「
咆えられて 悲鳴上げれば 逃げ去りて 女子どもの 声高きよし」 、「まどろみに 遠き汽笛を 聞く枕 方角と距離 知りたき鳥に」、「消しゴムを 貸してもらえず なお頼み 隣りの女子は 消しカス顔に」、 「無愛想な 女子の巧みな 習字見て なるほど筆字 人を表わす」
去年10月下旬にネットの『日本の古本屋』で入手した本について書く。今年2月に買った『書と墨象 近代の美術28』を先に読み、その感想を書いた。森田子龍の書いた本についてこれまで断続的に投稿している。関連する投稿を列挙すると、
1『日本の書』、
2『書の歩み―中国書道史―』、
3『森田子龍と「墨美」』、
4『大きな井上有一展』、
5『書と墨象 近代の美術28』、6『同』続き、
7『森田子龍と「墨美」』アゲイン、そして今日の6で、今後も投稿予定がある。ただし本をまだ読んでいないのでいつになるか予想がつかない。6を含めて8回の投稿を対象とした展覧会や本の世に出た順に並べ直すと、1(1956年)、2(1972)、5(1975)、6(1980)、4(1988)、3(1992)で、森田の考えがどう固まって行ったかがおおよそわかる。一方、作家としてのピークは6の1980年すなわち68歳頃と言ってよく、これはどのような表現者でも似たようなものだろう。筆者は森田個人よりも森田が関係した画家や思想家がらみで関心がある。1はアレシンスキーが関係し、6は出版の2年前の1978年に死んだロジェ・カイヨワとの交流を紹介する。筆者の関心はアレシンスキーやカイヨワ、また具体美術の画家たちに留まらないが、関心事の広がりは自己の内面を覗くことに役立つ。関心を寄せるものは何か、またその理由を知りたいのだ。本ブログ全体は関心事のある部分について書くもので、誰の影響も受けていない意味において、ささやかながらも表現と思っている。もっとも、「ひとりよがり」を大いに自覚してのことで、薔薇の花は誰に見られなくても勝手に咲き、勝手に枯れて行くことを思えば、筆者の行為は自然ではないか。本ブログは筋立てをしっかりと用意せずに即興で書く。誤字の混じりは承知で、基本的に読み直さない。しかし最近は本ブログ右欄の「記事ランキング」に表示される投稿に関してのみ読み返して誤字を修正する。音楽における即興を考察するのに文章綴りが役立たないかとの思いがあり、即興に美が宿るとしてその理由は何かも知りたいのだが、答えはもうとっくにわかっていて、ひたすら練習するしかない。誰よりも練習量の多さを誇る者がミューズに愛される可能性は大きい。その練習は他者の仕事に目を配ってのことで、書における臨書はそのわかりやすい代表で、音楽ではたとえば名曲の完全コピーだ。そうした能力のうえに開花する作品を筆者は評価する。さて、冒頭の歌の後半2首は小学生時代の記憶で、文字、書の原体験だ。以前の投稿を探すのが面倒なので以下に改めて書く。
小学1年生になり立ての春の授業で、ノートの大きな升目に鉛筆で文字を書いていた。筆者は廊下側の最前列の二人用の木製の机の右側に座り、左は白い大きな襟のついた薄色のワンピースを着た女子だった。その日、消しゴムを持参するのを忘れた。授業はとても静かで、担任の優しい女の先生は笑顔で黒板の前、筆者から6,7メートル先で誰かの帳面を覗いていた。筆者はある仮名文字を間違って書き、先生に聞こえないように隣りの女子に消しゴムを貸してほしいと小声で話した。三、四度頼んだのにその女子は無言で筆者を睨みつけ、眉間に皺を寄せて怖い顔をし続けた。それでも食い下がってこう言った。「消したカスでもええから…」。すると彼女は本当に自分の書いた文字をいくつか荒々しく消し、そのカスを筆者に向けてゴミを捨てるように手で勢いよく払った。筆者はそれをていねいに集めて丸め、どうにか気に入らない箇所を消そうとした。しかしきれいに消えるはずがない。それでも少しは消え、その上に新たに書いた。教室の様子や彼女の邪見な態度は60年数経っても鮮明に覚えている。そして彼女の顔は消しゴムのカスと重なっている。