「
アフリカの 花も似合うや 日本の 暑さと湿度 どこにも負けぬ」、「サルスベリ 磨きかけずも 肌つるり 夏の百日 花は枯れずに」、「木陰でも 暑さしのげぬ 昼下がり 秋の彼岸は 2か月も先」、「熱中し 死ぬことなきと 笑いつつ コロリ魅せられ 借金抱え」
コロナ禍の最中、嵯峨の『花のいえ』という有名な宿が地元住民を対象に昼食を風呂つきで確か2500円で提供した。通常の半額だろう。結局行かず、またいまだにその内部を知らない。昔は学校と提携し、先生とその家族専用で、筆者も家内も知り合いの先生が利用したことがある。嵯峨のFさんは今は誰でも利用可能で、しばしば利用していると言う。10年ほど前か、K先生が夜に電話して来られ、『花のいえ』に宿泊中と聞いてびっくりした。わが家からは渡月橋を挟んで直線で300メートルはない。そんな近くなら筆者が駆けつけてもよかったが、夜であったし、先生はひとりではなかったかもしれない。家内と嵯峨のスーパーに行くようになって、『花のいえ』の前は毎回通る。一軒置いて東の角を曲がることが多いが、曲がればすぐ右手が富田渓仙がかつて住んだ家だ。渓仙が描いた絵に『花のいえ』の前辺りから嵐山を臨んだ風景画があって、その様子は現在とほとんど変わらない。『花のいえ』というだけに庭に多くの花が咲いているのかと思うと、通りがけに門の奥を見るとその気配はない。しかし三条通りに面した岩組みの塀は今年はツツジの花が異様に満開で、オレンジがかった赤にピンク系の花が隣り合って群がり咲く様子をよほど撮影しようと思った。またすぐ近くバス停があって、最近は外国人観光客がそこでよくバスを待っている。自転車で買い物を済まして三条通りに出る角を曲がると、今日の写真の光景だが、歩道が狭いのでバス待ちの人が邪魔になる。また百日紅は『花のいえ』ではなく、その東隣りの家のものだ。『花のいえ』のツツジの咲く岩を積み上げた垣根は歩道にかなりせり出し、灌木の緑を丸く刈っているのは当然ながら、刈りの程度が少ないため、歩道はさらに狭くなり、前方に自転車を見た歩行者は車道に出てしまうことがよくある。植栽の出っ張りは年々大きさを増している気がするのは、植木屋がせっかく大きく育って来ているのを大幅に刈り取ることをよしとしないからではないか。もう10センチか20センチ刈り取ってくれれば自転車は走りやすく、歩行者も窮屈な思いをせずに済むが、そのわずかな境界のせめぎ合いが京都人の美意識と、事を荒立てない思いがこもっている。写真の百日紅の開花にふいに気づいた日を忘れたが、自転車で角を曲がった途端、眼前にピンク色の花が見えてびっくりした。そういう不意を突かれることが俳句や短歌、あるいは音楽、絵画などを作る契機となる。しかし百日も咲き続けると造花と勘違いして面白味を感じない人は多いかもしれない。木に咲く夏の花は夾竹桃があるが、最近あまり見かけない。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→