「
夏まつり 校庭使い 縁日の 気分盛り上げ 子ども遊ばせ」、「自治会に 入らぬ家庭 増えるのも 少子高齢 仕方なきかと」、「住民の 懇親のほど 難しき 好悪ありても 顔には出さず」、「あの人と もっと話を 望んでも 傍目気にして 5分で済まし」
3日前の27日に地元小学校で自治連合会主催の夏まつりがあった。14,5年前に筆者が自治会長を4年務めた時に馴染みの催しで、その後に少年補導委員を何度か引き受けた年も参加した。参加というのは主催者の一員として準備や後片づけも行なうことで、祭りの開催中はフライドポテトやみたらし団子、かき氷その他を提供する模擬店の運営に携わるので、朝から深夜まで終日ボランティアとして働きづめとなる。朝にテントを張ったり食材の準備をしたりした後、祭りは日が沈む5時からの開催となって、今年もそれを踏襲した。筆者は自治連合会の中で高齢の3人しかいない平安講社の役員のひとりで、本来は当日の準備や運営に携わるべきだが、声がかからなかったことを幸いに手伝わなかった。しかし全く顔を出さないわけには行かない。わずかでも行って顔見知りの人には挨拶をするのが礼儀で、それで午後5時ちょうどに校庭に入った。ちょうど紅白の幔幕内で演目が始まったばかりで、その様子を長椅子に座って鑑賞する悠長な姿は見せられないので、模擬店のテントの前や運動場の中央に立って周囲を見回し続けた。その時に撮ったのが今日の写真で、5時半から6時頃までの間のものだ。開会の5時はまだ日差しがあって、今年の猛暑では高齢者はさすがに夕涼みを期待して訪れると当てが外れる。自治連合会の筆者と同年齢のTさんとしばし立ち話をしたところ、熱中症気味で児童数名がクーラーが利いている部屋で休んでいると聞いた。同じ日の夜のTVニュースでは高槻市のもっと大きな規模の小学校の同様の夏まつりで児童5人が熱中症で倒れ、救急車が出動する騒ぎとなって、ヘリコプターが現場を上空から撮影していた。全員命に別状はないとのことで、通報した人たちは自分たちで対処出来たのではないかと思う。そのような大騒ぎになると来年からの同じ時期の開催は難しいだろう。今は責任問題がよく言われ、そのことに尻込みするあまり、子どもを集めた地元のまつりの開催は積極的になれない世代が増える一方ではないかと思う。あるいは開催時間をずらせばいいかもしれないが、あまり暗くなってしまうとそれも考えものだ。思い切って「秋まつり」と称して1か月ほど遅らせればいいかもしれない。それは自治連合会の各役員の協議による問題で、その話が持ち上がれば筆者にも参加要請の報せがあるかもしれない。あるいは今回手伝いを告げられなかったので無視されることもある。それはそれで全く気にしない。こうした行事はほかに体育祭がある。それに去年は自治連合会50周年の特別の催しがあった。
行事の資金は自治会費を集めた自治連合会が各種団体に分配する。毎年大部分を使う立場にあるのは模擬店の運営をする体育振興委員と少年補導委員で、双方の合計で80名はいる。彼ら以外にPTAの役員や父親の有志団体、民生委員その他が協力する。50年も経てば時代が変わる。筆者が知っていた自治会内の古老たちは亡くなるか姿を見なくなり、自治会の委員名簿を見ても四半世紀前に名前のあった人はひとりもいない。それで大きく変わったことがあるかと言えば、各自治会内での地蔵盆や小学校での体育祭、夏まつりは内容は変わっても続けられていて、その最大の理由はほかの自治連合会もやっているからというのが一番大きいのではないか。しかしどの連合会でも同じ行事をやっているかと言えばそうではない。そのことは自分の学区のことしか知らないのであればわからないが、筆者のように嵯峨のFさんとよく話す機会があれば、連合会の会長の判断ひとつで行事内容が違うことを知る。それはある意味では大きな問題で、いかに自治連合会が他の同じ会の事情を知り、その情報を地元住民に告知しているかが問われる。しかし他の自治連合会のことを会議で持ち出しても、「よそはよそ」という一言で議題の俎上に載らないらしい。筆者はその「よそはよそ」という考えを抱く理由を問えばと言いたいのだが、長年連合会役員を務めている人に盾突くことは難しいだろう。ともかく各自治会内で時代に応じて何が求められているかを知ろうとする意識を自治会や自治連合会の役員たちが持つ必要がある。