「
去る馬鹿は 追われず老いて 忘れられ ピラミッド並みの 大墓建てるも」、「興味なき ことを知らずに 悔いはなし 愚かな人に 我が身重ねて」、「酒を飲み 話弾みて 礼儀あり 傍迷惑も 意識して酔い」、「南国の 酒のラベルに 一村画 美に一生の 一升の瓶」
毎月9日は義父の月命日で、家内は大切な用事がない限り、高槻の実家に行く。兄ふたりに妹の計4人が集まり、菩提寺の僧侶が奈良県の田舎から車で読経に駆けつける。8月はお盆のお参りも兼ねて筆者はその月参りにたいてい参加する。僧侶は午前の11時前後にやって来るが、義父よりかなり以前に亡くなった義母の葬儀から世話になっていて、家内の実家とはもう30年ほどの付き合いがあると思う。5,6年前に知恩院から「上人」に任命され、他の3,4人とともに阪急電車内の吊り広告に顔写真と名前が大きく出たこともあって、浄土宗の僧侶としてはかなりの出世頭だ。そして社交性に優れていて、読経後は各人と短い会話に花が咲き、もちろん筆者とも顔馴染みだ。もう世を去った次姉や関東にいる弟などは別にして、僧侶は家内の兄弟姉妹や顔をよく合わせる子どもたちのことをよく知るが、この30年で家内の兄弟姉妹やまた僧侶の身辺に変化があった。みんな老いて来たのだ。その僧侶もお酒が大好きで、全くの健康体ではないと聞くが、檀家で読経する以外に文化的な活動に勤しむゆえに、多くの人と会って話をするのがもう半分の仕事と言ってもよく、京都市内にはしょっちゅう来られていると聞く。祇園の茶屋で飲むこともしばしばらしく、家内の長兄はそうした場所に誘いを受けることがあるそうだが、超高級の茶屋で接待を受けるとお返しが大変だ。それでやはり大の酒好きの長兄は僧侶との交際は一線を引いている。筆者は年に二度ほど、しかもそれぞれ5分ほどしかその僧侶と話す機会はないが、さすがと思うのは相手に応じた話題を向けることだ。いつの頃からか筆者は先生と呼ばれ、執筆中の本やそれに関連した話題を振られるが、そういう話になれば家内の兄や妹は口をつぐむ。そのため、筆者は家内の実家では自分の関心事について話さないようにしている。普通の人に興味がないことを滔々と話すことほど滑稽かつ傍迷惑なことはないからだ。それに兄弟姉妹でも政治信条その他、思想はさまざまで、筆者の影響を自然と受けている家内は月参りの席で意見が対立して気まずい空気が流れることもあると聞く。政治と宗教の話は身内でもしてはならず、場を和ませたいのであれば、目上の人物が自説を得意げに話しても、茶々を絶対に入れずに、にこにこして聞き流すに限る。筆者は昔から目上にはそのように接して来て、反論を述べて相手に喧嘩を売るような真似は絶対にしない。気まずい空気が嫌だからというより、顔を見ればどういうことにどれほど関心があるかはわかるからだ。
「風風の湯」では本人に話していないのに、片耳を立て、気に食わないことがあれば話に割って入る馬鹿がたまにいる。そういう人は一流会社勤めと聞くから始末に悪い。自分はそこらの男とは違って優秀であると普段から己惚れているのだが、中途半端に賢い者は世間知らずで、常識人から鼻つまみにされている。そういう者の次に教養のない成金がいるが、彼らはゴルフをし、いい酒を飲み、いい車に乗っていることが自慢で、誰よりも人生を満喫している成功者と思っている。だいたいそういう人種が世間の半分以上を占めていて、彼らのお陰でいわゆる経済が回っているので、気前よく各地で金をどんどん使ってもらいたい。面白いことにそういう男にはなるほど全くふさわしい女がついていて、夫婦は似た者同士となっている。世間では大学の先生の奥さんの次に幅を利かせているのが成金の妻であるのは言うまでもなく、何をして食べているのかわからない、そして見るからに貧相な筆者はいい意味でもそうでない意味でも評価に値しない分類不能の欄外に記すべき人物として認識されているはずだ。簡単に言えば変わり者だ。10数年前に亡くなった家内の次姉は、「普通の人とは違うで」と筆者のことを家内によく言っていたそうだ。その真意を測り兼ねるが、いい意味も悪い意味も持ち合わせてのことに違いない。そういう筆者であるので、家内と一緒に月参りに参加し、多忙な僧侶が次のお参り先に向かった後、気を使った長兄は高槻駅前の安い居酒屋にみんなを誘って1時間半ほど飲むことになっても、筆者は眼前の席の者ともっぱら当たり障りのない話に花を咲かせるに留める。兄弟姉妹であれば喧嘩につながる意見の言い合いもたまにはいいが、筆者は家内の身内とはそれをしたことがない。筆者の考えと正反対の意見を聞いても、人さまざまと思えば腹は立たない。それにみんなごくごく狭い世界に住み、信念と呼ぶほどのものを長年保持し続けて来てはいない。年齢相応に齢を重ね、年齢相応に老けて温和にもなっている。それは筆者もだが、たぶん「普通ではない」ので尖った部分を他者には見せないでいるだけで、人物に対する好悪は激しい。今日の3枚の写真は昨日の月参りに出かけた高槻市内で撮った。3枚目は国道171号線沿いの京口町交差点で、ビルの壁際でせせこましいが、立派に育っている。他の2枚は家内の実家付近だ。一般家庭ではこれ以上に育つには立派な門構えの家でなければならない。蘇鉄は松とともに経済状態を示す指標植物だ。月参りに集まる家内の兄妹たちの生活はみな慎ましく、月参りを願う檀家ではきわめて珍しい。しかしみな人柄はいいので、僧侶は遠方でも駆けつける。金の多寡のみでは動かないことはある。ある場所で損しても別の裕福なところからたっぷり受け取ればいいと思うのが宗教界のようだ。
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