「
朝焼けと 夕焼け見るや お百姓 早寝早起き 得するばかり」、「前を向き 歩くはよしも 心せよ ひどき言動 されし者あり」、「栄光は 己ひとりで 得たものと 言いし人には 似合うや小石」、「謙虚さは 見せびらかさず 目立つもの それで目障り 検挙されしや」
先月23日に茨木市内の西国街道の一部を家内と歩いた。今日はその道筋を示す
一昨日に載せた地図のEからFまでの写真を4枚使う。最初の写真はEの「やました橋」をわたる直前に撮った。交通標識の「14t」以上重量のある車が通ると橋は落下する危険性がある。付近は田畑が目立ち、農耕にも使う橋を拡幅したのだろう。「やました」は昨日投稿した街道からわずかに南にあるイスラムのモスクのある辺りが少し小高く、写真にもわずかに見えるようにまた橋の南に高さ100メートルほどか、山が迫るからだ。写真の前方に大きな白い箱型の建物が見え、倉庫を兼ねた会社だろう。そういう建物があればトラックがこの街道を走るし、橋が積載重量の制限を設けることはわかる。街道沿いは土蔵つきの木造の大きな屋敷や新しい住宅、それに建設会社や田畑が入り交じり、富士正晴が住んだ地域のすぐ南部と同じと言ってよく、昔ながらの田舎の風情とトラックが走り回る騒がしさが混在して、気持ちのよい印象ではない。しかし大型店舗がない昔を思えば、便利になったと歓迎している人もあるだろう。何がよくて何がそうでないかは一概に言えず、日本が現在のように変化して来たことは結局必然であったと考えるしかない。大型倉庫は茨木や高槻など、大阪と京都を結ぶ山手に急増した。国道など幹線道路があってのことだ。日本全国を物の流れで隈なく結ぶには、大都市の衛星都市の空き地を利用するしかない。原発も同じ理由で、無粋なもの、避けたいものは辺鄙なところに押し付ける。鳥山明の漫画「Dr.スランプ」に頭がお尻状の愉快な怪物が登場した。40年前にそれを見て思ったことは、人間がそのように進化しなかったことだ。肛門は口は胴体の反対の箇所にある。つまり入口と出口は大きく離れているから、人間は平気で屁をする。これが先の漫画のように、頭に肛門があれば、人間の味覚はどう変わったものになったか。口と肛門が大きく離れていることに似て、人間は不快なものを遠くに避けたがるが、肛門のすぐ近くに性器があり、これをどう説明するか。汚い肛門は避けたいのに、性器をたまには男女ともに貪りたくなる。鳥山明がそういうことまで考えて頭のてっぺんが尻である怪獣を案出したのかどうか知らないが、その狂言回し役の愉快な怪獣からいろんなことを考えた。それは子どもでも同じのはずで、漫画そのものよりも、案外そういう脇役のどうでもいいような作り込みの細部が長年意味の解釈を突き続ける。もちろん解決はないのだが、人間の本質を考えさせるうえで格好の題材となる。
2枚目の写真は「飛び出しボーヤ」を収めるために撮った。電柱の背後の長方形の白地の看板は「子供飛び出し」と記してあるが、付近に学校はない。写真は撮らなかったが、この「飛び出しボーヤ」のすぐ南は高さ3メートルほどの一対の石燈篭があって、さらに南に寺か神社があるかと思ってしばし立ち止まると、それは確認出来ず、街道際に「児童公園」を記す看板が頑丈に取りつけられていた。おそらく神社か寺がさらに奥の山裾にあると思うが、街道沿いの境内が公園にされた。つまり付近の子どもたちは街道を横断して公園に集まりやすく、それで「飛び出しボーヤ」の看板の設置が必要となった。とはいえ少子化の現在、この児童公園が活況を呈すことは珍しいのではないか。筆者らが街道を歩く間、子どもたちの遊ぶ姿を見たのは一昨日書いたように街道の一筋北の道沿いの公園で、それ以外には児童の姿を見なかった。もっとも大人の姿もごく稀で、筆者らのようによそ者が歩くことは珍しいであろう。2枚目の写真の「飛び出しボーヤ」の背後の建物は田舎ではよくある。桂駅に近い阪急沿線に同じような広大な屋敷がかつて長年建っていて、車窓から見下ろしながらそこの住民の暮らしを想像したことがある。のべ長さが100メートルはある塀が傷んで来ると、その修理代はどれほど嵩むのか、植木の手入れも大変だろうと思いながら、古い大屋敷に住むのはいいが、時代に取り残されずに収入を確保しなければ同じ暮らしは維持出来ない現実を考えた。