「
恣意的を 言葉正しく 使用せず ほしいまま生き 意に介されず」、「文字を書く 機会激減 ネット時代 書の美忘れて 事大主義増し」、「画家と書家 龍子と子龍 銅鑼がゴン ゲオルギウスと 永遠に戦い」、「美を知らぬ 幼児可愛 誰も知る 美を意識しつ それを忘れよ」
昨日、家内と兵庫県立美術館で最終日の『安井仲治展』を見た。横尾忠則美術館のホールで開催される461モンブランの演奏会が気になり、最後の2部屋をじっくり見終えないまま、山手に向かって急いで歩いた。ぎりぎり間に合い、ほぼ満席の最後尾に座って鑑賞した。同美術館で開催中の企画展のチケットを2枚持っていたが、次に行くべき場所があってホールを後にした。『安井仲治展』で気づいたが、スーラージュと森田子龍の二人展が来月中旬から同館で開催されるとのチラシを見かけた。それは白黒のコピーで、本物はまだ届いていないらしく、チラシ・コーナーになかった。森田子龍の作品をまとめて見る機会が予定されていたことを全く知らなかった。
『森田子龍と「墨美」』展を見たのは92年5月30日だ。それから32年経った。森田の作品を初めて見る人のためにはこのように30年ほどごとに回顧展が開催されてよい。しかしそれも人気があってのことか。あるいは兵庫県立美術館は巨大なので、壁面を埋めるために企画展を多く開催する必要があって、30年ぶりといった回顧展は必要なのだろう。近年、同館はしばしば漫画家の大規模展を開いている。漫画やアニメに全く関心のない時代遅れの、言い換えれば老境の筆者はそれらを見るつもりは毛頭ないが、税金で運営する美術館は玄人好みの渋い内容の企画展ばかりでは経営が難しい。漫画やアニメなら若者を大動員出来る。今は日本中の美術館がそうした作家の展覧会を開催しようと競っているのかもしれない。美術館が漫画やアニメの展覧会を頻繁に開催すれば、それが日本を代表する美術と目され、さらに別の美術館が展覧会を開こうとする。そうして作家の名声は揺るぎないものになって行くが、将来は何の保証もなく、きれいさっぱり忘れられて、未来は未来なりの有名作家が大手を振る。生きている者は圧倒的に死者より強いからだ。死者は作品のみで評価されるとして、その評価が正しいかどうかを証明する何かがあるのではない。結局のところ、芸術は食べ物と同じで、個人が好悪によって評価する。それは民主主義ゆえのよさで、美術館は評価の定まっていないものにはどれほどの客の動員が見込めるかで企画展の内容を決め、いわゆる「ひとりよがり」すなわち世間で名をほとんど知られない芸術家に関しては積極的に調べず、また調べようもなく、彼らの作品は展覧会の企画会議の俎上に載ることもあり得ない。そして人生はあまりに短いので、美術館巡りを趣味とする人であっても、ごくわずかな芸術家の作品にしか触れ得ず、またそのことを通じて自己の好悪を決める。
筆者は森田子龍にこだわっているようだが、それは絵とは違って誰でも、あるいはかなりの悪筆でも、箒のような極太筆で一気に書くとたまには芸術に見える書が出来上がると想像するからだ。森田は精神論を前面に押し出して素人の悪筆と比べられることを許さないが、修行を重ねる禅僧と違う書家が精神論を振りかすといささか鼻白む。手による仕事ことはすべて常人が及ぶべくもない練習を重ねることが最大の重要事だ。そういう経験も考えもない者が、気まぐれに真似事をしても、森田らのような前衛書道家に比肩する作は生まれるはずがないとは思う。ただしそれを突き詰めると問題が浮かんで来る。井上有一の作品数は1000に満たず、その何十何百倍の反故作があったとされる。何十と何百とでは10倍の差があるので、人前に出せる作の陰にどれほどの没作品を書いたかという話は、現存作の価値を高める方便に思える。それは井上の作がどれも一瞬で書かれたもので、没作との比較をせねば美意識が見えて来ないからだ。墨象が窯の中で釉薬がどう反応するかわからない偶然が支配する陶芸と同じようなものであったとして、森田らと墨人会を結成する以前、上田桑鳩に就いて古典の臨書を10年続けた井上の墨象作品へと変更するその美意識の変化が、筆者にはわからない。井上は陶芸家が器のごくわずかな歪みや釉薬の予想外の垂れが気に入らないことと同じ考えで大量の書を没にしたのだろうが、一瞬の動きの痕跡を留める墨象作品は作者の気分によってよしあしが決まることが大ではないのか。