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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱11月2日(土)、京都大宮高辻Live & Salon『夜想』にて👻👻『ザッパロウィン24』午後4時15分開場、5時開演。前売り3500円👽筆者の語りあり。

●『美術との出会いがきっと楽しくなる所蔵作品基礎知識 京都国立近代美術館ガイドブック』
域を 広げて知るや 楽しみを 教育と知り 老いて頑迷」、「名前負け すると知りつつ 親馬鹿の 優しき思い みなに笑われ」、「教科書を 一冊残し みんな捨て 吾選びしは 世界の美術」、「偏りの あること悟る 幼児は 公平唱う 大人信じず」
●『美術との出会いがきっと楽しくなる所蔵作品基礎知識 京都国立近代美術館ガイドブック』_b0419387_00165404.jpg
裏庭に小型の物置がふたつある。そのひとつを書庫にしている。本を詰め込んだまま長年放置したため、ゴキブリやトカゲの巣窟となり、また天板が腐食して雨水が入り、大部分の本は廃棄するしかない状態になった。先日それを仕分けしていると、京都国立近代美術館が95年3月に4万部印刷した無料のガイドブックを見つけた。裾から数センチが濡れて紙が全部くっついている。それを無理やり剥がしてどうにか読めるようにした。この本を倉庫に入れたのが何年前か記憶にないが、10数年前だろう。表紙に「美術との出会いがきっと楽しくなる 所蔵作品基礎知識」とあって、全64ページ、奥付に初版『ジュニアガイドブック』の改訂版であることを謳う。ジュニアが何歳までを指すのか知らないが、それなりに高度な内容に読み応えがある。巻末に1830年から1980年までの「西洋美術」「洋画」「日本画」を対応させた年表を折り込んであるが、この3つのカテゴリーとは逆順で本文では説明がある。章立てを言えば「日本画」「洋画」「工芸」「写真」「版画」「彫刻」「書」「素描」「西洋美術」だ。これは京都国立近代美術館の所蔵作品を網羅し、おおむねその重要度を表わしていると見てよい。東京国立近代美術館が同様の冊子をジュニア向けに作ったのかどうか知らないが、あっても無料配布であれば古書店に出回らないのではないか。今や京都も東京も外国人観光客が大量に押し寄せ、その百人にひとりくらいは美術館に足を運ぶだろうし、そうであればこの冊子の英訳版があってよい。もう用意されているのかもしれないが、中国語や韓国語版もとなると、印刷費が嵩み、政府はそんなわずかな金を使わないだろう。なにせ美術とはほぼ生涯無縁の人物が政治を司る国だ。金儲けする人が最も美しいと尊敬される。それはさておき、京都と東京の国立近代美術館では所蔵作にかなりの差があるはずだ。本冊子が上記の分類順に図版とともに説明するのは京都らしいが、「工芸」を取り上げて陶磁ばかりで染織がない。京近美は染織作品の展示がある。それは常に数点程度のキモノで、染織は美術とは認識されていないも同然だ。そのことを不当と思う人も少ない。日本の美術館は団体展を中心に今に至っているので、団体に所属したことのない美術家の作品が公的機関に所蔵されることはまずない。筆者は昔は少しの間、団体展に作品を出品したが、門外漢を感じて辞めた。森田子龍が頭角を現わしたのは、作品が目を引いたのは当然として、有名な師に学び、グループを旗揚げし、雑誌を発刊もしたからだ。一匹狼ではおそらく無視された。
