「
麒麟には 負けぬと龍の 見得切りに 鳳凰囃し 大風送り」、「人生に 区切りあるのは 自然なり 胸の鼓動の リズム思えば」、「規則なき 遊びと自由 なきと知る 天の動きも 吾の暮らしも」、「月を見て 吾も引力 具わると 気づき魅せらる 珍しき美に」
ロジェ・カイヨワの『蛸』の後半は訳者の塚崎幹夫氏による「解説―知的蛸としてのロジェ・カイヨワ」と題する文章が収められる。これはカイヨワが蛸のように次々に新たな関心を抱いて深入りすることをたとえているうえ、その「解説」の最後に塚崎氏が作った蛸に見える図表も意味している。その図はカイヨワのある著作を中心にそれに関連する他の著作を周囲に配したもので、18冊を取り上げ、ある著作を読めば、関連する著作がわかる。1975年6月、『蛸』を買ってこの図から思ったことは、ザッパのアルバムだ。ザッパの音楽は概念継続と称してある曲が別の曲の歌詞やメロディなどにつながっていることが多い。そのことを面白がると、ザッパの音楽に深入りして行くことになる。しかし無名の人物の関心事も、本人が気づかないだけで、同じように芋づる式につながっているはずだ。精神分裂症患者であれば話は違うかもしれないが、それとて意識の深いところではすべての行動や関心事はみなつながっている可能性はゼロではない。筆者は21歳でザッパの音楽を知り、24歳で『蛸』を読んだが、大量の手紙を書くことは20歳頃から始めた。それが今から20年前の52歳で始めたこのブログにつながっていて、公にしていいと思うことはカテゴリー別に書いて来た。投稿内容はザッパやカイヨワの世界と同じく、筆者の関心事のつながりを暗に示している。投稿用のカテゴリーは便宜上のもので、全く違う名称のカテゴリーを設けてそれらに再配置することも出来る。「新・嵐山だより(シリーズ編)」はその好例で、特定の事柄の投稿数が目立って増えると別の新たなカテゴリーを作ってそこに移動させることをこれまでして来たし、今後もするだろう。またたとえば3年前の春に母の通夜で突如短歌が思い浮かび、それからしばらくしてブログに題名に使う短歌とは別に4首ずつ投稿するようになった。母の死亡日以前の日付に遡って投稿することはままあり、その場合は短歌は載せないので、死亡日以降今日までの投稿回数845のうち、おそらく700日くらいは短歌を投稿したと思うので、2800首は作ったことになる。これは西行が作った2500首だったか、それを超えたはずで、もう短歌作りをやめてもいいが、老いる一方の頭の回転運動を促進しているから、逆にもっと作るべきだろう。それはともかく、4首の短歌はブログの内容と関連づいていない場合が多いが、関連している場合もあるので、短歌のみ取り出すことはしにくい。また筆者は自作の短歌を重視しておらず、詠んだものを全部集める気はない。
重視はしていないが、詩とは何か、また長文本位の筆者に極端に短い文章が書けるのかという自らの関心事によって、短歌には興味があった。しかし筆者は百人一首さえろくに知らず、短歌の作り方はさっぱりわからない。それでただ字数だけを揃えて何か言いたいことをまとめるだけでもいいかと思っていたところ、理由がわからいが、母の通夜で布団で眠っている最中に一首思い浮かび、暗闇の中でそれを書き留めた。ブログに投稿するために筆者の短歌は考え込む場合は1首1時間ほど要す。これは時に本文を書く時間よりも長い。それで短歌作りは苦痛だが、4首が出来るとそこから本文という新たなに気になれる。それに短歌のほとんどは数分で思い浮かぶ。さて、今日の3枚目の写真はブログのための「冒頭の一字表」で、今日の投稿で最後の文字「麒」になった。これまでに何度か書いたように、ブログの最初の頃は冒頭の一字を気にしなかった。ある日、冒頭の一字を他の投稿に二度使わないようにパソコンのメモ帳に記し始めた。