かわいそうに家では母親か誰かが始終同じような渋面をしていたのだろう。ところで小学生低学年の筆者の文字は、大人になって見ると何となく嫌な感じがする。文字から伝わる人柄が嫌なのだ。たぶん当時の自分が学校一貧しいことにおどおどしていたのだ。それも哀れなことだ。小学5、6年の担任のK先生は筆者に特に優しかった。先生にはまだ可愛さが残る年齢の児童たちがどういう大人になるかが半ば見えていたのだろう。それは正しい。10歳でどういう大人になるかは確定している。K先生はある日、同じ学級の女子Hと筆者のふたりを代表として選び、放課後に残らせた。どこかのコンクールに出品する習字の練習をさせるためだ。筆者は相変わらず貧乏で、半紙も余分には買えない。それで新聞紙をたくさん持って行った。Hは美人の部類に入るが、とにかく無口で表情は乏しく、成績は目立たなかった。彼女は習字の塾に通い、筆は立派で、半紙も学校の売店で買えるものではなかった。彼女は筆者の右側の机で無言のまま何枚も練習して行く。筆者は安価な硬い墨を磨り、新聞に書くばかりで、なかなか半紙に書く気になれない。それに安物の筆は使い過ぎて最悪な状態であった。彼女は滑らかな穂先の図太い艶やかな筆に応じた字を書き、それは確かに一見きれいであったが、無愛想で味気なく感じた。その時に思ったことは、上手な字とは何かだ。きれいな字でも味気ないものがある。すべての表現や芸術にそれは言える。結局人格が滲み出る。出自は変えられないが、似た出自でも稀に秀でた才能は生まれる。それは出自ゆえの根性による。しかし誰しも他者の人格に対して好悪があって、定まっているかに見える評価はさして当てに出来ない。
筆者の基本的な習字体験は小学生で終わった。「弘法は筆を選ばず」の言葉は好きで、そのとおりと思っている。筆者が染色で使う筆や刷毛はひどいものばかりだ。それでもそれらをうまく使いこなす技術があればどうにかなる。音楽でも絵画でもまず用意する物にこだわる人がある。たとえば巨匠と同じ楽器や有名画家が使っている絵具だ。そういう連中はみな凡人で、外形の模倣で偉くなった気になりたいだけだ。楽器が買えない貧困の中でも音楽や絵画をやりたい者は出て来る。弦一本と棒と箱があれば弦楽器は出来る。絵は路面や壁に書けばよい。芸大美大に行ってもろくに制作しない者ばかりと聞いても全く驚かない。音楽や美術を学校で教えることは不要と筆者は思っている。ネット時代になって独学でどんなことでも習得出来るだろう。その最たるものが芸術だ。秘密にされている技術がわからなければ才能の伸びに限界があるという意見はもっともなところがあるが、ならば全然違う方法で新たな表現を探ればよい。ここから本題。アレシンスキーが撮った映画『日本の書』には子どもが登場する場面がふたつある。ひとつは地面に円などの落書きをする小学生男子と、小学校の習字の授業風景だ。後者は男の先生が黒板に貼った白い紙に「静」の字を書く。達筆だ。それを見ながら子どもたちは体操をするかのように半紙に同じ字を一斉に書く。『日本の書』が面白いのは、義務教育でまともな習字を教える一方、森田らの前衛書道家が筆で墨をあちこち擦りつける悪戯小僧の行為を連想させるかのように、大きな紙に屈み込んで極太筆で黒々とした墨の痕跡を一気につけることだ。その映画を当時の子どもたちは見なかったが、世間では前衛書は大人気で、TVはまだ一般的ではなかったとはいえ、大人の雑誌などで前衛書を見た子どもがそれを笑いながら真似をしたことはあったろう。文字を正しくきれいに書くことを学校で教わりながら、一方では一部の大人が命や生き方を唱えて好き勝手に墨で殴り書きをしている。そのことを教師はどう説明出来たか。「先生、芸術は好き勝手やることですか」「自分なりのしっかりとした理由があれば何をしてもいい。ただし伝統や基本をまず習ってからでなければならん」「先生、早く好きなようにしたいです」「その信念を抱きながら、しっかりとまずは基本を熱心に練習しなさい。それが必ず役に立ちます」「では先生、前衛書道は大人になってからですか」「墨で思い切り落書きしたいなら、原っぱででもやればいい」「墨も筆ももったいないと叱られますよ」「ではやはり大人になってからでなければならないね」「好き勝手やって生きていけるのでしょうか」「好きなことをどう収入につなげるかだね」「それで食べていけるかな」「新しいブームの中で一番か二番の有名になればね」「そこらの石では駄目で、みんながほしがる宝石になれということですね」「おっ洒落通り!」
