「
これこれと 瑚璉尼呼ぶや 秋成に 妻先立つを 想う影なし」、「ひとりでも しっかり生きよ ホームレス 同じ孤独の 月は見守り」、「まん丸の 月さん見つけ 見つめられ 朝が来るまで 互いに求め」、「この歌を 誰も知らずも 記し置き 無意味信じず 謳う意ここに」
ここ数日体温の高い日が続き、ようやく3日前に平熱に戻った。しかし一昨日と昨日は寝汗をひどくかき、下着のシャツを着替えた。それでさっぱりとし、また回復した気分になれた。実際体調は戻った。体力と気力は均衡し合っていて、気を踏ん張っても実際の行動が伴わないことはよくある。今日の最初の歌は上田秋成のことを思って詠んだが、子どものいなかった秋成夫婦であるから、夫婦は労り合ったはずで、妻に立たれてひとりになった秋成はどれほど世間の冷たさをなおのこと実感してその後を暮らしたかと思う。どれほど仲のよい夫婦であっても、いつかはどちらかが先に逝く。そういう時だいたい男はだらしないので、生きる気力を失いがちになる。女は生活能力が旺盛で、男がいなくなってもそれなりに人脈を作って楽しく生きる。友人のNが死んで間もなく、Nの妻から手紙が来たので、早速Nの家に駆けつけた。Nはすでに位牌になっていて、顎を頬杖した笑顔の小さな写真がそのそばにあった。弔問を済ませて家で出ると、見知らぬ70代の近所のおばさんが話しかけて来た。「Nさんの奥さんは離婚されて、その後にNさんが亡くなったんやけど、奥さんはひとりでもどこで働いてでも生きて行けるし全く心配ないですよ。」確かにそうで、学はなく、炊事洗濯まるで駄目の典型であったNの奥さんではあるが、離婚されて家を追い出されたにしても、アルバイトや下働きで自分の口くらいは養って行くはずだ。その点、男は酒浸りになるなどして、早死にするのが落ちで、そう思うと秋成は立派に長寿をまっとうした。もっともホームレス同然の生活で、理解者がいたのでどうにか生きておられた。母が死んで剃髪して尼僧になった瑚璉尼の姿を筆者はよく想像する。女優のような嫌らしい美しさでは全くなく、秋成をよく理解した色白の小柄な女性であったろう。そういう人ほど早くあの世に行くもので、秋成の運命は残酷であった。しかし大阪が生んだ天才、異才としては筆頭格で、現代に生きていれが痛烈にTV文化人どもを罵倒したであろう。さてまた満月の写真を撮った。旅行をほぼしない筆者であるので毎月近所で撮影を済ます。今夜は無粋ながら電柱電線を構図に収めた。これは秋成が想像だにしなかった光景だ。このように未来は誰にもどのように変化するかわからない。それでも変わらないのが人の心であり、また満月のような人間の手に届かない自然だ。そして美しさは自然にあるが、人間のそれは人によって考えが違う。しかし満月が美しいのはまず形が整っているからで、その形は内面を映し、いくら外形が整っていようと美しく感じない場合がある。
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