面倒臭いとばかりに行事を辞めてしまうのは簡単でも、復活は並みたいていのことではない。惰性と思われることがあってもなるべく地域住民が全員参加出来る催しは続けたほうがよい。ただし悪い意味での惰性は必ずある。そのことを言いにくい雰囲気があるのはどの団体でも同じだろう。それは日本の政治を見てもわかるように、年功序列が幅を利かせ、90歳近い人が相変わらず要職に就くことだ。年齢は関係ないという言葉はそのとおりだが、若い世代が気を使うことがよくない。働き盛りの人は自治連合会のこうした催しに時間を割きにくく、それで定年退職をした70歳以上の人が主に携わるが、誰でも想像出来るように時間と金の余裕のある人が中心にならざるを得ない。そして弁護士はいないと思うが、医者や大学の先生には声をかけづらく、その奥さんが代わりとなって各種委員を担当する場合が普通で、女性が半ばを占めるのはいいことだが、案外そうでないことも去年実感した。そのことをここで詳しく書くことは出来ないが、一言すれば男中心の団体に女性が入ると女性同士で対立しやすい。表沙汰にならないだけによけいに始末に悪く、去年そのことを充分学ばせてもらった。結論を言えば資金の流れの不透明さだが、証拠の書類があっても10数年前の古いこととなると領収書その他が残っていない。
結局は現状維持が無難ということになるのだが、ある委員から聞いた話には驚愕し、またなるほどと妙に納得もした。自民党政治の縮図そのままで、自治連合会と日本の政治を比べるのは規模が違うものの、本質は全く同じだ。何かに特別の才能を持っている人はこうした住民の集まりの長にはならないし、またなれない。平凡の代表のような人物が首相になるのであって、個人は清廉でも集団となればそれでは済まない事情がある。それでみんなからの税金の幾分かを自分たちの保身のために使う。これも詳しく書けないが、嵯峨のFさんもつい先日そのことを実感したらしく、「暇と金のあるぼんくらの老人どもが好き勝手やっている」と毒を吐いていたが、聞きながら筆者は大笑いした。そのとおりであるからだ。世間の人間関係はしょうもないことが圧倒的に多く、それに気持ちを集中すると精神を病むと言っていいほどだ。それゆえそのことを直感しているごく普通の人は自治会や自治連合会から距離を置こうとする。人生で何が最も負かと言えば人間関係のトラブルだ。表立って口喧嘩をするのはまだよい。陰で長年恨みを抱き続けると、そのことがその人の顔つきや態度にも現われて来やすい。それで筆者はあまり親しく話をしたことのない人を色眼鏡で見ることを絶対にしたくないし、本能的に嫌いであってもそのことを努めて顔には出さず、挨拶程度で済ます。ここで男女の差を持ち出すと筆者が偏見を持つ人間と思われるので、以上のことは女性全般に押し広げる話ではなく、ごく一部の女性のこととしておくし、またそれを言えば男でも一部には呆れる態度の人がいる。そうした小説向きの話は昔自治会長をした4年の間にいろいろ体験したが、順に故人になって行くし、またそうなれば誰も噂せず、忘れ去られた存在になる。そう思えば、腹立たしいことがあっても何度も思い返さないに限る。人物の評判は不思議と公平なもので、生きている時は大きな顔をしていた人も、死後はその人物の評価が天秤にかけられ、横柄な態度が目立った人はそのことが強調されて評価が定まる。それは憐れなことだが、筆者から見れば本当は生前からその人の評価はそうであったのに、本人だけが知らなかったのであって、生きている間から憐れであったということだ。筆者は積極的に自治会長や今の平安講社の役員も望んだのでは全くない。頼まれたので引き受けただけだ。いつでも辞められる思いはあり、3000世帯の地域の中で名が知られて自尊心が満たされることはない。しかし稀に親しくしたいと思う人はあって、年一度のこうしたお祭りでたまたま出会って会話するが、人目を気にするあまり、あまり親しい雰囲気はご法度だ。洲之内徹はある画家が地元自治会の役割に時間を割いていたことを惜しんだ。そんな暇があれば絵を描くべきと思ったのだ。そのとおりだが、地方ではそうは割り切れない場合が多々ある。
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