「
不思議とは あたりまえだの クラッカー どんなことでも 結局不明」、「空見上げ 平八郎の 絵と同じ 青空澄みて 白い雲湧き」、「恵まれぬ 子らに与えよ 信頼を 褒めて励まし そっと見守り」、「日陰にて しばし休んだ さあ立とう 先は長いぞ あの山越えて」
大阪中之島美術館で5月に会期が終わった没後50年の『福田平八郎展』を見に行かなかったが、TVで特集番組を見た。そこには昔見た平八郎展の図録に紹介されないことがいくつかあって印象深かった。ひとつは平八郎が児童画に着目してそれを描き写す一方でマーク・ロスコらのアメリカの現代抽象画家の作品にも目配りし、同じように縮小して模写していたことだ。もうひとつは日展への最後の出品作の紹介だ。筆者はその作品を初めて知った。青空に白い入道雲を描き、その単純さは画風から納得が行くものの、ひねりがないので物足りなさもある。しかし青空に湧き上がる雲を描くとして、ほかに工夫の方策があるだろうか。雲の輪郭を人の横顔に描く、あるいは飛行機を小さく添える、それとも気球をいくつか点在させるなど、凡人が考えつく童画的な構図では商品的なイラスト画になってしまう。芸術は有無を言わせない絶対感が必要だ。だがそれをあからさまに主張されると身も蓋もない気がする。平八郎のその遺作と言っていい作品はそう感じさせる。しかしその身も蓋もない、つまり平八郎の絵画にありがちであった装飾性を一切排除し、あるいは青空と白雲のみで装飾と考える描き方は、児童画的でありながらアメリカの抽象絵画的でもあって、晩年に日本画とは直接に関係のないそうした絵画に関心を示したことの成果と言える。だが平八郎の人生がもっとあったとして、その遺作から先があったろうか。筆者は平八郎絵画のすべてが好きではない。その理由は自然を見つめてそれを画面に描く時の記号的単純化の基準ないし規則がかなり曖昧に思えるからで、ロスコのような絶対的純粋性を希求しなかった。そこには日本画の装飾性という特色があるからだが、平八郎は装飾という言葉を嫌ったのではないだろうか。そういう虚飾を連想させる要素を自作に持ち込まず、色も形もぎりぎり必要なものだけで構成しようとし、そして究極が青空と白雲のみが画面を分割する作となった。これは写真家でも即座に同様のものが撮り得るし、筆者は今日スーパーに自転車で向かう前にあまりに暑いので空を見上げると、見事な入道雲が目に入った。そして撮ったのが今日の写真だ。もちろん平八郎の作を思い出しながらであった。平八郎に対抗する意味合いからではない。誰でも「ああ、真夏だな」とごく素直に思う典型的な眺めと思っただけで、その意味できわめて月並みで何の面白味もない。そう思いながら、この青と白の天空の対比はこれ以上に純粋なものはなく、美は手加減せずに普通にどこにでもあることを思う。平八郎はその境地に至るのに長い道のりを歩き続けた。
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