「
新月は 月はあれども 見えぬなり なくて見えるは 夢か幻」、「満ち欠けは 人にもあるや 人気者 人の気変わり ええ子盛衰」、「引っ越しに 地植えの木々を 捨ておいて 見殺し桜 今年は咲くか」、「捨てられた 猫にご飯を 与えしは 小判型した 弁当箱で」
去年の2月だったか、近くの古い木造住宅に住む夫婦が突如一夜で引っ越しをした。四半世紀ほど住んでいたと思う。筆者はその夫婦と言葉を交わすようになり、一度だけ2階の全部の部屋を見せてもらったことがある。顔を合わせれば挨拶を交わしていたのに、引っ越しする際の言葉はなく、まるで夜逃げ同然の慌ただしさで、たぶん近所の人全員がそのことを訝ったのではないか。それとも自治会に入らずに孤立した生活ぶりであったので、急に姿が見えなくなっても誰も気にしていないかもしれない。またその古い住宅はてっきり彼らが購入したものと思っていたのに、借りていたことがわかった。以前から玄関側とは違って裏手は荒れた状態で、そのことに眉をひそめる人が多かったと思うが、彼らは見栄えを思ってか、道路際に松や笹、枝垂桜を植え、後者はかなり大きくなって電線に被さるほどになった。桜は枝を剪定しないのが普通とされるのでそれは仕方なく、またそれでいいのだが、花の季節はよくても、葉の繁茂は鬱蒼として落ち葉の掃除は大変であったろう。引っ越しの際、そうした樹木は放置せざるを得ない。それで今度は家主が手入れをせねばならないが、去年の秋、植木業者がやって来て、枝振りを半分ほどにした。それでも今年も花は楽しめそうだ。今日の満月の写真はその桜から見通した。家主がいない真っ暗な家のすぐそばに立つこの木は何となくさびし気で、苗木を植えた主から見捨てられたことを知っているのだろう。
白井晟一の『無窓』の「幻の花」は、冒頭で白井の家の庭に植えられた枝垂桜の話が出て来る。「両三年前、俗な庭造りだといさめてくれる人もあったが、陋居の庭に一本の枝垂桜を植えてもらった。嫋々たる可憐を求めたのは老候というのかもしれない。七、八尺にも満たない若木ではあったが、ひそかな祈りにこたえてくれるように三度の春をこころゆくまでたのしませてくれた。だが去秋、大雨のつづいたころ、公害にもいためられたのであろう一夜のうちに見る影もなく黝んだ枯葉におおわれてしまった。…」とあって、花を3年だけ楽しんだことが書かれる。その点、わが家の近くのこの桜は勢いがよく、家が取り壊されない限り、まだ咲き続けるが、何分築7、80年は経つ家であるので、次の借り手はいないかもしれないし、取り壊しになればこの桜も根こそぎされるだろう。更地にしても残すほどの思い入れはなく、家の解体には邪魔になる場所に立つからだ。空き家になって1年ほど経つので、桜も気が気ではないはずだが、春がやって来ると咲くほかない。人も同じで、先の運命がわからないのでともかくその日その日を生き続ける。
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