「
1時間 待たせて御免 初デート 怒って帰れば 人生の岐路」、「権力に 憧れし人 犬を蹴り 恨み集めて やがて犬死に」、「山崎と 聞いてパンと 思う子が 大人になれば 高級洋酒」、「有名は 質と程度の 違いあり 京阪神の 名所巡りは」
7月上旬にアメリカの大西さんからメールがあって、9月の10日ほど日本に帰って来るとのこと。彼の身辺にいろいろ変化があったからで、その私的なことをここには書かないが、今月20日は筆者に会うために丸1日空け、故郷の金沢から午前10時頃に京都駅に着く予定を知った。大西さんの名前はこのブログでは「ザッパ関連ニュース」のカテゴリーに昔から登場しているので、本ブログを読むザッパ・ファンには馴染みと思うが、彼の顔写真を載せたことはない。筆者より10歳ほど若いと思うが、大学を出て渡米し、今はニューヨークの建築デザイン事務所に勤務して、世界的に有名なファッション・ブランドのビルの外装や内装を手掛け、その成果はたびたび受賞して雑誌に紹介もされている。ザッパ・ファン歴は1969年の『アンクル・ミート』からで、兄さんの影響と聞いた。筆者とは工作舎刊の『大ザッパ論』以来の交友で、もう30年ほどになるが、もっぱらメールでの付き合いになっているのは仕方がない。今月20日に予定どおり会い、午前10時頃から9時頃までの11時間をともに過ごした。今日の写真は彼が当日スマホ代わりに持参したレンタルのiPadで撮り合ったが写真で、昨日その写真がメールで届いた。そのままでは顔が小さいので上半身をトリミングしたものを載せる。上が筆者で、場所は大山崎山荘美術館の三川合流地を見下ろせるテラスだ。下は芦屋にあるフランク・ロイド・ライト設計の建物
「ヨドコウ迎賓館」の屋上で、大西さんが提げているバッグのザッパの顔写真を当然含めた。大西さんと会うのは4年ぶりで、前回はレザニモヲのふたりとも会った。ザッパニモヲのライヴが見られる11月上旬を含む帰国日程であればと思うが、休暇を取るのは彼の仕事のつごうがあるし、また帰国は私的な用事を最優先するから、今後もそれが実現するかどうかはわからない。大西さんと久しぶりに会って話をするとして、殺風景なわが家で寛ぐよりも、せっかくの京都入りであるから、彼の仕事柄、なるべく建築の名所を見て回りたい。それで今回は大山崎山荘美術館とヨドコウ迎賓館を見て、その後梅田のグラン・フロント前の再開発工事現場、最後にどこかで飲もうと考えた。それらは筆者が普段行動している馴染みの範囲に限る。それが狭いことは仕方がない。それにネットで今は何でも画像で疑似体験出来るので、名所とされる建物を訪れても初めて見た驚きはないだろう。それでも建物はその内部に入ってこそで、大西さんがすでに知っているかどうかを確認せずに連れ回す計画を立てた。全部を1日では見られず、いつかわからないが次会のために留保しておく。
とはいえ筆者は建築マニアではなく、大西さんが一度は見たいと思っている建物を聞き出したほうがいいかもしれない。どんな分野でも玄人筋に人気のあるものは必ずあって、今後そう何度もないはずの大西さんの関西入りとなれば、彼の望みを知ったうえで動くべきだろう。しかし彼としては一番の目的は筆者との面会で、遠出せずに外国人観光客に紛れて嵯峨の天竜寺や大覚寺辺りを巡るのもいいかもしれない。先日投稿したように白井晟一が最後に設計した「雲伴居」を探してその外観を見ることもいいか。木造の屋敷であれば、嵯峨を自転車で回れば案外発見はたやすいだろう。さて、京都タワー・ホテルに荷物を預けた大西さんが待つロビーに行き、そこから四条大宮までバスで出た。白井晟一が大宮三条で生まれたからで、生家は跡形も残っていないが、周辺の雰囲気を知ってもらうだけでもいいと思った。ただし白井が生まれてから120年ほど経ち、白井が12歳で東京に転居してからでも100年以上で、三条大宮界隈はかなり様子が変わっているだろう。