「
全くと 相づち打ちつ 裏の腹 おっしゃるとおり やぶさかでなし」、「水風呂に 浸かるよりまず 水を飲み お腹ちゃぽちゃぽ 水風呂孕み」、「8月が 終われば吾は 年を増し 残るは四月 年末早し」、「めっちゃいい 流行り言葉は 食っちゃいい 老人技を 侮るなかれ」
満月が人を狂わせるという話を筆者は子どもの頃に狼男によって知った。TVで放映された映画であったと思う。今月2日に投稿した「その1」に体は誰しも同じように成長するように遺伝子レベルで設計されているのに、なぜ精神はさまざまで、中には人間に危害を加えるひどいことを平気でする者がいるのかと書いた。ローマ時代には「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と言われ、そのことを信奉する日本人は特にスポーツ愛好家には多いだろう。しかしこれも以前書いたことがあるが、その言葉は「健全なる精神にそうではない精神の宿ることが多い」ことから、そうではあってほしくない願望を述べたものというのが真相らしい。他人に危害を加える者はそれが分かれば捕らえられ、法律によって裁かれるが、同じ危害でも自身に向かう場合がある。自殺だ。これは分かったところで本人は死んでいるので逮捕出来ないし、自殺は仕方なき例外的な罪とされている。自殺の理由は自分も含めて世の中が面白くなくなり、絶望を思うからだろう。となれば絶望は健全ではないことになる。生きていればいずれまたいいことがあることを自殺者はよく知っているが、楽しいことの頻度と内容はわかっていると思う人が自殺する。3か月前に久坂葉子の3冊の本の感想を書いた。その1冊の
『詩集』の帯に鶴見俊輔が久坂の自殺を病気と書いていて、これは精神を病んだことの意だが、久坂は突発的にではなく、計画的に死んだのではないか。電車に飛び込んだのが大晦日の夜というのは、新年が明ける前に生を清算したかったのだろうが、今筆者はひょっとすればその夜は満月ではなかったかと気になって早速調べた。すると1952年12月は1日と31日が満月だ。その後者の夜、久坂は自殺する駅に向かう間、満月を見たに違いない。その満月の夜であったことを富士は知っていたであろうか。あるいは他の誰かが指摘したであろうか。美しい寒い夜空の満月を見た後に命を絶つことは、せめてもの慰みになるであろう。またその日をわざと選ばなかったにせよ、久坂の自殺は劇的なものとして記憶される舞台装置は整っていた。人が満月によって狼に変身するとすれば、久坂は狼になって死ぬことを強いられた、あるいは望み、そこに久坂なりのロマンと茶目っ気がある。さて、
2日の満月は深夜11時頃に3階の窓から撮ったが、屋根が光っているのが面白く、珍しく満月を中央に置く構図にしなかった。今日の写真は「風風の湯」の帰り、その玄関前で9時を少し過ぎた頃に撮った。桜の木の中に収め、どことなく野生の狼に見える。幹が明るいのは下からライトアップされているからだ。
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