「
開くのが 怖き日記を 父遺し 読まずに燃やす 三回忌の夜」、「髪伸びて 耳をこそばし さあ行けと 床屋の香り 日増しに強し」、「古き家 取り壊されて 空き地出来 子ども遊ぶな 雑草の森」、「雑草に 隠れし痴漢 アラ還で 痒くてあかん 虫の餌食に」
家を取り壊した後の空き地は税金が高くつくのか、すぐに家が建つ。空き家税がかかる時代になるとのことで、政府はあらゆる隙を見つけて税を徴収しようとする。雑草のごとき油断のなさだ。嵯峨のスーパーの近くに最近空き地が出来て、みるみるうちに雑草だらけになった。背丈が人以上となって子どもが遊べなくなったうえ、夜間にそこに隠れて人を襲おうとする者が出て来るかもしれない。ゴミを放り込む者もいるはずで、雑草が育し過ぎるとよい印象を与えない。やがて鳥が種子を運んで樹木が育ち、そうなると虫が増えて鳥が住み、それを狙う蛇や小動物もやって来て自然が戻ることになるが、それこそ自然でいいかもと思う。人間が出来ることは限られるのかどうか、人が住まなくなれば雑草の繁茂から始まって豊かな自然は戻って来る。しかし世界の人口が数十億では、人間以外の動物の側からすれば人間は脅威で、多くの種が絶滅して行く。そしてそういう環境下で温暖化が加速して人間が苦しむ。動物もそうであるはずで、毎朝古米を撒く筆者は雀を案じる。さて、雑草はみな個々に名前があり、見分けられるようになるとそれなりに面白い。筆者はそこまで雑草への興味はないが、毎年「風風の湯」に向かう途中の舗装道路と歩道の間に1本だけ目立って成長する雑草が気になる。名前を調べると「トゲシチャ」だ。シチャであれば食べられるのかと思うが、トゲがある。筆者はこの雑草を見るたびに西洋の刀剣が輪状にいくつも取り巻いた様子を連想し、その過激な形状にいかにも嫌われ者の雑草を思う。道路を清掃する役所の人がそれをきれいに刈り取っても、また気づけば育っている。それが毎年のことだ。種子がどこかにこぼれて土の中で雌伏し、折りを見てしぶとく再生するのだが、人間も同じことだ。筆者はトゲシチャを写生したことがある。その姿を美しいとは感じないものの、それなりに堂々として見事なことに感心するからだ。日本画家がトゲシチャを画題の中心として描いたことはないと思うが、美とは何かを考えると、雑草の中でも特に孤立して目立つトゲシチャは人間の美意識に何か大きなものを突き付けている気がする。思うにトゲシチャのような人はいて、彼らの逞しさはそれはそれで大いに魅力的で、人間が野生を忘れないことの証として遺伝子は受け継がれて行く。そういう野生性が人を襲うことに現われれば困るので、清掃局はトゲシチャを見れば刈り取ろうとする。だがいくら抜いても必ずまた姿を現わし、絶滅することはあり得ない。嫌われ者が世にはばかることは昔から言われているとおりだ。
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