「
先を読む 力無きほど 自惚れり 賭け事止めず 転石を蹴り」、「熱中の 趣味を知らずに 昼間酒 ウィー ouioui 酔いには夢中」、「夕暮れに 川水汲んで 庭に撒き 蚊にかまれしも 仕事のうちと」、「つまらぬと つぶやき気づく 三日月の 鋭き刀 我が思いなり」
5月上旬に買った白井晟一の本について書く。白井の名前を知ったのは半世紀前のことだ。息子が生まれた時、「いっせい」という音の「せい」をよほど「晟」にしようかと迷った。しかし世間にあまり馴染みのない漢字だ。また姓名判断では総画数があまりよくなかったと思う。それはともかく、白井が設計した建築についてほとんど知識がないのに、その名前を覚えたのは「晟」の漢字が珍しかったからだ。しかし白井の本名は「成一」で、「成」を「晟」という「日」を含む文字にしたところに個性がより際立った感がある。アメリカの大西さんのは建築関係の仕事に従事し、白井を尊敬していると直接聞いたか、彼のブログで読んだことがある。日本を代表する建築家であり、人気があって当然だ。白井の著作を読んでみる気になって探したのが本書の『無窓』だ。この題名は白井の建築の特質を示しているのだろう。ウィキペディアによれば、32歳頃の白井は姉の夫の近藤浩一路が挿絵を描いた山本有三の『真実一路』の本の装丁を別名で手がけたとあって、本と建物を同一視することは無茶かもしれないが、美意識を端的に知るには本の装丁はきわめて便利なものだ。白井の場合、その装丁が本のどこまで及んだものかわからないが、『無窓』は箱入りで、麻のクロス張りの表紙、そして白井の揮毫に違いないが、「無窓」の二文字が表紙中央に空押ししてあり、無駄な装飾がない。そのことは本文にも表われていて、「まえがき」や「あとがき」はない。本書は白井が亡くなる4年前の昭和54年(1979)の74歳に出版された。書き下ろしの文章はなく、1952年から78年までに雑誌や新聞に書かれた文章を集めたものだが、白井がどのように選んだかについても書かれない。ウィキペディアには著書が12冊紹介される。大半は建築についてで、没後の出版もあるから、建築の専門的なことにさほど関心のない人には本書が白井の思想を知るうえでは最適と思う。本文の活字が大きく、また余白をたっぷりと取ってあるのでとても読みやすいが、文章は重厚緻密で、何度も読み返すべき内容と言ってよい。筆者のこのブログのように即興で書いた文章ではなく、推敲を重ねたはずで、そこに建築設計と同じ精神が宿っている気がする。装丁は本文の紙や活字や行間など、すべてが白井の意思によって決められたもののはずで、この1冊の手触りや重さ、活字の配置や本文内容のすべてが、白井の美意識によって厳格に決められていると断言してよい。それは正直さと質朴さゆえの貫禄で、華奢で過剰な装飾とは正反対の位置にある。
「無窓」は鬱陶しい題名だ。「無」が「夢」であれば白井は「夢窓国師」を敬愛していたかとなるが、「夢」は白井にはあまり似合わない。「無窓」の由来は本書最初の「無窓無塵」と題された章の中の同じ題名の文章に因む。500字ほどの文章で、白井の住居について書く。「私の住居には窓がないといわれているときいた。決して絶無というわけではないが、誰かが原爆時代のシェルタアときめつけてくれたおかげで、その方がわかりやすかったのだろう。百平米ばかりの書斎には開口が一つあるだけだから、その臆測、批評はあながち間違っていないかもしれない。…」から始まり、最後はこうある。「住居の表通りは一分間に何百台という車が疾走する街道である。コンクリイトの壁は厚く、高くせざるをえないし窓はあけようがない。埃の入るところがないから、一と月に二度位、留守中に掃除するようだ。…もの好きで見たがる人があっても、住居の中の公開は遠慮する。」これは1977年の文章で、当時は70年に完成した自邸「虚白庵」に住んでいた。ところが2010年に解体され、現存しない。ネット情報によれば東京中野区江原にあって、鉄筋コンクリート造りの平屋、敷地面積は約150坪であった。