案の定、時が停まったままのようなその屋敷はある日、取り壊しが始まって今は影も形もない。西国街道沿いの茨木市内では今日の写真のような屋敷はまだかなり点在している。田畑をつぶして売るか、時代に即した別の事業を興すか、とにかく収入がなければ本宅の屋敷の維持は難しいだろう。そのような心配をする一方、次に思うことは、そうした田舎の屋敷に住む人の教養だ。たまには医者になる人物もいるが、概して蔵書が目立つわけでもなく、さして目立たない人が庭木いじりをしながら老いて行く。そうした屋敷の内部のたとえば床の間を見たいと思っても、驚くような美術品が掛かっていることはない。稀にはそうでない屋敷もあるはずだが、たいていは家が大きくて部屋がたくさんあるだけのことで、その薄く積もった埃と空疎感に似合う人々が暮らしている。こう書けば視野の狭い人が持たざる者のひがみであるとしたり顔で言うはずだが、筆者はそういう旧家の屋敷は見物はいいが、住みたくはない。ただし風景としてはそういう日本的屋敷は目に楽しく、殺風景な工場や新築の安っぽい家屋よりはるかによい。ところが街道は何百年も今後そのまま残っても、街道沿いの家屋の変化ぶりは予測がつかない。西国街道歩きのひとつの面白さは木造の旧家の堂々たる風格を感じることにある。それがなければ昔の様子を伝えてくれるのは山や川しかない。
3枚目の写真は2枚目から100メートル東で、同じような家並みが続く。道がわずかに蛇行しているのがいかにも旧街道らしい。道沿いは昔から代々続く家ばかりのはずで、よそ者は入り込めないだろう。ただし女性は別で、家を継ぐために予想外のところから血を移入する場合が普通だ。その反対に女子ばかり生まれた家は入り婿を取るが、まあTVドラマ並みの悲喜劇がこの静かなたたずまいの町にあるはずだ。そう思うと、いつどこでも何ら変わらない人間社会であって、さして面白いことはない。そのことを昔から人々は知っているので、旅をすれば自分の地元にはない名所旧跡を見たがり、名物の食べ物を賞味したくなる。そう言えば茨木の西国街道には今も見るべき名所があるのだろうか。高槻にしても同様で、京都と大阪の間にあってベッドタウン化していることはそれなりの理由がある。つまり何も面白いものがないことは昔からのことで、違いがあるとすればJRや阪急の駅前くらいだろう。国道171号線はどちらの市にも走っているが、それに沿って点在するのは全国的規模のさまざまなチェーン店だ。それらも地元住民には便利だが、見るべきものとは全く言えず、国道沿いは日本全国どこも同じ店が立ち並ぶことになった。それに沿う旧街道はまだ何百年も前の風情の片鱗を残し、どうにか観光気分にはなれる。4枚目の写真は一昨日の地図のF辺りだ。上の写真を撮っている間に後方の家内が筆者を追い越し、50メートルほど先を行った。西国街道が真っすぐ続くことを実感しているからだ。下の写真の中央奥、小さく黒いコート姿で家内の後ろ姿が写っている。「鍛冶屋橋」であることは欄干の銘板からわかるが、これは比較的新しく、橋の幅を広げるなどしたのだろう。この橋から東は土地が低くなっていることが写真からわかる。昔の勝尾寺川の氾濫具合はどうであったのか知らないが、2,3枚目の写真の山裾地域よりは冠水被害を受けやすかったのではないか。勝尾寺は箕面にあってとても有名な大きな寺だが、車に乗らない筆者はまだ訪れたことがない。同寺付近に水源があって、地図を見ると蛇行具合はかなり激しい。以前周辺を歩いた東方の耳原公園辺りで北から流れる佐保川と合流し、茨木川となって南下、やがて安威川と合流してJRと阪急を越え、その安威川は吹田市内で神崎川と合流し、その名前となって尼崎の南を大阪湾に注ぐ。人間は道路をつごうのよいように通すが、河川は大阪市内の淀川のように、よほどのことがない限り、流れは昔のままに保たれ、それに沿って建物が建つ。山も同様で、動かしようにない大きな自然に人間は逆らわないほうが経済的に安上がりだ。西国街道は幹線道路の建設によってところどころ分断されて昔の面影はないが、まだどうにか昔の人の気分にはなれるのではないか。古くからの地域では建物は変わっても道路幅や道筋が大幅に変わることはない。
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