「
樫の木の 欠片を撫でて 仏かな 円き空には 雲ひとつ浮く」、「美しき 女(ひと)に見惚れて 目はグリに 幼児に会い 目を細め」、「七夕に 駆け落ちしたる 星ふたつ 古希を迎えて 昔語りに」、「体温を 超える部屋にて キー叩く ケイト・ブッシュの 叫び歌聞きつ」
今日は信楽がらみで投稿。先月10日、家内と阪急の石橋駅に行き、そこから西国街道を東へと歩いた。もちろん本ブログへの投稿が目的で、カメラを持参した。その記録媒体はもうとっくに製造が終わったはずのスマート・メディアで、また撮ったまま保存している写真が2,30枚あって、常に残りは30枚ほどしか撮れない状態になっている。ほとんど昔のフィルム・カメラの感覚で、これぞと思ったものだけを撮る。もちろん撮って数日以内に投稿用に加工するし、そういう準備を整えたうえで西国街道を歩いた。フィルム・カメラであれば撮った枚数がわかるが、筆者のデジカメはその機能がない。あるいは筆者が確認の仕方を知らないだけかもしれない。ともかく、街道を歩きながら、撮るべきかやめておくべきかと判断に迷うことがしばしばあるが、4月28日に同じ西国街道の別の地域を歩いた時、これで今日はもういいと思ってシャッターを押したところ、ピーと音がして、記録媒体の残り枚数がなくなったことがわかった。先月10日はそうならず、まだ何枚か撮影出来る状態で帰路につき、あれやこれやを撮っておくべきであったと後悔した。二度と同じその道を歩くことはないからだ。しかし便利なものがある。グーグル・マップのストリート・ヴューだ。先月10日から数日後、撮らずに終わったそれら気になるものをストリート・ヴューで確認すると、思いのほか、はっきりと確認出来た。早速部分的に、つまり筆者の気に入る構図で画像を加工した。今日はその1枚をまず載せる。欲を言えばこの画像の陶製の蛙の置物がもっと鮮明で大きく見えればいいが、ストリート・ヴューの撮影車は数十メートル間隔で撮影するので、誰もが目当てのものがパソコン画面にまともに大きく映ることはない。やはり自分のカメラで撮っておくべきであった。この蛙の置物は箕面市内にあって、付近は高級住宅地域だ。蛙の置物は道路際の石柱の上に接着剤なしで置かれているだけと思うが、ならば道行く人は簡単に盗める。そう考えるのは筆者が下司であるからで、いかに道路際とはいえ、盗む人は高級住宅地にはまずいない。この蛙を見かけたとき、目玉が逆U字型で、しばし立ち止まって楽しい気分になった。同様のものを買ってもわが家の玄関前は置き場所に困るが、いずれは同じものかもう少し小型を買いたい気もある。早速ネットで調べると、信楽焼であった。幅18、高さ21、高さ12センチならば送料込み、税別で5100円だ。箕面で見かけたものは幅25センチはあったので、1万円では買えないはずだ。
わが家の玄関前には信楽の狸の置物がある。10数年前に知り合いからいただいた。その人は信楽の窯元に親類があって、知り合った人にはよく信楽の置物をプレゼントしている。信楽と言えば狸だが、それは全国津々浦々に行きわたったので、窯元は時代に応じて新しいキャラクターを考案せねばならない。それで同じ狸でも古風な顔つきのものとは別に、子どもが喜ぶアニメっぽい顔や姿のものがある。またいつの頃からか、蛙も登場した。箕面で見かけた蛙は一見信楽には見えないが、それほどに斬新さがある。ネットでは同じ形で目が黒丸の、すなわち笑っていないものもあるが、箕面のものがそのタイプであれば筆者は立ち止まらなかった。ということは笑っている目が好きなのだ。実際の蛙は逆U字型の目をしないが、今は漫画、アニメがあらゆる分野に浸透し、笑みを誘うものが喜ばれる。それだけ時代がギスギスして来たことを反映しているのかもしれない。玄関前に逆U字型の目をした蛙の置物があれば、勤めから帰って来た父親は気分が和むだろう。他愛ないと言えばそうだが、誰しも他愛ないものに癒された気分になるし、実際に癒される。犬猫のペットが大ブームになっていることも結局のところ人間とは違って動物が裏切らないからで、人間は信頼のおける存在を必要とする。筆者はメダカ以外に動物を飼った経験がなく、癒しはもっぱら音楽や美術などに頼っている。それらは死なないが、夢中になってもやがて忘れることはある。