●『美術との出会いがきっと楽しくなる所蔵作品基礎知識 京都国立近代美術館ガイドブック』_b0419387_00171121.jpg 本冊子は「工芸」について6ページ費やし、そのすべてが「陶芸」に充てる。京都は芸術的染織の長い歴史を誇り、また生産地の本場であり続けているのに、国立近代美術家が作った本冊子はそれを無視する。その事実からして東京近美が同様の冊子を作っているとしても、染織は取り上げられていないはずだ。言うなれば染織はあまりに芸術的に狭くて小さな世界であって、また糊型染めやローケツの染色家が優勢を誇り、彼らは友禅染を問題視せず、芸術とみなさない。となれば、取るに足らない染織工芸のさらに取るに足らない染色の、最も伝統の長さを誇る友禅染に携わる筆者は、全工程をひとりでこなす正真正銘の作家を自任してはいるが、「取るに足らない」を3乗か4乗したミジンコ並みの存在だ。そういう筆者がこのブログで美術展の感想などを好き勝手書くことはまことにおこがましい限りだが、目立った人は誰も読まず、誰からも文句は言われないから、全然気にはしていない。話を戻して、本冊子はジュニア向けの解説書として、偏りがなるべくないように心がけられたはずだが、「工芸」を「陶磁」に限るのは、やはり誤解を与える。人生はごくわずかなきっかけで大きく変化するから、たとえば本冊子に面白い染織作品の図版があれば、それに注目してその業界で仕事をしたいと思うジュニアは必ず輩出するだろう。ましてや京都では産業として染織がきわめて重要であった。それを無視して本冊子が染織を無視することは偏見が強すぎる。人間が編集するのであるから内容の偏りはある程度仕方がない。編集者に染織の理解者が混じっていなかったのだろう。京都観光に来た外国人が日本のキモノやその歴史に興味を持ち、中には実際に自分で染めたいと考える手先の器用な人はいるだろう。彼らが本冊子を手にした時、染織ないし染色の作家なるものが京都にいないのか、いればどこで作品が見られるのかと不思議がらないか。京都に文化庁が来たとはいえ、そういうことに無関心で、芸術に無縁どころか蔑んでいるお偉方たちがたぶん立派な部屋でふんぞり返っている。話を戻して、ミジンコ並みの芸術家的筆者は半世紀ほど誰にも負けないと自負するほどに展覧会を貪欲に見続け、美術本も大量に所有する。そこで思うことは、有名な画家たちはどれほどの空前の努力を続け、また膨大な知識を持っているのかという恐れ多い想像だ。筆者の書くことは全くのジュニア並みだが、大人向けに美術論をいつ何時でも無限に話したり書いたり出来る人は、京都に1万人はいるはずだ。そうした人たちの頂点にいるべき人が本冊子の編集に携わり、「工芸」に「染織」を含めないのであるから、筆者はますます小さく恥じ入る。では染織工芸家が立派な作品を提示すれば彼らは認めるか。これまで充分に染織家はそれをして来たにもかかわらず、「染織」は芸術とはみなされない。そう思って筆者は昔本冊子を水漏れする倉庫に入れた。
●『美術との出会いがきっと楽しくなる所蔵作品基礎知識 京都国立近代美術館ガイドブック』_b0419387_00172515.jpg 正直なところ、筆者は染織や染色がどうみなされてもよい。それに染織業に携わって作家生活を送れる人は、筆者のように貧困に堪える覚悟があるか、あるいは何代も家柄が続いて家業を誇る場合でしかなく、同じ工芸であれば陶芸に携わるほうがまだ有名になり、金儲けも出来る。その意味で本冊子はジュニアに向けてとても親切だと言える。そこで思い出すのは森田や井上の墨象で、井上が生涯に1000点ほどの作を書き、その裏にその数十数百の反故にした作があったという研究者の意見だ。1000点の数百倍とすれば2、30万点だ。後者とすれば井上の30年に及ぶ書家人生は約1万日として、毎日2,30枚書いた計算だ。これは不可能ではなく、ごく当然に思うが、紙や墨の費用を教師生活で賄えたのかという疑問がある。森田の場合はさらに不思議だ。雑誌『墨美』はとても儲かったとは思えず、どのようにして収入を得ていたのか。やはり作品を高く売ることしかなく、その意味では商才があったのだろう。それがなければ有名にはなれない。有名になって作品が売れるのは、まずは商才があってのことだ。作品が高値で流通するようになると、自然と俗物的大金持ちがその作品をほしがる。ある作家がほぼ無名の頃から目をつけて高く評価する才能は日本には皆無に近いだろう。