形が整った美という概念を捨てることが肝心であることはわかるし、墨象の美という基準を森田や井上の作品が提示しているとして、その厳密性がどこまで作者が持っていたのかについては疑問に感じる。筆者が「風風の湯」の湯気で曇った大ガラスに直径1.5メートルほどの円を描く話を以前に何度か書いたが、満足の行く円は描けた試しはない。その伝でいえば井上が大量の失敗作を書いたことは当然だが、その反面、筆者が正円により近いことを目指して描いていることとは違って、井上は最初から大いにデフォルメしている。そのデフォルメ具合が成功作と没作品でどれほどの差があるかを知りたいのだ。そもそも漢字一字のデフォルメは失敗を言い訳出来る技法と言ってよく、成功と失敗のデフォルメの境界が奈辺にあったのかは、現存のいわゆる成功作からは全く見えない。ところで、大量の作品が伝わる仙厓には同じ画題の作品が多い。それらは仙厓が書いたものをめったに没にしなかったからだろう。そこに仙厓の卓抜な技術よりも正直さを思う。元来仙厓の作品は素人には出来の悪い作の典型に見えるが、じっくり眺めると出来の悪さにこだわらないおおらかさが伝わる。したがって井上が1000に満たない作品の陰に数十数百の没作の山を築いた理由がわからず、その意見がさまざまな意味で信じられない。
森田も発表する大作を得るのにその数十数百倍の作を没にしたであろうか。想像するに、普段は半紙で練習し、本番の大きな画面に挑んだのではないか。つまり、小さく何度も書いて筆の動きを確かなものにし、充分にこなれたところで大きな紙に拡大して書いたのだろう。四曲や八曲屏風に書くことはやり直しが利かず、半紙に書く時の何倍も緊張したはずだが、ではなぜ半紙に書いてそれを作品にしなかったのか。それに半紙に書いて手慣れ、型として仕上がった漢字の一字ないし数文字を大画面に書く行為は、大きな緊張を強いるとはいえ、出来上がった画面の本質は半紙の作と大差ない気がする。漢字は記号であるから、数ミリ角で書くことと全紙いっぱいに書くことでは本質は変わらないが、指先のみを動かすことと全身を使って書くこととでは差があり、大きな紙に大きく書くほどに舞踊に似て作品の持ち味のよさが出ると森田は言うのだろう。それは迫力に重きを置く美だが、迫力のあるものほど美しいとは言えない。命の瞬間的発露を人生の頂点とみなし、そこでこそ芸術が生まれ得るというのは、かなり男性的考えで、精力を蓄え、それを一気に射精する行為を筆者は連想するが、その射精によって卵子が受精し、10か月ほど要して玉のような子を産む、すなわち新たな命としての芸術的作品の出現はまた別のことで、蓄えた精力の発射はそれだけではただの力の誇示となって、物足りない気にさせられる。一瞬で書いた偶然が作用する即興的で膨大な作からごくわずかな優品を自ら選ぶ行為に、曖昧さや嘘が混じらないはずはなく、結局それこそ「ひとりよがり」の美の判断ではないか。言い換えれば、常識的な美の歴史からはみ出たものであるだけに、作品そのものより、作者の特異な生き方に価値が置かれやすい。筆者は珠玉の芸術を生み出すには練習は当然として、制作そのものの歳月を要するという考えに立つ。書にそれがないかと言えば、一文字ずつ区切って端正に書こうとする経文は好例だ。しかしそういう伝統的な書にがんじがらめになっている状況を打破するために墨象が興った。そこにはやむにやまれない書家の情動があったが、戦後直後はさておき、世の中が安定して来ると、以前に何度も書いたように「はったり臭さ」が忍び込んで来る。それは禅僧にはまるで無縁の、世間で有名になって金も得たいという芸能人的な俗な思いが蔓延するからだが、その思いが強いことと作品の俗物性は別に考えねばならない問題だ。人さまざまで、芸術もそれに応じて多様性を持っている。そして個人は好きか嫌いかで評価を下し、それは無限に存在する芸術作品のわずかな一部を知ってのことであって、ある作品にたまたま感激することはきわめて稀な出会いだ。したがって芸術家はその実に心もとない奇跡を信じて創作する孤独な人種で、作者は命を燃やすつもりで「ひとりよがり」で邁進するしかない。
