「
いろは知り 段取り大事 仕事には 準備固めて 作強固なり」、「運任せ 出会いは急に 訪れり すぐに動いて 縁を結べ」、「手に入れた わずかな素材 膨らませ 契機わずかも 想い広大」、「創造は 闇の手探り もどかしき 蠢きあれど 形は見えず」
去年10月22日の時代まつりの当日の朝、京都御苑に向けて広小路をバス2台に乗った担当学区の人々と一緒に歩いていると、広小路の南側のとあるビルの1階玄関前に見事な鶏頭のさまざまな花が咲いていた。
翌日写生に出かけ、そのことは去年写真とともに投稿した。同じ場所で今年はどのように咲いているのかがずっと気になり、時代まつりをおよそ1週間後に控えた昨日は、去年と同じようにスケッチブックに折り畳みの椅子を持って市バスで1時間ほどかけて現場に出かけた。同じくらいの時期なら同じように咲いていると想像したのだ。ところが今日の2枚の写真が示すように、去年の面影は皆目なく、また写生するほどの特徴もなく、写真を撮っただけで帰途に就いた。この調子では来年も無理か。あるいはまた去年のように咲くか。それは鶏頭の種子にとっても運次第ではないか。今年の様子はさびしい限りだが、世話する人がいないのに同じ土に落ちた種子が発芽し、また花を咲かせることは生命の連鎖が続いていることであって、まあそう嘆くことではない。嘆くとすれば、このいくつかの植え込みの箱が撤去されることだ。しかしそうなってもこの場所から鶏頭が消えるだけであって、またどこかでおおらかな花を咲かせる。去年の立派な開花に驚嘆し、今年もそれがあると思うのは人間の勝手な期待で、世の中には次の代が目立たないことはごく普通のことだ。巨匠と呼ばれる名を成した人の子孫はたいてい無名で、政治家の二代目もろくなものがいない。親が立派過ぎると子どもは大いに迷惑するのであって、特別の才能は一代限りだ。去年の広小路の鶏頭を特筆すべき咲き誇りと認め、写生した人はたぶん筆者くらいだろう。となればその鶏頭は巨匠級とは誰からも思われないままに消え去った。しかし筆者は写真をこのブログに載せたし、写生もいくらかはしたので脳裏にはまざまざとその色や形が刻まれている。これはある個人が誰かを特別に好きになることと似る。そのふたりとも無名であっても、寄せる寄せられる好意は現実であるから、無のようでいてそうではない。ともかく、去年たまたま通りすがりに見た時の鮮やかな印象は飛び切りの個性的な美人を見た気分であったのに、今年同じかそれ以上の華やかさに再会出来なかったことは残念だが、それこそ現実の縮図の確認であって、なおさら去年の出会いが神々しく思える。人の出会いも同じだろう。強烈な印象は一期一会だ。二度目以降は慣れが生ずる。それはそれで生温くていい気分なのだが、まだ相手の実相をよく知らない感覚に留まっているほうが胸騒ぎがして期待、あるいはドーパミンと言っていいか、が溢れ続ける。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→