都内でこれほどの敷地では大豪邸であろう。有名建築家の収入具合が想像出来る。白井は昼夜逆転した生活であったようで、前述の引用文から想像出来る暗い書斎は、外光の必要はなく、手元を照らせば充分であったのだろう。書斎が正方形であれば百平米は10メートル四方だ。そのくらいもあれば蔵書や愛玩物を身の回りに置くにはちょうどいい。しかし都内の平屋でそういう書斎を確保出来る知識人はよほど有名でなければ無理だろう。筆者は窓のない閉所は嫌で、外がよく見えるのがよい。しかし今流行りのタワー・マンションのように窓から眼下に建物ばかりが見えるのではまた嫌だ。今日の2枚目の写真は、猛暑ゆえにいつも腰を据えている3階ではなく、この文章を書いている2階の窓からの眺めだが、裏庭の合歓の木やその向こうに嵐山を臨む様子は3階と同じだ。毎年木に登って剪定はするが、夏場は鬱蒼と生い茂る庭は気に入っている。野鳥が飛来し、ごくたまには猿もやって来て、自然はどうにか豊かな状態にある。それはさておき、白井が「無窓」状態を好んだとして、それは読書や思索にはつごうがよかったからだろう。精神を集中させるには殻に閉じ籠るべきで、白井の建築思想はそうした状態から紡がれる瞑想が基本にある気がする。瞑想となれば座禅だが、白井が禅に馴染んだかどうかは知らない。しかし本書の「書について」と題する文章では、「建築を生業としながらこの十数年、一日の半分を習書でうずめることができたのは大きな恵みであった。しかし筆・墨をもって紙にむかうことはたしかに一つの「行」に違いなかった…」と書き、書が白井にとって禅の修行に相当したと言ってよい。
白井の書を紹介する本が没後に出版された。どういう書であったかは本書の「無窓」からおおよそわかる。真面目な楷書で、衒いがない。「書について」にはこういう下りもある。「また「書」に正統や異端があるとは思わないが、「字」をこえて「書」はない。悠久な歴史の名かで彫琢され、その骨格・肉付けを完成してきた過程を信頼する私たちは、絵画と判別できないカリグラフや恣意な創作墨象というような新語の感覚をもって「書」に対することはない。…」これは戦後爆発的に出現した森田子龍らの墨象に無関心かつ否定的であったことを示す言葉だ。別の文章では「王も顔も学びきれるものではない。学びつくせたらおかしいのである。模倣・亜流というようやくの限界に、額に汗してしがみついているうちに、王や顔の書魂は霧散していよう。」と書き、古典の臨書の限界にも気づいていた。また「キリストは説き、釈迦は心を心へ伝え、ともに字を書いたという話はきかない。聖においすがろうとするもの、人間同士の同悲と啓蒙の記号として書が生まれたのは、もっともだし必要な要求だろう。書の大系も当然そういう人間とその世界の拡充によって発展してきたが、その悲劇・喜劇は新しい舞台の上でますます進行するだろう。」とする。白井が自身の書を悲劇や喜劇と見ていたかとなるとそれはわからないが、「空海・逸勢ともに日本書道史の名筆として、書を学ぶもの、語るものにとって巨巌のように生きつづけるであろうが、その日本的でありながら、大陸敵なものの陶冶による筆魂を秘めた怪奇なすさまじさは、筆技末梢の研鑽によっては共感・体得されぬものであろう。」と述べ、古典が内蔵する精神性は現代ではもはや臨書では得られないことの絶望を吐露しつつ、古典の書から気宇を学ぶべきことの重要性は説く。これは書に限らない。本書には日本の文化の独自性を古代に遡っての世界のそれと比べる視野の広さがある。白井は若い頃にマルクス主義に染まり、その点が右翼側に立って政治家と親しくして仕事をもらうような生き方をしなかった孤高かつ清潔なイメージを付与しているが、縄文文化に熱く目を注いだのは、日本の原像を知るためであって、岡本太郎などの他の文化人と思いは通じていた。また本書は柳宗悦や「民藝」については一切言及しないが、白井の書は柳のそれと共通した精神性がある。原日本的という意味では民藝はその最たるもので、白井が憧れた建築は民藝の特長である虚飾を配した実質主義に基づいたものであったと想像する。飾りを極限まで削ぎ落す、あるいは飾りを構造の重要な核として本質に同化させて飾りとは思わせないことを、白井は好んだであろう。それは本書の造本や文章が示していることでもあって、白井の美への思いは大本本位でありながら、細部を全くおろそかにしない態度にあった。