本書はA4サイズで、表紙を除いて44ページだ。裏表紙は全面が『墨美』の既刊号の表で、101号から297号まで刊行日と題目が書かれる。100号以前がないのは全部売り切れたのだろう。『墨美』は301号まで続いた。本号の裏表紙の「虹」と題する文章の最後に本号で取り上げられなかった「スイスの国際芸術誌「グラフィス」の日本の書の特集」と「東西交流の接点の一つを論じた森田の『書と抽象絵画』」が掲載予定であることが書かれる。本号の続編が何号であったかわからないが、本号が取り上げるのは「東と西の協力によって成った本[印]」、「フランスで東洋の書について考えた「代弁者」」のふたつだ。これらはページを二分し、前者は写真が多く、後者は文章主体だ。前半により興味があるので、まずそのことについて書く。筆者は森田とカイヨワの共著[印]を発刊から間もない頃に京都中央図書館で一度だけざっと見たことがあるだけで、全文を読んでいない。本書の前半は、[印]の出版がカイヨワが世を去って2年後であったことや、フランスのヴィシー市で主催された「カイヨワの世界展」や[印]の出版記念パーティなどの写真を含み、またカイヨワの森田への手紙3通全文と、森田がカイヨワ夫人に送った手紙2通の全文など、カイヨワと森田の交流の軌跡がよくわかる。以前に書いたが、筆者が初めてカイヨワの著作を知ったのは75年6月、23歳、新聞の書評を読んで買った『蛸』による。その圧倒的な資料の収集具合に驚嘆した。トーマス・マンが
『魔の山』を書くに当たって集めた本は図書館が建つほどの量であったと言われる。一行、一語のために何冊も読むことは珍しくない。カイヨワは古今東西の人々の蛸についての思いを書くに当たって、水木しげるの漫画まで探った。現在のフランスは日本の漫画やアニメのファンが多いと聞くが、半世紀前にカイヨワはそれを収集資料として注目していた。日本版の『蛸』は後半が訳者塚崎幹夫氏によるカイヨワの著作の概要で、筆者は現在に至るまでそれを何度も読み返している。というのはカイヨワの全著作の邦訳がなされていないからで、塚崎氏の概要は非常に役に立つ。本書で森田は「富山大学の塚崎幹夫氏からも、カイヨワさんの著作の訳本数冊を送って頂いた。そのほかにも私は邦訳されたカイヨワさんの著作を何冊か求めて読んだ。…」とあって、筆者は半世紀ぶりに塚崎氏の名前を別の本で見かけて微笑んでいる。塚崎氏はカイヨワを初めて日本に紹介した人ではないが、氏は的確にカイヨワを評価、紹介し、『蛸』はカイヨワの概要を知る入門書としてよい。筆者はこの年齢になってフランス語をまともに学ばなかったことを後悔している。カイヨワの文章を原文で読みたいからだ。邦訳では意味が把握しにくい箇所が往々にしてある。フランス語ならばさぞかしリズムがあって、音楽を聞くように美しいと想像する。
それはさておき、本書の最初『[印]の成立』で森田はこう書く。「昭和四十三年十月東京国立博物館に新館東洋館が完成して、その開館記念の東洋美術館が開かれた。そのオープニングの会場で私はひとり外国婦人から声をかけられた。モントリオール万博の国際美術館で私の作品「雲無心」を見て感動、ぜひお目にかかりたかったというのである。フランス人ゴルベスト婦人であった。詩をつくる人とのことだった(ペンネームはジャンヌ・シジュー)。女史は別に東京に店を持っているとかで、その商用で大阪に出張することも多く、その途上京都の私の宅に立ち寄られることも度び重なった。…そのうちに、女子自身の詩集をパリで出版することになって、その詩集に私の作品を載せたいという申出もあって、私は快く引き受けた。