しかし道幅はそのままで、三条商店街のアーケードは当時なくても、街のたたずまいはそう変化はないと考えてよい。三条大宮は西南角が公園になっていて、そこが白井の生家ではなかったかと筆者は勝手に思っているが、さてどうなのだろう。三条大宮に大西さんを連れて行きたかったのは、12歳までという多感な少年時代を白井がどういうたたずまいの街で暮らしたかを知ってほしく、まや白井の分厚い石をファサードなどに使った特徴的な建築の原点が、三条大宮をそのまま400か500メートル北上すると、真正面に二条城の石垣が見えることに多少は関係があるのではないかと思っていたからだ。子どもでも二条城までは遊び場の範囲で、白井が石垣に視界を遮られ、そこから北には二条城南端の東西の道を迂回することなしには進めない圧迫感を抱いたことはあり得るだろう。さて、二条城に向かって歩いているとぽつりぽつりと雨が降って来たが、傘を指すまでもない。石垣を見ながら二条城南端の道を西に向かって歩き、城の南西角に至る1本手前の道を南下して御池通りに至り、そこから東に進んで神泉苑に入った。ついでであるし、また名所であるので少しは見ておいていいと思ったからだ。本当は神泉苑の次に御池通りより一本南の姉小路通りを大宮通りまで歩きたかったが、そのま元の大宮通りに出た。ところで、神泉苑では料亭「祇園平八」の建物がすっかりなくなって更地であることに気づいた。それは二条城南端の道を歩いている時にも感じたことだが、神泉苑は雰囲気が変わって広々としている。ネットによれば、神泉苑と平八との間で訴訟問題が生じたためという。京都はせせこましいのに社寺が多く、そういうことは珍しくない気がする。しかし大西さんは神泉苑がいかに有名で、蕪村の句碑が建っていることにもあまり関心がないだろう。
四条大宮に戻って阪急で大山崎駅まで出た。大山崎山荘美術館で日本のガラス工芸作家の展覧会が開催中で、それが目的ではなく、安藤忠雄が設計した地下展示室は体験しておいてよいと思った。駅前から送迎バスが出ているが、それを待たずに歩いた。10分ほどで着くし、その間、山崎の地の空気を吸うのはよい。本当はJR山崎駅前に出てそこから山道を上ってもよかったが、それは「待庵」のある場所を実感してもらうためで、遠回りというほどの距離の差はない。しかし駅前の妙喜庵にある国宝の「待庵」を拝観するには事前予約が必要で、筆者もまだ見ていない。それに待庵の内部に入ることは許可されない。利休に関心のある人は待庵は一度は訪れるべき茶室で、
白井晟一の『無窓』には待庵についての長文がある。これがなかなか手ごわい内容で、白井が利休を大いに尊敬しながらもどのように思っていたかを知るうえでは必読の文章だ。適当に引用すると、「利休は一切が鬱陶しく、一切がなまぬるい空間と時間の開放に成功した。…感覚的なものの中に超感覚的な美の現存を、生の最後に滲みわたる秘密を濾過させて己れの冴えた網膜にうつるものを生きた形と呼吸とで他に見せることができた。…」といった調子で、利休の最期を思いながら利休の悲劇を現在どのように受け止めるべきかという気持ちが混じる。最後の文章はこうだ。「待庵の二畳は時空をこえた利休のダイモニアの影をうつす。しかしまた、さまざまな明暗をふくんだ歴史の比喩ともみえるうちに、なにかうすれた倫理性の蒙昧を感ずるのはどういうことであろうか。」白井が「倫理性の蒙昧」を待庵に感じたことは、具体的にどういうことを思ってのことか。秀吉に切腹を命ぜられ、壮絶な割腹をしたことを白井は思い返しながら、二畳しかない薄暗い茶室では茶を供する者と飲む者との間にどのような親密あるいは内心反発を含んでの話がもたれたのか、またそのようにして茶を飲む場は、清廉とは言えないそれぞれの企みの火花が散る政治的な会合であったということに白井は本来の茶の湯から外れた倫理性を感じ取ったのだろうか。