そのように思うと筆者はこうした駄文を書いていることがまことに恥しくなるが、この年齢になればもうどうしようもない。さて猛暑の今日、母の墓参りに出かけた。それに
先日の9日に義父の月参りに家内の実家を訪れたので、仏教がらみで次に書く。家内の実家は奈良のとある寺の檀家となっていて、四半世紀前か、その寺が堂宇を改修か新築するために特別のお布施を求めて来た。最低30万円だったと思うが、東京で経済的に成功した檀家が1億円の寄付をしたことで、他の多くの檀家はその程度の寄付で間に合った。30万円と1億円とでは30倍以上も開きがあって、寄付した檀家の名を刻む碑の文字の大きさは30倍の差がなくてはならない気がするが、それはあまりに漫画的で、せいぜい数倍の文字の大きさの差となったのだろう。そういう大口の寄付をする人がわずかでもいることで寺の経営は成り立っていて、貧しい檀家ばかりではやがて寺は消える。本書で最も読み応えのある文章は「天壇」と題する章の「仏教と伽藍」で、「建築学生のために」という副題がついていて、どこかの講演を文章にしたものだろうか。19ページに及ぶ長文で、文章は他と同じく、視野が広大で、無駄を削ぎ、図太く、そして日本の仏教に対して批判的だ。「日本の仏教が個人的主観的事実からかけはなれて、権力支配と不倫の連係にあけくれ、宗教改革を経ることなしに、市民生活の自覚が芽ばえんとする近代に直面し、そのまま惰性で現代にたどりついたということは、なんといっても日本精神史を流れる不幸を倍加したであろう。」、また「私には日本の仏道が経験した幾度かの衰退も、また時代的な殷盛さえも、ともにこういった民族宗教意識の消極という同一の根拠からでたものと考えられてならぬ。」といった言葉にその批判は見られる。全体の中ほどで、「私は、自分に与えられた課題である仏教の建築を語るために、まずシャカの思想と教理がどのような質と形をもって日本社会にあらわれ、変貌してきたかを、私の考えなりに述べてきた。古い法隆寺の昔から現代まで、寺院建築の形と質は、それらの様式のディテイルの上を彷徨するよりもはるかに確かな映像となって、こうした記述のなかから浮かびあがってくると考えたからである。私にはどのように美しい寺の姿も幽玄の空間も、美学的な完結としてより、その時代時代の社会や人間に対応した仏教内容のイメージとして映るよりほかなかった。…」と書いた後、現代にふさわしい仏教伽藍のあり方を問い、白井が積極的に寺院から設計の求めに応じる思いがあったことを記す。白井は注文を受ければどのような建物でも設計したと思うが、仏教寺院の設計とその具現化は少なかったのではないだろうか。新興宗教団体からの依頼があればよかったと思うが、教理を受け入れられなければそもそも無理な話であったかもしれない。
「仏教と伽藍」から引く。「さて今日の仏教教団には国家権力と直接結びついた経済の基盤がない。寺の再興は、信徒の寄進によってまかなわれるほかないだろう。…しかし、寺院再興の施主たる寄進者は、同じ求法の衆生といっても、日々の糊口に喘ぐ社会底部の大衆では参加しようがない。寄進檀徒の幹部は、多少にかかわらず、現在経済体制のエリィトでなければならぬ。…こうした寺院寄進の内容は、今も昔もさして変わりはないが、問題はこういった俗エリィトの経済援助と発言力の増大とが、その圧力で強権価値体制の崩れをおそれる教団や僧職の無力感と相まって、仏教そのものはもとより、寺院建築の本質的な目的と品位に非情にかかわってくるということだ。」は、俗エリィトは筆者の言い方によれば教養に乏しい成金だが、彼らが中心になる寺の再興は、結局俗なものになってしまうとの思いだ。