「
まみむめも 真美は目は無し メモも無し 揶揄はようない ラリる連労」、「まったりと たまには空を 見上げれば 蟻の気分の 小さき吾や」、「オレンジの 色鉛筆を 選ぶ子の 目に焼き付きし 爆撃の花」、「美しき 夕焼けすぐに 消え去るも 湧くこと絶えず ワクワク感は」、「陽が落ちて 仕事帰りの 母を待ち 食事の準備 済ます子どもら」
夕焼けの美しさを老年にたとえることがある。人生最後期に華々しさがある人はいいが、まあ世間では叙勲された人はそのように見るだろう。そういうことに縁のない人は立派に育った孫に目を細めるか、孫のない人は会えばしきりに話し合える人がいるという程度の幸福で我慢する。だがそれでさえ贅沢かもしれない。結婚せず、友人もおらず、ひっそりと隠れたように暮らす人がいる。老いると多幸感が増すのか、富士正晴は自分の父親を見てそう評した。老境の多幸感が夕焼けの美しさだろう。それで思い出すのが、73年の映画『ソイレント・グリーン』で、自殺願望の高齢男性がある施設を訪れ、画面で自然豊かな美しい景色を眺めながら薬で死んで行く。現実に夢も希望も失った孤独な人がそのように自殺出来る施設は、人が心の最も奥底で何を希求しているかを考え尽くしている。最期が『ああ、よかったな』と思いながらの死であれば、そして自殺であれば、そのことを責められる人はほとんどいないのではないか。現在の日本は孤独死が増加していて、彼らは死ぬ間際に何を思うだろう。それは死に瀕した人しかわからないが、家内の母が亡くなる時、大いに苦しんだのに息を引き取る瞬間に笑顔になったそうだ。それは人間が死の苦しみを脱して別世界に踏み込む際に遺伝子に密かに記録されている絶対的かつ人生に一度限りの快感の鍵が開いたからではないか。そう考えると『ソイレント・グリーン』のような素晴らしい自然の映像を見なくてもいいのかもしれず、孤独死する人はみな快感を経て死に、死は一片の恐怖もない。死は誰もが一度経験するから、そのことをあれこれ考えても仕方がなく、老境の多幸感を考えればよい。これは楽しく時間を費やすことと同義で、誰しも他者から言われずともそれを求めて最も幸福と思える状態に留まっている。上司のパワハラがあれば、そして抵抗がかなわないのであれば、さっさと辞めて自己保身することだ。どうなってもそれなりに生きて行けるのであって、死の間際の絶頂多幸感の楽しみは先延ばしすべきだ。ひょっとすればその多幸感は生前の幸福感に比例しているかもしれず、結局は誰しも思っているように、どう満足して生き続けたかが重要だ。それはいろんな事故に遭遇しながらも満足する消極的生き方の自己満足のようだが、他人を満足させようなどと大それた考えは持たないことだ。配偶者やわが子でさえ、満足させてやれない場合が普通で、まずは自分を大事にし、やがてそれが周囲を感化し、多幸感の渦が広がって行く。うまくまとめ過ぎか。
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