…何度目かの来訪のとき、ロジェ・カイヨワさんの話が出て、同氏がご自分の詩と私の作品とで一冊の本をつくりたいといっておられるということを、女史の口から私は初めて聞いたのであった。…」これは本書の題名「東西文化の交流」そのものであって、森田の作品がフランスの知識人の間で人気があったことがわかる。[印]のカイヨワの文章の訳文は、森田への手紙によって74年2月には出来上がっていなかったことがわかるが、7月に見本刷りがカイヨワに届き、その感想を森田に手紙で届けている。そしてヴィシー市で開催されたカイヨワ展に森田の作品「凧」が、川端康成がカイヨワのために書いた書と一緒に展示されたことを写真を添えて森田に報告している。その写真は今日の2枚目だ。ヴィシーでのカイヨワ展は森田の作品を美術批評家に紹介し、また驚嘆させることにもなったことをカイヨワは書き添える。ところが[印]の出版前にこの世を去った。以前に書いたように、筆者は死を早めた原因を長年知らなかったが、同じ文筆家のピエール・ガスカールによれば、晩年は酒浸りになり、それで寿命を縮めた。そのことを半世紀経って知り、それででもないが、筆者も毎晩さまざまな酒を飲んで自分を試している。カイヨワがなぜ酒浸りになって我を忘れようとしたのかを少しでも知りたいためだ。ガスカールが批判するように、カイヨワは晩年になるにしたがって石についての文章ばかりを書くようになった。その理由を筆者なりに考えているが、端的に言えば人間に絶望したのだろう。カイヨワはネット時代を知ればさらに幻滅したろう。いつの時代でも同じだが、有名になって金儲けもしたい馬鹿たちが地球、人類の滅亡を早める。カイヨワはそう断言しなかったが、そう思っていたのは間違いない。日本に限らず、メディアで目立つ人物たちが揃って醜悪さを晒すことを、神が定めたことと諦めるか、あるいは神を信じずに人間に期待をかけるのであればさてどうすべきか。それは今日の投稿にふさわしくない話だが、筆者の内面の通奏低音として響き続けている。
話を戻す。カイヨワは森田の「凧」を所望し、東京に保管してある印税からその代金を支払いたいと森田に手紙を書いた。その代金がいくらであったかまでは本書に書かれないが、カイヨワは森田の「凧」を大いに気に入り、パリの自宅の壁に掲げた。その様子を撮った写真が今日の3枚目の写真で、森田の背後にその拡大写真が飾られる。東京銀座の吉井画廊での[印]の出版記念パーティは岡本太郎や瀬木慎一など著名人が大勢集まった。3枚目の写真でカイヨワが手にしているのは[印]に収められた森田の書の複製で、「凧」もその一点となった。カイヨワは今日の最初の写真すなわち本書の表紙に印刷される「虹」も高く評価し、この複製も[印]に収められたことが2枚目の写真からわかる。カイヨワが森田の書、就中「凧」を大いに気に入った理由を考えているが、そのことは別の機会に譲る。本書には「『印』――二つの発表会――東京/パリ――」と題する西田正夫氏の文章もある。[印]を出版した座右宝刊行会の人物だ。少し引用する。「思えば、ロジェ・カイヨワ氏を初めてその自宅に訪ねたのは、今から五年前になる。座右宝刊行会として『印』の出版を引き受けることを表明するためで、同行したのは、ちょうどパリに滞在されていた阿部良雄氏(『印』の翻訳者)と、当社のヨーロッパ代表ルネ・ロランであった。その折、間もなくヴィシー市で開かれる予定の「カイヨワの世界」展に森田子龍氏の作品をぜひ出品もらえるように頼んで欲しいといわれ、その夜、ロラン宅から京都まで電話をいれたことを思い出す。その時の作品『凧』は、展覧会のあとカイヨワ氏の希望で買い取られ、書斎にかかげられることになったのである。…カイヨワ氏が京都を訪れて森田氏の作品に出会い、いっしょに本をつくることを思い立ったのは八年前になるが、その後文通は重ねられても、お二人が会われたことはない。そうして今また、その本の完成を機縁として森田氏がパリを訪れる時に、カイヨワ氏はすでに亡い。…」この下りが書かれるページにはカイヨワ夫人が撮った写真が1枚ある。