これは寺院に限らず建築全般に関わる問題でもあるだろう。白井がどのような注文を引き受け、また断ったかのその判断基準について筆者は何も知らないが、注文主と反りが合わねば後味の悪い仕事になるはずで、得られる設計料よりかは、自分の個性をよく理解してくれる注文主の仕事に積極的に応じたと想像する。筆者が作るキモノはいつも誂えであるので、着用者とその母親の立ち合いのもとに話を進めるが、それなりに親しい人でも、商売っけ丸出しのつまらない流行作家の作品を求める場合があって、がっかりすることがある。それは筆者に仕事が回って来なかったことへ恨みでは全くなく、その程度の、つまりミーハーな美意識しかないことを知った残念感だ。作家はよき注文主と出会って新たな段階の仕事が存分に出来ることが理想だが、現実はそううまくは行かない。これが現在の安藤忠雄のように世界的に著名になれば、ハリウッドの俳優たちを初めとした世界有数の大金持ちから金に糸目をつけない建物の設計依頼を受ける。白井はそうではなかったが、それは安藤よりも作品の価値がないことを意味しない。SNS時代では作家の有名度とその作品の質は比例しないどころか、たいては名前倒れの張りぼてだろう。いかに手早く俗エリートから金を引き出すかであって、詐欺師めいた連中ほど有名かつ金持ちになる。しかし白井はそこまで露骨に書いておらず、俗エリートが品位を落とす心配だけをしている。続きを引用する。「…戦後国民の精神的混乱に投じた大量ヒステリイともいうべき新興宗教のエネルギイに圧倒されながら、支配体制の意図する保守安定のフィクションと、肉体化してきた国民大衆の民主思想効用のあいだで、あぐらをかいているようでは、大衆離反どころのさわぎではない。ますます血のかよわぬ無害無益の宗門になりさがるばかりだ。」これは俗エリートと並んで僧侶集団の質に対する批判で、市民の誰もが感じていることだ。
売茶翁は仏教寺院の立派な伽藍とそこで暮らす僧侶を嘆いた。それは本書にある「シャカと原初の純粋教団は、伽藍建設には積極的な関心を示さない。伽藍無用はまた念仏専修の法然、親鸞の宗教信条でもあった。…」と同じ考えに立つものだ。しかしこの引用に続けて白井はこう書く。「造寺の意義は、けっして偶像や聖物崇拝を排するこれらの清浄徹底にさからい、あるいはシャカ中道思想の寛容へ安易に還元することではないと思う。しかし、歴史が進み、常に文化構造の基底で時代精神のマトリックスになってきた寺院中心の広い伝統背景と、ことに教団生活の市民経済条件の進展とは、今日ではどのような伽藍否定も古拙なストイシズムにすぎぬとして拒否するだろう。」これは時代の流れを半ば仕方なきものとして捉える考えで、そこに立って建築家はどうすべきかとの自問につながる。それで「仏教と伽藍」に「建築学生のために」という副題がついた。それはまた「こうしてここ数年のあいだに、手のこんだ斗栱や虹梁に飾られた荘厳な寺院、コンクリイトの近代技術を誇るおびただしい数の仏教建築が、養老院や保育園の何十倍も完成した。」と一方で書くことに対応して、良質の寺院の建設を若手に託したいとの思いゆえだ。そこで「もし仏教内部に人間救済の力となる教理再生の展望なく、継起する時代文化の担当者としての自信を返上したままでは、いかに教団、僧侶が「新しい寺」の談義を重ねようと、精神と結合の形でなければ、宗教主体の確証たりえぬ寺院建築が、保守に膠着した護教臭味、一石二鳥の公民館システムで民衆整理に媚びる商業主義の浸潤のどちらからも解放されることはないだろう。…私はむしろ積極的に、今や貪婪な創造のファクタアである大衆社会の潜在エネルギィを、人間共存というシャカの理想で統一する求心的な媒介者としての伽藍の意味に、新しい確信をもつべき時だと考えている。伽藍は発祥の意味からいっても、死者儀礼や厚生事業の場として足りればよいのではない。どこまでも人間内実の改良にかかわる責任と、平和の質の純化を祈る世界性をもった建築造形だという誇りがあってよい。