筆者が笑う蛙に惹かれるのは、伏見人形を一時期たくさん買い集めたことと同じ心理で、やはり癒しを求めてのことだが、それ以上に作者の造形感覚に惚れたことが最大の理由だ。昔からいかにも信楽焼きの色と肌触りの蛙の置物が種々焼かれていて、親蛙の背に子蛙が乗ったものを誰しも見たことがあるだろう。それらの蛙は目が黒くて笑っていない。蛙の体躯に滑稽味があるので、目玉まで笑わせる必要を思わなかったのだろう。つまり箕面で見かけた蛙の見どころは、逆U字型の目元で、それを売りにすることを思いついた窯元のデザイナーはなかなか時流に敏感だ。だが、同じ逆U字型の目元は先例が日本の仮面にある。家内の実家には奈良の一刀彫りの黒色尉の面が昔から同じ場所に懸けられ、その目元も頬も口元も笑っている。しかし全体が真っ黒で、その笑いはどこか不気味だ。小さな子どもが間近で見ると泣き出すかもしれない。その点、信楽のこの蛙は実に微笑ましい。筆者はもうとっくに爺になっているので、小さな子ども見かけると自然に頬が緩み、目元が逆U字になるが、作り笑顔ではなしに、本当に心から相手に笑顔で接するならば、お互い気分がよくなるのではないだろうか。黒色尉や白色尉の仮面は昔からそういう人のあり方、つまり高齢になればもう立腹せずに、どんなことでも大目に見るべしとの教えだ。
さて、コロナ禍下でもMIHO MUSEUMでは企画展が開催され続け、春夏秋の企画展初日の前日に開かれる内覧会の案内状は相変わらず届き続けたものの、京都駅八条口から出ていた送迎バスが用意されなくなった。ところが先日届いた封書には、コロナ以前と同様、送迎バスに関する文書が入っていた。これまで美術に関心のある人をよく内覧会に誘って来たので、今回一昨日の5日は美大生のKさんを誘うことにした。筆者ら老人夫婦に付随するのでは面白くないはずだが、一度は見ておいて損のない美術館なので、思い切って声をかけた。数日後に同行を再確認すると、予定があって行けないと言う。それで家内とふたりで出かけた。バスも美術館も何もかもコロナ前と同じで、展覧会の展示以外に目新しいものはないも同然であったが、今回は往復ともバスの最前列に並んで座り、車窓の風景が少々違った。そして新名神の高速を信楽で降りる時、左手のゲート際に大小の狸や蛙、それにフクロウの置物の列が一瞬見えた。「信楽へようこそ」と種々の人気動物が歓迎している形だが、箕面で見かけた笑顔の蛙はいなかった。展示を見た後、美術館のレストランでとてもおいしいコーヒーを飲み、帰りのバスを待つ間に今後は食事をした。そこで撮った写真が今日の2,3枚目だ。上は家内、下がそれより安価な筆者の注文で、どちらにも豆腐がついていて、この説明をウェイターから受けたが、確かにとても濃厚でおいしかった。どういう話の流れであったか忘れたが、帰宅して家内がおもむろにかつての内覧会でとびきりの美人がいたことを話した。一瞬筆者は何のことはわからなかったが、すぐに記憶は蘇った。10年ほど前か、二、三度、美術館の玄関ホールで毎回内覧会で開催される講演会の関係者として、背が高く、知的な雰囲気のお洒落な40代半ばの女性がいた。彼女の素性をもちろん知らないが、あまりに美しく、また芸能人にはあり得ない清潔さを漂わせ、周囲の空気を全部集めて濃厚な磁場を本人を中心に形成していた。そのことを家内に小声で伝えると同感だと頷いた。そして筆者は忘れていたのに、家内はよく覚えていた。顔立ちはおおよそ覚えているが、それよりも彼女のオーラが絶品という言葉しか思いつかないほどに印象深かった。以前に書いたが、そういう美人の隣りにどういう男性がふさわしいのか、筆者には想像出来ない。しかしそういう美女とは近づきになれないのがよく、盗み見して恐れ多い感覚を味わったことのみで充分だ。それで筆者はとっくに忘れていた。家内が覚えていたのは、女性から見ても筆者の意見に同意出来たからだろう。そう言えばその女性は目元をしばしば逆U字型にした。箕面で見かけた蛙は、その優しく微笑む美しい女性とは全く違うものの、笑っているのがよい。今日の冒頭の歌に書いたように、七夕は昔家内がひとり家を出て筆者と駆け落ちした記念の日だ。
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