画家はおしなべて貧しく、その作品を流通させる者たちが金儲け出来る仕組みになっている。抽象画家はなおのことだ。となると墨象の作家もそうかもしれない。さて、本論に入る。本冊子に着目し、この文章を書く気になった理由は、「書」に5ページ費やされることだ。その最初のページに井上有一の「母」の図版が載る。これを今日の2枚目の写真とする。次に3枚目の手島右卿の「烏牛」、そして4枚目の森田の「底」、次がまた井上で、書ではなく、以前に『大きな井上有一展』の投稿時に載せた「作品E」と題する前衛書のような抽象画だ。そして最後に5枚目の写真の長谷川三郎の拓本作品「自然」の図版が挙げられ、それぞれページの上部で目立っているが、本文はこれら5点の図版を説明するものではない。最初のページの最上部に「初めて鑑賞される方のために」と題し、前衛書の出自に関する概説がある。井上と森田に限らない内容で、初心者用のためとされるものの、時を隔てて何度も読み返すべき基本的なことだ。その基本に井上と森田の両者がことさら光が当たっている現状で、それは今後も変わらないと思うが、前衛書を書いてみようとする人はその基礎に戻って井上や森田にはない何かを見つけることは可能だ。そうしなければならず、井上と森田の陰に隠れてさほど評価されない作家の作品を、独自に発掘して吟味する必要性を忘れてはならない。井上や森田の作品にしても、昭和時代の前衛書という文脈に固定してしまうのではなく、彼らの書が将来古典とみなされるには書の可能性を探って行く作家が育たねばならない。
●『美術との出会いがきっと楽しくなる所蔵作品基礎知識 京都国立近代美術館ガイドブック』_b0419387_00174042.jpg 長谷川三郎の「自然」はマックス・エルンストが得意としたフロッタージュを思わせるが、東洋には拓本の技術があり、長谷川は日本的なものを意識したであろう。それはともかく、本冊子が長谷川の作品を「書」の最後に掲げるのは、墨象との縁を考えてのことだが、「洋画」の最後に見開き両ページで吉原治良と白髪一雄の作品が左右に取り上げられることに比べると、扱いに困るという編集者の意識が見え透く。限られた紙面であり、図版はなるべく1ページに1点でしかも大きくという考えに立てば、吉原や白髪の代表作に比べると長谷川は地味だ。言葉を変えればスター性に劣る。華がないと言ってもいいが、もちろんそのことと個人がどの作家を好むかは別問題で、ジュニア向けの本冊子に取り上げられないからあまり意味がないとは全く言えない。この冊子での評価は95年における、しかも偏りのあるもので、それはいつでも変化する可能性を持っている。さて、筆者が自分で描くこと以外に美術の歴史に関心を抱いたのは、今日の最初の写真に掲げた『時代別 美術の世界』の日本編と西洋編の2冊だ。定価80円で、これを中学生の時に美術のF先生が全員に副教科書として購入させた。筆者は教科書の全部を処分しながら、この2冊を今も持っている。しかもその全内容を充分に咀嚼したとは言えず、先に書いたミジンコ並みは本当にそのとおりだ。この40ページの小冊子は現在もある大阪市住吉区の秀学社が発行した。大人になってから筆者は何度かこの冊子を編集した同社の人たちのことを想像する。この2冊がその後の筆者の人生を定めたとまでは言わないが、筆者は死ぬまで大事にする。そのことをまた思うと、たぶん当時の中学生で現在もこの冊子を大事に所有し、たまにページを開く者はごくわずかであろう。おおげさに言えば、そのごくわずかな者のために秀学社の社員たちはこの冊子を出版した。それで筆者は誰が読むかわからないこのブログを20年も続けているが、筆者の知らないところで感心する人がいても、筆者にそのことはわからない。しかしそれでいいと思うし、その覚悟がなければ本当にいい仕事は出来ないだろう。とはいえ、筆者はこのブログをいい仕事であるとは全く己惚れていない。話を戻すと、中学生の筆者にとってこの40ページの2冊は長くて広い美術の歴史と世界を垣間見る小さな、そして文字どおり教科書的な役割を果たした。中学生になってすぐか、筆者は美術全集がほしくて母にねだり、一緒に百貨店の本売り場に出かけたことがあった。美術に対する知識がとても旺盛であったのに、残ながら当時の中学校の図書館に美術本はなく、またわが家は生活保護にかかる貧しさであった。それで仕方なしにこの2冊を何度も繙き、特に29ページのムンクの「叫び」や32ページに載るキリコやダリ、タンギーらの作品図版に見入ったし、今見つめていると涙が出そうになる。