それは森田夫妻が、カイヨワのエッフェル塔が間近に見える自宅を訪問し、カイヨワの収集した石を収めた棚のすぐ前でのもので、そこにカイヨワがいないことが惜しまれる。カイヨワは森田より1歳若く、65歳で死んだ。生きている限り、文章は書いたはずだが、65歳は代表作を書き上げていた年齢としてよく、早過ぎることもないだろう。本書から12年後の92年に3『森田子龍と「墨美」』展が開催されたのは森田にとってこれ以上の望みはない光栄であったと思うが、森田とカイヨワの関係に焦点を当てた展覧会が日本で開催されることを筆者は期待している。その展示にはカイヨワがなぜ森田の墨象作品を気に入ったかの考察が欠かせず、そのことによって森田の作品の魅力が新たに探られる。
本書後半はパリ・ソルボンヌ大学広報『LE TRUCHEMENT』(代弁者)と題して、その広報の表紙が全ページ大に掲げられ、序文に続いて5つの文章が載る。この広報は78年に印刷された。カイヨワ亡き後に森田夫妻がパリを訪れた80年6月、パリのヨシイ画廊で[印]の出版記念レセプションが開かれ、それに駆けつけたジャン・ロード教授はこう告げた。「私の大学では、異文化間の芸術の問題を研究することにして、その最初の仕事に、あなたについての一冊の本をつくりました。そしていずれ将来は、あなたの生涯の作品を収録してあなたの研究をまとめた本をつくりたいとも考えています。」その本が広報で、それをジャン・ロードは森田に送付したが、多忙な森田がそれに気づいたのは2年後だ。森田はこう書く。「急いで翻訳の手配をしたが、中世の語法などの混じったむずかしい文章らしい。…その訳文が手に入ったのは初秋の頃であった。…」ジャン・ロードの中世の語法を使った序文は原稿用紙6枚ほどで、カイヨワを思わせる内容だ。「Le Truchement」という言葉の意味を歴史を遡って説明し、言葉が違う人間の交流の諸問題も浮上し、またそのことはカイヨワの著作を訳文で読むことの一種の味気なさも連想させる。少し引用する。「Le Truchement「代弁者(通辞)」とは、フランス人のケベック植民の際、北アメリカのインディアンとヨーロッパからの最初の移民達との間の仲介者を示す名であった。十二世紀に於いて、「オランジュ占領」の作者が既にこの言葉を使っていたが、それは通訳の意味であった。…この言葉はやがて、スポークスマン又は検事代理という意味に変わって行った。…ルネ・サヴァールは、この通辞が、毛皮猟師であり、フランス人にもインディアンにも居たことを示した。結局、モントリオールのカンタータ「通辞のための組曲」の作者達がそれに詩的な次元を与えたのである。この様にして、その意味上の歩みに於いて、言語の様々な地層を通じて把えられたものとして、「代弁者」は文化人類学の角度の下にと同様、美術史の角度の下でも、諸文化間の関係であり、そこに関係が築かれるこの公報の表題とする最も適していることが明らかである。…文化は、それが残存していても、変化せざるを得ないのである。…多かれ少なかれ文化が順応する「模範」は、既に歴史の中に記され、描かれておるという訳ではない。…われわれはもはや往年の決定論に信頼を寄せることは出来ない。余りに多くの変種が介入し、さらに妥当性と強制との段階を見積もることは、それが、その相互関係の状況に依存しておるが故に、特に難しいのである。…」この引用の後半を森田の墨象が興って来たことと合わせて考えるとよい。ジャン・ロードが墨象に着目して大学の広報で取り上げたことは、日本の大学では生じず、日仏の「東西文化の交流」の差を感じさせる。