…誰にでも自発的に人間内部の葛藤を減却させる戒律が思い浮かべられる雰囲気の望まれるのは当然ある。厳浄・静謐な空間だ。」引用が多くなったが、元の文章はシャカの仏教が日本のそれとどうつながって来ているかという壮大な視野で書かれ、結局仏教寺院は「清浄簡潔」が最重要な様式であるとの主張だ。これは仏教寺院よりも神社を思い浮かべるほうがよい。あるいは禅寺の枯山水だが、白井は本書では神社については一切書かず、また禅には全面的に賛同していない。神社に言及しないのは、朱塗りの鳥居や玉垣が艶やかで、「清浄簡潔」ばかりとは言えないからだろうか。禅に関しては中国からの移入で、日本独自のものではないからだろう。
白井の建築は残っていないものが多いようだ。本書前半は白井が手掛けた建物についてのエッセイで、惜しまれるのはそれらの建物の写真が全くないことだ。本書は写真やイラストがなく、文章のみで、それで興味を持つ人は独自に本その他で白井の設計した建物を知るべしという考えであったのだろう。しかし白井没後にネット時代が訪れ、今では簡単に白井の建物の情報が得られる。本書の「建築は誰のものか」と題する文章では、白井が設計し、1974年に竣工した東京の港区麻布台にある「ノア・ビル」について書かれ、ほとんど東京を知らない筆者には興味深い内容だ。「虎の門から南へ向かう大路がつきあたるところ、ノア・ビルが竣工したのは、一昨年の夏であった。それから一年半、麻布台の道しるべとなって、ノア地蔵の愛称で人人に親しまれていたが、頃日、突如として正面大アーチの玄関脇に大きな穴があけられた。ノア地蔵の顔のまん中が無残に破壊されるというようなアクシデントが、はたしてノアの洪水のように現代的意味の不可抗と誰が判断し得るだろう。…」グーグルのストリート・ヴューによれば、その開けられた穴はやや横長の長方形で、奥にガラスが嵌め込まれている。煉瓦を半円形状に積み上げたファサードに細長い縦長のスリット状の出入り口があって、全体として左右対称の厳格さを意図した設計であったのに、テナント・ビルであるためか、外光が入らないことに苦情を唱えた業者がビル所有者に掛け合ってその窓を開けたのだろう。そのために左右対称性は崩れ、白井の美意識は破壊された。白井は「すでに不特定多数の市民の所有でもあることを理解しようとしなかったところに、このようなアクシデントの原因があるのではないか。」と書き、「いずれにせよ、建築の目的は何か、建築は誰のものかという足下の認識さえ欠くのでは、高度な生産も技術もあったものではない。文明都市の昏迷はいよいよ深まるばかりだ。」と結ぶ。このビルは立地場所を熟考して設計され、白井は自作という強い思いはあったはずだ。要塞のような外観は日本では珍しい。周辺に建つビル群からは飛び抜けて目立ち、「ノア地蔵」の愛称で呼ばれたことはわかる。筆者はキリコの絵を思い出すが、それは結局ノア・ビルはあまり日本的ではないということだ。東京のこの地域を日本的と思うことは憚られるので、ヨーロッパの砦や塔を連想させる建物があってよいし、またこの建物があることで白井の名前は記憶され、個性ある建築家がいた証になる。しかし本書の「伝統の新しい危険 われわれの国立劇場建設」と題する文章に、「日本の「建設」もこれに劣らず、いずれは海にあふれでようとするくらいブームは続いている。これが宇宙時代につながる「建設」であるかどうかは別にして、二十世紀の後半は急速に人間の土が消えてゆき時代になるのだろう。」と書かれるように、半世紀で日本は立派な建物を取り壊す。
