優劣を競うようなことを筆者は好まない。絵画は嘘であるから、惨めに咲く花でも誇張して豪華に見せることは出来るし、それが絵を描く者の褒められる才能だが、誇張にいやらしさを感じさせないことは難しい。さて、6月24日に種子蒔きをした鶏頭は1か月後に開花し、その2か月後には今日の写真のようになった。ブロック塀上の鉢はどれも無残で、花は暑さと戦ってか、馴染んでか、色は残しても葉も茎も役目を終え、種子だけを来年のために残した。この最も成すべきことをきちんとやり遂げる能力は当然のこととはいえ、いつも驚嘆する。

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