「
雨乞いの 願い届かず 夕暮れに 今日も水汲み 庭にぶち撒け」、「多肉さん 飢饉に備え 賢きや 水も脂肪も 蓄え続け」、「黒ければ 黒いほどよし 血の凝固 赤味の黒の 花逞しき」、「赤と青 混ぜて紫 濃さを増し さらに焦がして 醤油の溜まり」
白井晟一の『無窓』に収録される「幻の花」は1977年1月に朝日新聞に載った短い文章で、その後半が面白い。「私はもともと花がすきだという方ではなかったが、いつのころからか黒水仙、また黒百合なら探してもみたいと思うことがあった。幻の花といわれているからだろうか。…ある年私はミラノでたまたま、黒い花をつけるというチューリップの球根をみつけることができたが、次の春やはり日本の土壌にそむかれたのか、あこがれの黒は見られなかった…」とあって、黒が思っていたような色合いでなかったのだろう。筆者が黒い花から連想するのはザゼンソウだが、黒水仙も黒百合も黒いチューリップもみな赤を基調とした「赤黒い」と呼ぶ色合いのはずで、血が固まった色を思えばよい。それを黒と呼ぶのはためらいがあるが、花はそうした黒さしか体現出来ないと思う。しかし青い花は多いから、青味を帯びた黒色の花もあるかもしれず、それなら青墨のような色合いになるだろう。昭和の半ば、「黒い花びら」という歌謡曲が大ヒットし、確か初のレコード大賞を獲得した。白井の脳裏にその歌の題名があったのではないかとも想像する。黒い花は現実にはきわめて珍しいから「幻の花」と呼ばれたりするのだろうが、牡丹の花にザゼンソウよりもっと黒味がかった品種があって、日本画家がよく描く。大輪であるので、水仙や百合よりはるかに迫力があって、白井が注目しなかったのは不思議だが、花好きでなければ牡丹は簡単には育てられない。さて、嵯峨のスーパーへの途上、今日の最初の写真の「黒法師」が鉢植えされている。多肉植物、サボテンの仲間で、黒い花の代表格と言ってよいが、これは花弁ではないと思う。しかし強い日差しを受けて色合いがなおさら黒っぽく見え、黒人の逞しい肌を連想させる。白井がこの植物を知っていたかどうかだが、知っていてもいつも開いている状態では造花のように思って好まなかったのではないか。日没間際では背後の白い壁面に花の影を作り、その対比も面白いと思いながら、午後2時頃に撮った。一方、筆者はこの黒法師とその影の対比からキリコの「広場に映える太陽」を連想する。1971年の作で、筆者は74年の『キリコ展』で見た。70年からキリコは陰陽のペアになった太陽を描き始め、初の日本展は最新のキリコのその画風も紹介した。太陽が太陽の影を作る、あるいは影は影の太陽が作るのか、キリコは光と影の関係を風景を画題にする際に追求し続けた。白井が黒い花を求めたのは、窓のない陰なる雰囲気の部屋を書斎にし、そこで陽を考えたからか。日陰に暮らすともやしのように白くなる。赤銅色は過剰な光あってのものだ。
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