これは有名建築家が設計した建物であっても消耗品と大差ないことだ。先にキリコを持ち出したが、ヨーロッパの古都ではまだそういう歴史的に性急な取り壊しはないはずで、したがってキリコの絵は古くならず、永遠の時の中で止まっているように感じさせる。本書の「無窓無塵」にはほかに手掛けた建物として、有名な親和銀行本店について書き、その建物がトルコのハギヤ・ソフィアの大聖堂が念頭にあって設計されたもので、宗教建築に対する造詣と憧憬があったことがわかる。それは白井の才能を見抜いた施主の理解があってのことで、白井にすればこの建物が「多少公共的意味をもったモニュメンタルなもの」となった以上に、自身にとっての代表作にもなった。これはウィキペディアで知ったが、丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を常設する美術館の構想を、依頼なしに1954年に始めたとのことだ。丸木夫妻と面識があったのかどうか知らないが、その構想は白井の思想を知るうえでは欠かせない。そうした白井の反骨精神は設計の依頼者をかなり限定したように思う。簡単に言えば左翼ということで、国や自治体からの依頼される公共建築物に携わることはなかったのではないか。話を戻すと、親和銀行本店は、「…おもえば八年の労作であった。発想はながく私の郷愁だとされている一九五五年頃の原爆堂計画だと指摘する人もある。事実オクタゴナル半分の塊りを変形半円筒で打ち抜いたかたちは原爆堂のプロフィルが原型だといわれても、誰も私もまたさからわないだろう。…」とあって、「原爆の図」の美術館構想を転用したものであった。となればなおさら丸木夫妻の「原爆の図」が白井に与えた影響は大きかったことになる。「無窓無塵」に収められる「サンタ・キアラ館」や「煥呼堂について」の文章も、ネットでそれらの建物写真を見ながら読めば白井の個性が把握しやすい。先に書いたように本書は亡くなる4年前の出版で、その後白井が設計した建物についてはネットに頼らねばならない。そして白井が生まれ故郷の京都市内で死んだことを知るが、死因は「雲伴居」の建築現場で倒れたからだ。その建物がどこにあるかと調べれば、嵯峨だ。個人の注文による木造住宅で、桂離宮の影響を受けたとされる。正確な住所がわからず、また内部は見られないが、設計図や外観写真があって、どういう建物であるかはわかる。嵐山と違って桂川の左岸、渡月橋の北部に当たる嵯峨には大金持ちがたくさん住む。そういう地域に景観を守り、内部を日本の伝統に則りながら白井好みの空間を持つ住居を建てた。それが長年保たれればいいが、所有者が死去し、継いだ子孫は東京暮らしで、せっかくの立派な木造住宅が中国人に買われる話をよく聞く。「風風の湯」の常連客Yさんもそうした豪華な古家を購入したはいいが、修繕費に多額を支払い、やがて大きく値下げして中国人に売ったと言っている。
本書は建築関係の人のみを対象にしているのではない。「インテリゲンチャ」の言葉が何度か登場するが、白井は知的エリートであった。「インテリ」は揶揄の対象にされやすく、自らそう称する人はあまりいないと思うが、本書から浮かび上がる白井像は「インテリ」以外ではあり得ない。多くの人の目に入る建物を設計する建築家はみなそうあるべきだが、現実はどうか。機能が最優先され、また機能の名目で建築費が抑制されることは常識であろうし、美的効果は問題視されにくいのが現状ではないだろうか。美の造形に携わる者としては建築家が筆頭に上げられると若い頃に何かで読んだ。その次に彫刻家、画家、そして文学者、作曲家と続くが、最も位が高いのは詩人とされ、建築家も画家も作曲家もみな詩情がわからねばならない。ザッパは作曲家と自称し、音楽家とは言わなかった。音楽家は演奏家を含むが、彼らは作曲家に比べて地位は低い。楽譜に作曲する才能は楽器の奏者とは格段に地位が上との意識はザッパにもあったし、他の作曲家もそうだ。それはともかく、本書のどの文章も緻密に組み立てられ、隙がない。洋の東西を問わずに歴史や文化に対する知識が豊富で、「インテリ」とはどういう人種であるかの見本を見る気にさせられる。「天壇」の章に含まれる「豆腐」とそれに続く「めし」は、独自の視点で書かれ、日本の美意識の原点をクローズアップして認識させてくれる。そしてヨーロッパに住んだ経験のある白井が日本の何に対して独自の美を見ていたかがわかって面白い。「豆腐」はその誰でも知っている白い方形の何気ない形に日本美のひとつの頂点と典型を見る文章だが、筆者は平たい正方形の塩昆布や金箔に同じ意識が宿っていることを20代の終わり頃に考え、その話を毎週通っていた銅版画教室の、当時画学生であった若い女性にしたことがある。