「
ITを 使いこなせず 苦労せず 昔はみんな そうして生きた」、「今は今 山や浜中 移り行き 古き用なし 洋ナシ美味し」、「やけくそに なっても食うな 焼けたクソ ちりめんじゃこも クソ持ち干され」、「おとといは 昔のことと 夫言い ばれた秘密を しらばっくれる」

『ポケット・モンスター』をテーマにする『おっとっと』は3か月前に投稿したが、新たなものと勘違いしてまた買った。筆者が『ポケモン』に無関心であるのは年齢からして当然かと言えばそうではない。『ポケモン』が登場した頃、TVでそのアニメが大いに話題になり、筆者より1歳年長のMはその話をよくしてくれた。Mのように家族にそのアニメを楽しむ小さな子がいれば、父親は興味を持たないではいられない。そうでない父親もいるが、Mは流行に敏感であった。しかし広い世の中で話題になるものすべてを把握出来ない。興味の対象が異なるだけで、筆者も自分なりに話題になるものには関心を持って来た。それは若い頃に摂取するいわゆる教養を基礎にすべきであることをたいていの常識的な大人は自覚しているが、大人になって知ることになるが、そうした古典的教養に無関心な大人は圧倒的に多い。彼らは日々泡のように現われては消えて行く流行には敏感だが、教養を無視ないし敬遠して積んで来なかったので、その流行の底にあるものを知ろうとしない。とはいえ、古典的教養はあっても流行に無関心な大人もいるはずだ。筆者はそういう無粋な知識人の知り合いがないが、いても話が嚙み合わないと思う。そのこともあって筆者には深い教養の実態がどういうものかはわからない。ただし教養は若い頃に取り込み始めて死ぬまでその作業は終わらないことは知っている。その意味で何歳になっても学びは始められるし、その心がまえを保つことで脱皮を繰り返すことが出来る。そういう態度のない人は表現者にはまずなれない。何かの間違い、本人の勘違いの暴走でそれなりのファンをつかんで狭い範囲で有名になることはあっても、残念ながら底が浅いのでやがて飽きられ、消えて行く。大多数はその運命をたどり、それはごく自然なことで、世の中は正直だ。『ポケモン』はどうか。100年後に残っているだろうか。『おっとっと』に関心があれば、『ポケモン』の魅力がどこにあるかを探るべきかもしれないが、さまざまな種類のモンスターがいて、それらがどういうドラマを繰り広げるかは、古典のドラマを下敷きにしているはずだ。そこに若干の現代的新しさがあるとしても、同じようなものは今流行っている何かにもあることは疑い得ない。混沌のスープを全部飲み干せない。わずかに小さなスプーンですくって味わうことで全体を知る。誰もがそうするしかないし、それで充分だ。そして誰もがそのスープの中に住み、混沌の正体を知ろうとするが、それは何かを選んで整理することでしか得られない。結晶とはそういう作業で出来上がる。

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