「冒頭の一字表」の字数は2510字だ。使える文字は現実的にはこの数倍以上はあるが、それらを未使用の文字を調べるのは面倒であるから、適当に思いついた文字を適当に使い、もうこれ以上は思い浮かばないかと思ったところでやめた。それが「麒」とういうことになる。その文字を使った投稿が終わると最初の「2」に戻り、投稿のたびに次の文字を冒頭に使いながら、2510字を二度使い終わるのが今日だ。つかり次回の投稿は三度目に「2」を使うことになる。なぜ冒頭の一字を変えるのか。語彙が少ない筆者はそういう規定がなければ同じ字をおそらく目立って何度も使うからだ。それでもいいのだが、やはり面白くない。それに使うべき冒頭の一字が決まっていると、それが窮屈というより、窮屈さの中で考え込めば却って斬新な思いが芽生えやすい。森田子龍が漢字にこだわったのは書家ゆえ当然ではあるが、約束事のある漢字を書くことは絵画に比べて不自由なようでいて、その制約の中で存分に振舞える自由がある。なぜ人間は法律を作るのかを考えると、時代遅れになった法律も多々あるが、人間を含めて自然界は何らかの厳格な仕組みによって動いていることをなぞっているように筆者は連想する。蛇のように舌の先をふたつに割る手術をしたり、またその他の部位を改造したりする人がいて、人によって自由と不自由との考えは違うが、肉体を生まれたままとは違う形に手術で変更することは不自然だ。それを美しいとみなす思考も不自然で、筆者には美とは思えない。ともかく生物が生まれ持つ体はある法則にしたがってそうなっていて、自然界には法則がある。筆者の「冒頭の一字」はそれを見てのことだと大げさには言わないが、決まり事のとおりに動くことは美を生む形式であって、利点がいろいろとあると思っている。
先に書いたように、このブログは過去の日付に遡って投稿することがままある。その遡った日からせいぜい数日遅れで投稿すべきであったのに、書く時間がなかったためにのびのびになっていたものだ。写真を用意しながら、そうした未投稿状態の事柄は増える一方だが、気になる度合いが大きいものほど早く書くつもりでいる。あたりまえのことだが、その過去に遡っての投稿はその過去の日付となってブログ上に載り、最新の画面すなわち画面の冒頭には表示されない。そこで数か月前に画面右上に「最新の投稿」の一行を設けた。それをクリックすると、最も新しい投稿画面が表示される。だがその面倒な作業をしない読者がほとんどだろう。先日の9日、アメリカの大西さんから暑中見舞いメールが届き、その中に「BLOGをアップされてないので文筆活動で忙しいのかもしれませんが、ちょっと気になりました。」とあって驚いた。というのは当時原稿30枚の投稿を数回済ませたからで、彼がそれに気づいていないことがわかった。そういうこともあろうと予想して画面右上に「X 旧きについ言ったー」という、X(ツイッター)にリンクする一行をかなり昔に設置したが、先日Nさんと会った時にXはアカウントを持っている人しか見られないことを知った。そして大西さんはアカウントを持っておらず、筆者の過去に遡っての投稿を見過ごして来たことがわかった。そこで今年の投稿分のみだが、題名を列挙して送信し、11日には
画面右上の「最新の投稿」をクリックするとその列挙した表が見られるように新たなページを設けた。これで筆者の投稿順すなわち思考の痕跡がよりわかりやすくなった。もちろんのことだが、「最新の投稿」の各投稿の冒頭の一字は今日の3枚目の画像の「冒頭の一字」表にしたがっている。2018年1月投稿の
