「
ニヒルとは 何もかも知り やる気なし そう見せかけて ニタリと笑い」、「蝉出る 穴に種落ち 育つ木に 蝉鳴き交いて 地中を目指し」、「早朝に 蝉の合唱 シンフォニー 眉しかめるな うるさき人よ」、「大玉の 西瓜書いたし 諦めし 冷やす場所なし 古冷蔵庫」

今年は7月1日に蝉の声を初めて聞いた。わが家の裏庭で鳴いたのはその数日後で、ここ1週間ほどは朝5時半頃から猛烈に泣き始め、それで目が覚める。日が高くなる10時過ぎには一斉に鳴き止み、夕方にまた思い出したように一、二匹が短く鳴く。つくつく法師はまだだが、数日以内に聞こえるだろう。わが家で蝉が鳴くのは背が最も高い合歓の木だ。その名のとおり、蝉は合歓している。一昨日「風風の湯」に家内と向かう時、小学3年生くらいの男子が虫捕り網を持って駅前の桜の木を見上げていた。しかし夕方7時となればもう蝉を見つけることは難しい。地中に6年か7年か、とにかく長い間眠っていて、地表に出た途端に捕獲されれば、蝉はやり切れないが、子どもが捕るくらいでは絶滅しない。そう思って人間は魚を食べている。去年少年補導委員をした時、ちょうど今頃の夜間パトロールで、ある委員が小学校の外壁に脱皮中の蝉を発見して懐中電灯で照らした。割れた背中から青緑色に光った蝉が半分出ている状態で、その委員はすぐに灯りの向きをまた道の前方に向け、10人ほどの委員は解散のための場所に戻った。人知れず蝉は脱皮し、樹木の上方で雌を求めて猛烈に鳴く。1週間かそこらに交尾を済ませなければ子孫は残せられないが、子どもに捕獲されればさぞ無念だろうと思うのは人間の勝手で、さて蝉はどう思っているか。独身で異性に縁がないまま生涯を終える人は珍しくなく、蝉も人間も似た生涯と言えまいか。ただし地中に長年いて、その後のあまりの短い生は、人間の10月10日を母体で眠ることと比較すれば、人間はわずか1日だけの人生となる。それでは何を優先するか。やはり異性を求めて子孫を残そうとするだろう。しかし人間は1日では赤ちゃんのままで何も出来ず、10数年を経て子孫を残す能力が具わる。今日の写真は数日前に裏庭の合歓の木とグミの木の根本で見つけた蝉がはい出た穴で、同様のものが周辺で3つ4つあった。地面に穿たれたその穴は女性の性器の穴を連想させ、女性が地母神と言われる理由がわかる。蝉は自らの力で地中を這い上がりながら土の管を造り、地表に出ればそこらの幹に留まって脱皮する。同じように世界は何かを運ぶ管で出来ていて、食道や産道も含めた内臓と電線や地下鉄は同じ原理に基づく。ロジェ・カイヨワの言うように世の中の構造は1ダースに満たない原理から成っているのが確かとして、かけ離れたように見える何かと何かを根源的な相似において言葉で捉えるのが詩人だ。イメージを描く画家にしても同じだが、突飛なイメージの組み合わせで喜々としている画家は悪い意味で子どもじみている。
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