本書後半の最も読み応えのあるのは「森田子龍との対話」だ。これは『書と墨象 近代の美術28』の読者には二番煎じ的な内容に思えるが、質問者の素朴、また的確な疑問に対して森田が答え、よりわかりやすいと言ってよい。フランス人のインタヴュアーは的を射た質問を続けるが、森田の答えは禅問答のようなところがあって、インタヴュアーが正しく理解したかどうかは疑問だ。編集後記に森田は「録音テープをフランスに持ち帰り、日本人女性二人の協力のもとにまとめられたようである。十分な手を尽くされているわけで、訳語に不備はないはずである。ところが、…私の発言が貧しく私にはどうしても満足できない。…それは私の頭が口で語る速さについてゆけていないのだと気づいた。私は今まで意見発表は文によることばかりで、口述によるそれには馴れていない。…」と書いて、筆者は大いに同感する。この文章は即興とはいえ、パソコンのキーを叩く速度が話すことに比べてかなり遅いことを前提にしてのことで、人を前にしての話となるとこうした文章とは同じ内容にはなり得ない。しかし一方、即興的に話せば、それはそれで文章とは違う内容の予想外な、そして面白い思いが飛び出すことを知っているので、どちらがいいとは言えない。森田の言葉の続きを書くと、「これだけは付け足さなければと思うことを書き加えていくと、書く速さでなら次々と考えも運んで、それほどの労苦もなく全体について、ほぼ自分で満足できそうなものになった。してみると、交流のためにはこの形で発表した方がよい。…外国の人びとに相対しても、ことばも持たず、日本語によっても十分なことが語れない。自分ながら残念かつお恥しい次第である。異文化圏の交流ということは、この様にむずかしいことである。しかしカイヨワ氏の様な大人物を得れば労せずして、底の底から通じあうことも出できる。…」とあって、本書の意図をいわばまとめるが、カイヨワが森田の作品をどう評価して書いたかの文章は本書を読む限りはなく、カイヨワに関心のある筆者はその点を想像するしかない。その楽しい問題はカイヨワの思想の到達点を別の角度から探る行為で、おそらくまだ誰もそれをしていないのではないだろうか。カイヨワの全著作を読むと同時に、カイヨワが注目した美術や神話、自然科学などに造詣が深く、なおかつ詩で文章を綴れる才能がなければならない。その地点からカイヨワがどういうものに好感を抱いていたかがわかると、たとえばカイヨワが認める美術作品を生むことが出来るだろう。筆者が最も関心のあることはそれで、要領よくカイヨワの思想の真髄を確かなものとして把握したい。しかし、ほとんどの読者はその思いだろう。限られた時間の人生の中で一足飛びに目当てのものを得たい。しかしそれは虫のいい話で、わかった気になるだけのことだ。あるいはまったく最初から無視を決め込む。
本書のインタヴューはたとえばこんな質問をする。「あなたが一つの作品を始めるとき、あなたはご自分がなさりたいことを正確に知って居られるのですか。もしあなたの動きの中に偶然性が介入するとしたら、あなたは完成した作品をどう評価されますか。」これは筆者が以前考えた疑問でもある。前衛書は墨の予想外の滲みなど、必ず偶然が支配する。井上有一が成功と認めた作の何十何百倍もの没作品があったとする論者の意見を読んで、では井上の美意識を正確に知るにはそれら大量の没作品と成功作を比較したいと鑑賞者が考えるのはもっともなことだ。本書で先の質問に対して森田はこう答える。これは会話では舌足らずで、後で大部分を書き加えたに違いない。かなり長い答えで、結論を言えば「…「偶然性」というおことばは、意図に照らし合わせていわれているらしいですが、私の場合の意図は動きの細部を規定し予定するようなものではありません。そのような次元を超えて、そのような次元にわずらわされ動揺させられることのない静けさ純粋さに自分を保つことに主眼を置いた自分のあり方ともいうべきものが、私の意図といえば意図だといえます。だから実際の動きの中で、少々形が曲がろうが、或いは筆が割れて思わぬ線が出ても、そのことを特に偶然とは思いません。そこには大事な問題はないからです。…」これは半分はわかるが、もう半分は、では井上の場合、失敗作は「動揺して静けさ純粋さに自分を保つことが出来なかった」と言えることになる。それが成功作の何十何百倍もあったとなれば、数十年制作を続けながら、成功作はきわめて稀、すなわちほとんどの作において、凡人と同じく動揺し、静けさと純粋さが保てなかったことになり、いささか反省が過ぎたのではないかと思う。