話が面白かったのか、彼女は笑顔で筆者のことをインテリと言い、筆者は面食らったが、芸大でもその筆者のような視点の文化論を話す先生がいなかったのかもしれない。醤油で煮た塩昆布が正方形に切られるのは元の昆布を無駄なく使うためで、正方形の金箔も同じ理由による。豆腐もそうだ。碁盤の目のように、正方形は六角形と同じく隙間なしに面を埋めることが出来るが、六角形の街路は日本にはない。京都や大阪の碁盤目状の街路が塩昆布や金箔、豆腐の方形を生むことに影響したとは断言出来ないが、日本の美意識の中には方形が中心に座っている気はする。折り紙や神事に使う三方も方形で、白井の「豆腐」はそこまで言及しないが、自然の美ではない、用の美としての豆腐は、柳の民藝の美に通じる逞しい普遍性が宿っている。実質本位を突き詰めて行くと自ずとそこから現われる美にたとえてよく、それは無駄を極力省きながら得られる単純の極致にあるものだ。
柳と白井の年齢差は16歳だ。ふたりが実際に出会ったかどうかは知らないが、白井は静岡出身の民藝の糊型染め作家で白井より6歳年長の芹沢銈介の美術館を設計し、白井が民藝とつながりがあることは確かだ。筆者は静岡県立美術館に二度訪れ、JR静岡駅南からさほど遠くない登呂遺跡に行ったこともあるが、芹沢美術館の玄関前に立ちながら、芹沢の作品はよく知っていることもあって中に入らなかった。それで白川設計の建物を体験していないが、玄関の写真を見ると白川特有の分厚い石組みを左右対称に設置した門で、白川の個性がよく反映されていることがわかる。それはいいとして、本書で柳に通ずると思える文章は「芸」の章の最初「白磁の壺」だ。柳が活躍した時代の知識人ならではの李朝の白磁壺についての思いを書く。その冒頭は「私の意中ある焼物は今、李朝白磁の壺の他にない。今ごろ李朝白磁云々などと、何を言ってるのかと笑い人もあるだろう。だいいち建築というきびしい造形の仕事を志しているものが、とらえどころのない姿の壺などに心を動かすのは危険だという。…さて提灯壺とよばれるこのあまり古くもない器は、実用の目的でつくられたというが、どちらかといえば色や形に、さまざまな変化を求めるのが民衆の趣好みであったし、この壺のように色も文様もない八方破れの、いわば「無」を鑑賞したのは、むしろ李朝のインテリゲンチャではなかったと思う。茶の湯もまた、中世的インテリゲンチャの遊びにほかならぬが、茶事における鑑賞の内的規定を「無」としながら、ようやく獲得したかに見えたのは、その極限に至る過程への憧憬にとどまった。いわゆる「わび」と「さび」である。李朝白磁にそういう中途半端な味わいはない。その無碍さには手が出なかったのである。八方破れ、つまり無防備の構えほど強いものはないと、言葉ではいえるが、芸術にしても、民族にしても、果たしてこのことを現実に立証しえたものがかつてあっただろうか。…」とあって、この名文と同じことを柳は思っていた。日本のインテリで李朝白磁を愛好し、その実物をそばに置いて愛でる人は今でもいるはずで、そういう人にこの白川の文章は心に強く響く。本書では「東洋のパルテノン」と題する文章で李王朝の昌徳宮について書き、そこでも李王朝の独自の造形感覚を喝破している。ところが一方では「韓国の古墳は、古いものも、新しいものも、積土は平滑な青い芝生におおわれ、当初からの造形の意思は素直に伝えられている。海をこえた日本には、ユーラシア大陸文化の土性骨が絶たれたということなのだろうか。」と結語して、極東に隔絶している島国日本への眼差しが垣間見える。韓国の書の歴史は森田子龍にしても視野に収めていなかったはずで、白井は同じ書を通じて東洋の国際的視野はより広かったと言えるかもしれない。それはともかく、日本のインテリは書を習うべきだろう。
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