先日書いたように、白井は政治家を親しくして仕事をもらうようなことはしなかったであろう。そういう生き方からすれば、利休は天才ではあるが、結局政治に負けて自害せねばならなくなったのであり、秀吉は利休の創造的才能を認めながらもその存在を鬱陶しく思う、いわゆる「俗エリート」であった気がする。白井はこうも書く。「…この悲劇的な高揚が、三世紀半後の今日までどのように日本的形姿を指揮することとなったか。あるいはまたいかに浪費された精神として衰退し、国民文化の価値体系を質として私的価値に釘付けにした錯覚や虚栄の原型となることはなかったか。」白井は上品であるから、誰か個人を直接揶揄しなかったが、この厳しい調子の言葉には日本の虚栄に対する苦々しさが表われている。
その虚栄は「俗エリート」の政治家が率先するが、事態はアメリカでも同じだろう。大西さんとはよもや話に終始し、政治や宗教の話はしなかった。これは避けたというより、ふたりとも興味がないからだ。ザッパの話はもうする内容がなく、さりとて音楽は互いに好きなものがかなり違い、話は噛み合わない場合が多いだろう。筆者は彼のブログの熱心な読者ではないのに、彼は筆者の投稿に目を配っているようで、その意味で筆者の話題はみな想定のうちと思うが、筆者のブログが等身大の筆者を示すものではなく、ブログには絶対に書かないと決めていることはある。その意味で大西さんと10時間近く行動しながら話すことは、当たり障りのないことに終始した。ここは友人としても難しいところで、どこまで本音で話せるかということになるが、筆者は本音で話しているつもりであるし、その本音は当然たとえば身内に対する時と同じではない。それは身内の方が筆者に占める割合が大きいという意味では全くなく、人によって話す内容が変わるだけのことだ。それはたとえば「風風の湯」の常連との間でも同じで、相手に応じた話題を提供する。その意味では筆者は不満がたまる一方だが、その捌け口としてこのブログを利用していると言ってよい。それは他者に理解してほしいという願望が基盤になっているのではなく、ひとり勝手に話したいからに過ぎない。話を戻して、こうして投稿する内容は大西さんに当日言わなかったことで、関心事を好き勝手に滔々と話すことを控えたからと言ってもよい。さて、大山崎駅前で昼を食べ、芦屋に向かった。そしてヨドコウ迎賓館に閉館までいた。その後は梅田に出てグラン・フロントの前の広場の片隅に座って話をしたが、この界隈はいずれ大変貌を遂げる。その頃に大西さんと再訪するのもよいと考えた。20日の大西さんは京都タワー・ホテルに泊まって翌日東京に戻り、ニューヨークに飛ぶ。ホテルには早く戻る必要はないのでどこかで飲むことにした。そこで思い出したのは
先月9日の義父の月参りで家内の兄や妹と利用した阪急高槻駅近くの居酒屋だ。店の親父は70後半のはずで、高槻駅周辺は日本随一の居酒屋激戦地と言っていた。安くて雰囲気よく飲ませる店でなければすぐにつぶれる。「風風の湯」でたまに会う上桂在住のOさんは、友人と飲むのに四条河原町には出ずに、阪急高槻駅前に行くと言う。電車賃はほとんど変わらず、また高槻ではJRと阪急の駅周辺に飲み屋が密集していて、あまり歩かずに済むうえ、安いとのことだ。店内はカウンター以外に4人座りの木製のテーブルが5つあり、そのテーブルに大西さんと対面して座り、またよもや話に花が咲いた。9時になったのを見計らって店を出て、阪急に乗って筆者は桂で降りた。京都駅前のホテルまで一緒に行ってもよかったが、そうなるとどこかで飲み直したかもしれず、筆者の帰宅は終電に間に合わなかった。
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