しかしこれは逆に言えば筆者の皮肉だ。あるいは美をどう捉えるかという問題があって、森田や井上の前衛書の美は彼らにしかわからないものなのかという疑問だ。伝統的な書の美を拒否し、さりとて抽象絵画を敵に回し、全く新たな美を追求した前衛書の見どころはどこにあるのか、またそれをロジェ・カイヨワがどのように気に入ったのか。動揺せず、静けさと純粋さを保つとして、それは森田だけに限らず、誰でもその境地に至り得るし、その状態で創作しているはずだ。その中でも失敗作と没作があって、その差は作家の美意識による。森田はそれを形に表われないものと捉え、その点で形而上的だが、他者には墨象の成功作と没作の形而上の差異はわからないのではないか。精神は誰でも持ち、それなりの作を得る。森田が精神を高めて書いたとして、その精神性の高さはどう客観視し得るか。絵画の贋作以上に前衛書のそれは作りやすいと思う。数秒で書かれたものは同じく数秒で書けば似たものが出来やすいと考えるからだが、逆に森田は細切れの時間を積み重ねて描く絵画こそ贋作が作りやすいと思っていたであろう。
本号続編の『書と抽象絵画』は『書と墨象 近代の美術28』に書かれることとほぼ同じ内容だろう。本号でも答えるように、森田はカンディンスキー、モンドリアン、ポロックの3人を批判する。それは簡単に言えば自由は逃れることでは得られないということで、書は文字の画数を増減出来ず、書き順も決まっている制限すなわち不自由さを持つがゆえに自由であるとの考えで、抽象絵画のように余計なことを考えずに済む利点がある。また森田の場合は筆を休めずに一気に書くことを執拗に述べる。一瞬かつ一連の筆の動きは、迷いが入り込むことを避ける意味合いからで、そこに禅の「無」の境地、言い換えれば「真なる自由」が得られると説く。これは言葉でいくら説明されても実践を通じて獲得するしかない境地だろう。練習を重ね、道具と一体化することで一心不乱になり、作品は自ずと仕上がっている。森田の作品はそれを証明しているとして、筆者はたとえば途中で書くのをやめた書の作品を想定してみる。それは作為的ではあるが、なぜ途中でやめたのかという謎や緊張感を孕む。最後まで書かない書は書でないとかとなれば、禅僧の遺偈には書いている途中で死に、文章が終わっているものがある。完結しない自由さと言えばいいか、本来人間はいつ死んでもおかしくなく、完成はあり得ないとの考えに立てば、最後の一筆を書かない未完の書の魅力もあり得る。それは単なる思いつきかもしれないが、デフォルメし、極太筆で書く墨象も思いつきとは言える。それに不自由さの中でこそ自由が得られるとの考えは、保守的で未知への冒険の度合いは少ない。吉原治良が前衛書に対して言いたかったことはその点であろう。次に、「森田子龍との対話」の前にある「日本の書道の今日的問題」から引く。「現代書道が、如何なる現実の社会的背景の中にあるのかを、われわれは理解して居るだろうか。「絵画」と「書」との間の例の等価値性に対する多くのヨーロッパ人の理論的幻惑が、日本の芸術の一寸神秘的でそして少なくともアルカイックな視野の上に置かれて居るのではないだろうか。そのことについてモリタは別の場所で、そこのことを遺憾としながらも、これら二つの歴史は明治以来決して分かたれなかったことを想起させて居る。逆に明治時代以前に日本の芸術家達によって、西洋の絵画に対してそれらを自然を取り戻し「真実をなす」唯一のものとしてなされた賞讃が、誤った理論上の基礎をもち、慣例的な特徴の体系という点で、絵画のイメージを無視したことを否定できようか。われわれには二つの意味で、誇張と秘密との相補うメカニズムなくしては「文化の同化」は過去に於いても、現在においても成功しない様に思われる。…」「誇張と秘密との相補うメカニズム」は直訳過ぎるが、「よく知られないことを公にする行為」の意味であろう。ともかく東西文化の交流は積極的に出版し、また展覧会を開くことだ。
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