●『美術との出会いがきっと楽しくなる所蔵作品基礎知識 京都国立近代美術館ガイドブック』_b0419387_00175491.jpg この2冊は版を重ねてその後も学校で販売されたであろうか。あるいは印刷技術がさらに発達し、「美術の世界」を紹介するもっと厚い副教科書が作られているか。それとも塾に通ってテストでいい成績を取るのに必死となって、義務教育では美術や音楽の授業時間は削られ、「美術の世界」を知ることなど、無駄なことだと先生も生徒も思っているか。そうだとすれば日本は経済的に豊かになりはしたが、精神が貧しくなった。元来経済的貧困は精神的なそれと比例していると考える人があるが、それは想像力が欠如した真の馬鹿だ。そう言えば、筆者が中学生になる前に母の知り合いのある金持ちの娘が油彩画を個人的に学びに通っていた。一度だけしばし話すことがあったが、筆者と同じ年齢の彼女は筆者のことを鼻にもかけず、『ふん! 貧乏人のくせに。何が美術好きだ!』といった顔つきであった。金の力を見せつけられたのはその時ばかりではないし、また彼女は不細工な顔をして頭もよくは見えなかったので何も気にはならなかった。10歳くらいで人生の現実を知るもので、大人になっても自分以外のすべての大人は子ども時代にどういう子であったかを想像して納得出来るもので、先に書いたように俗物中の俗物が世の中を支配し、偉そうにすることをますます自覚することになる。そういうことを思うたびに筆者は『時代別 美術の世界』の西洋編を開き、巨匠の絵画の小さな図版に見入る。これが先の油絵女であれば、たぶん両親は分厚い美術全集を買い与えたであろうが、ろくでもない人間ならばその全集を二三度開いて埃まみれにする。必要とする者の手には届かず、どうでもいい人間に贅沢なものが集まる。とはいえ、ごくごくわずかな手がかりで夢に向かって進むしかない。筆者にとってそれはほとんど60年前に手にした『時代別 美術の世界』だ。さて、その日本編に書や墨象についての記述は全くない。東京オリンピック開催の1960年代半ば、森田や井上は代表作を書き、前衛書道は知られていた。しかし中学生に向けての本としては、日本画や洋画に比べてそれは取り上げることもないと目された。そう言えば具体美術への言及もなく、本の末尾の年表でも触れられない。まだ最先端の芸術で、教科書に載せるのは時期尚早と考えられたとしてもそれは理解出来る。余談だが、その「日本編」には1ページの半分大、つまり江戸時代の工芸の代表作として、有名な「熨斗模様友禅振袖」の原色図版が載る。このキモノを知らない人はないと思うが、筆者より後の世代は美術で図版とともに教えられないかもしれない。それはともかく、こうした薄い冊子では偏りのないことは不可能だが、『時代別 美術の世界』の2冊は中身がこれ以上はないほどに選ばれ、凝縮されている。その点、今日の題名の無料冊子は偏りがひどい箇所のその理由を詮索する楽しみがある。
●『美術との出会いがきっと楽しくなる所蔵作品基礎知識 京都国立近代美術館ガイドブック』_b0419387_00180892.jpg

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by uuuzen | 2024-02-20 23:59 | ●本当の当たり本
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