「
何かしら 気になることの 多かりし 昔も今も 雑事にまみれ」、「三日月を 見たと思えば 半月や 月の満ち欠け 矢のごとしなり」、「夕焼けの 見事さ称え 妻と行く 下駄を鳴らして 温泉目指し」、「夜更けには 山頂目指し 進む月 高く昇れば 人寝静まり」
今月は満月が二回ある。この『新・嵐山だより(シリーズ編)』のカテゴリーで調べると、2012年8月、2015年7月、2018年1月と3月がそうで、3年に一度の珍しさだ。さて今夜の写真は深夜に撮ったが、満月は早めの7時頃過ぎに撮ることが多い。満月の夜を予め調べているからで、それほど特別の日かと言えば、始めたからには毎月欠かさずという惰性ゆえだ。筆者は真面目な部類だと思うが、人間は多面性を持っている。肉体は子どもから大人へと順調に成長し、つまり成長は正確律儀に設定されているから、行動の真面目さは理にかなっているが、肉体は立派に成長しても他人に平気で危害を加えるようなとんでもない悪さをする者がいる。これは不思議なで、精神の律儀さ、真面目さはどういうものかは断定出来ないと言えそうだ。しかし人間は法律を作り、それを乱す者すなわち真面目ではない者を罰するので、やはり真面目さはあるのだろう。その真面目さは肉体がいわば勝手に健全に動いて成長することと釣り合っている。誰もがそう思いたいところだが、他人から真面目の典型と思われている人物が陰で非人間的なことをする事件はしばしば報告され、絶対的真面目はないということになりそうだ。筆者は幼少時からそのことを思っていた。以前書いたが、小学1,2年生のクラス写真に、先生から委員長に任命されたA君がいつも40数人の団体から少し離れたところに真面目の代表のようにして直立不動でいる。筆者はA君とは親しくならなかった。彼は寡黙で、さっぱり面白味を感じなかったからだ。簡単に言えば生真面目の代表で、それは筆者にはつまらなかった。しかし悪ガキが頼もしく見えたこともなく、やはりつまらない。成績優秀はあたりまえとして、それに何か別の魅力がなければ団体の代表にふさわしくないと筆者は思っていた。A君は同じ中学校に通い、さっぱり目立たなくなった。やはりと思い、A君は大人になるとますますそうなるだろうと予測した。中学を出た後のA君の消息は知らない。真面目に勉強、あるいは何事かに努力するのは男はあたりまえで、その目指す何かがただ勤勉なサラリーマンであれば全くつまらないではないか。筆者は8歳頃にもう本能的にそのことをぼんやりと自覚していた。ただの真面目は月に一度の満月に似て、何の不思議もない。したがって、中学生の同窓生がやがて一流銀行に勤めたという話を耳にした時、成績優秀ではあってもつまらない男の代表に思えた。とはいえ、現在の筆者は大多数からそのつまらない代表と思われているはずで、それで反旗を翻すわけではないが、世の中はつまらない人だらけと感じている。
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