「ブログ作成歩録72」に書いたように、黄色や青、濃いピンクの色分けは、筆者の不手際から冒頭の一字の使用順を間違ったことを確認するために便宜上塗ったものでさして意味はない。またこの表の最初の方の太字の文字は当時間違って二度繰り返したもので、次回から始まる三度目の「冒頭の一字」表に倣った投稿は、これら太字を飛び越して使わない。読者には全くどうでもいい退屈なことを書いているが、自分で定めた規則にしたがって投稿していることを改めて書いておきたい。その表は方眼紙に一字ずつ詰め込んだ眺めをしていて、大阪市や京都市の中心部の街路を思わせる。筆者は大阪と京都にしか住んだことはなく、碁盤目状の街路は馴染み深い。それででもないが、ブログに投稿したことがあるように、大阪市内や京都市内を広範囲に歩く時は
「オレオレ歩き」をよくする。たとえばある四つ辻から北東に向かう時、四つ辻ごとに東へ進み、次の四つ辻で北に歩くことを繰り返し、無意味な遊びに過ぎないが、角ごとに「折れる」という決まりの順守に面白味を感じる。
街路が碁盤目状になっていることはそこの住民の思想に何らかの影響を及ぼすだろうか。都市の街路は大きな丘や大きな河川の流れに影響を受ける。筆者はパリに行ったことはないが、放射状に道が走っていることは凱旋門のある付近からもわかる。その放射状の街路がロジェ・カイヨワの思想とどのようにつながっているのかは知らない。先に塚崎氏がカイヨワのある著作を中央に置き、それと強く関係する他のカイヨワの著作を放射線によって結びつけた図を18掲載したことを書いた。中央の円内の著作は他の図では周辺に位置し、その意味ではカイヨワの著作は全部が平等で、それらが相互に関連し合っていることを意味している。つまり代表作があって、その周辺にさほど有名でない作品が並ぶのではない。カイヨワの関心事は全部が重要で、また平等であると言ってよい。さて、『蛸』の「解説―知的蛸としてのロジェ・カイヨワ」には、『蛸』の直前に出版され、現在まで未邦訳の『碁盤の目』についてごく簡単な説明がある。『碁盤の目』の原題は「CASES D‘UN ÈCHIQUIRE」で、直訳すると「チェス盤の箱」で、複数形の「箱」を「目」と訳すのは、その箱は駒が入ることを前提にしているからだ。筆者が疑問に思うことは、チェス盤は白黒に塗り分けてあるが、囲碁の碁盤はそうではないことだ。したがって『碁盤の目』は不正確な訳と思わないでもないが、囲碁はチェスと同様、敵味方を駒石で白と黒に塗り分けている。したがって『碁盤の目』の訳は正しい。それはそうと、カイヨワがこの書名とした理由は、自分の関心事が碁盤の目のように独立しながら関連し合っていることを示すためだ。邦訳がなく、塚崎氏がごく簡単に説明していることからも言えるだろうが、この本に書かれることは断片的で、他の書物で詳しく書かれていることが多いからのようだ。また関心を持ちながら、この書物で短文を発表するだけに終わった内容もおそらく含み、カイヨワが実際には使わなかったチェスの手口を集めたものとたとえてもいいのだろう。先のカイヨワの著作関連図は、ある著作を読んだ後に次に読むべき書物を提示しているが、その順序は数多くあるし、また何度もある書物に立ち戻って別の書物を再考する必要を示している。それはカイヨワの脳内を覗き込むことでありつつ、読者の頭の内部をも考えることに役立つ。もちろんそういうことが好きな人に限るが、人が人であるためには知性や理性は欠かせない。さて、筆者が碁盤目を連想する「冒頭の一字」の表は2510字あって、毎日一回投稿してこれらの文字を使い切るには7年弱要する。週2回の投稿であれば20数年要し、筆者はこの世にいない。それに書く気力が続くかどうかも問題だ。誰もそのことを気にしていなくても、出鱈目に遊んで生きている筆者がわずかでも規律正しいことを自身で納得したいためには、投稿は続けるべきだろう。
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