今日の最初の写真の上は1965年の四曲屏風「龍」、下は66年の八曲屏風の「龍知龍」で、ともに公的機関に収蔵されている。依頼作であったのだろう。屏風代の経費だけでも百万円は下らず、森田がいくら受け取ったのか知らないが、世間では材料を含む諸経費の最低10倍は作者の手取りとされているので、これらの作品も同様に見ていいのではないか。またそれほど高価であるから所蔵者は大切に保管する。2枚目の写真は上が65年の「龍」、下が76年の「龍」だ。これら4点は『森田子龍と「墨美」』展に出品された。「龍」の草書体であることが最もわかりやすいのは76年の作だ。森田らしい筆の擦れや滲みは出ているが、前衛と謳うほどではなく、「龍」の草書そのままでひねりはほとんどない。それが不満と言いたいのではないが、もっとほかの字体を試してもよかったのではないか。だがそれをしなかったのは一瞬で命のほとばしりを表現したからで、楷書でゆっくり書くことは全く念頭になかった。草書はそれなに昇華された形で、デフォルメしようとすれば、森田のように極太筆を使うか、それによって墨の偶然のほとばしりを見せどころとして提示することくらいしか方法がない。65、66年の作では同じ草書でありながら、よほどそれに詳しい人でなければどういう漢字を書いたかは判断に苦しむ。筆者はその部類で、76年の「龍」を見て「まともな草書で読める」と思ったことから、同じく「龍」の題名がつく65,66年の作の崩し方がわかった。だがそこに草書に留まること以外の別の思いがなかったのか。というのはこれら4作の「龍」はどれも「点」がふたつあって、それらが龍の目ないし、月と太陽に見えなくもないからだ。「龍」の草書は最初の一画が点で、最後も点に終わるのが普通だが、ふたつ目の点を書かない場合もある。森田はこのふたつの点にこだわった。65,66年の作では点以外の筆の流れは、「龍」の草書には見えにくい。森田が絵画の龍に全く惑わされずにこれら4点を書いたことはあり得ない。「子龍」と名乗った理由は後述するが、「龍」のように勇壮かつ孤高でありたいと思い、龍を描いた特定の作品に心酔しないまでも、龍を想い続けて生き、書いたことは確かなはずだ。筆者は龍に特別な思い入れは全くない。しかしあえて「龍」の漢字を使って何か表現するとなれば、草書ではなく、甲骨文や篆文などのもっと古い字形に遡りたい。それらは古代人が空想した龍の姿で、絵画的だ。森田はそのことを知りながら草書体を選ぶしかなかった。一連の筆の動きを一瞬で書くには草書しかないからだ。しかし象形文字は絵が元になっているからには、書き順は定まっておらず、草書や行書が生まれた理由は少しでも速く書く効率を考えてのことだ。その書く速度に森田の言うように命や生き方の美しさ云々の思想はなかった。
3枚目の写真は以前取り上げたアレシンスキーの著作
『自在の輪』に載る中国系アメリカ人画家ウォレス・チャンの1957年の作で、同書には題名はないが、これが「龍」の漢字であることは確かだ。チャンはその草書体をより絵画的な筆の流れでまとめ、筆の起点に戻って龍の頭部を書き加えている。アレシンスキーはこの書を見て流れる筆使いに羨望の眼差しを抱いた。手品のように見えたのだ。しかし漢字を知る者からすればこの絵画的書の作品は驚くに当たらない。「龍」の文字はこの作品のように龍を想像したもので、森田の先の4作よりもこのチャンの作品が漢字を知らない人にもっと龍であることをわかりやすく伝えると思える。だが、書の領域外に出ようとせず、いわゆる一筆書きにこだわった森田であるから、龍の豊富な篆書体に熟知していても草書に限るしかなかった。「龍」の数多い篆書体はネットで検索出来るが、著作権の問題もあってここではそれらを引用せず、代わりに篆書体の字引として数年前に購入した、江戸時代の宝暦戌寅(1758年)に細井廣澤が著した『萬象千字文』から引く。それが今日の4枚目の写真で、あまりに多様な形に驚く。これらはどれも草書のように一筆では書けず、森田は広く知られる草書体をあまりデフォルメせずに書いた。だが、四曲や八曲の横長が誇張された画面では漢字を横に広げるしかない。それでも八曲ではあまりに余白が生じるので、「龍知龍」の3字とし、リズムを考慮して左右の龍は大小をつけた。大きな龍と小さな龍のどちらを森田は自らになぞらえたのかわからないが、「子龍」の雅号からすれば、右側の小さな「龍」が自己となるだろう。しかし他の3作と同じ字形となれば、左側の大きな「龍」が森田自身を意味していることになる。いずれにしても、「龍知龍」は、偉大な者には偉大な者がわかるという意味を込めたはずで、この3字を書いた作品を喜ぶ人は多いに違いない。しかし西洋のキリスト教圏では昔から龍は聖人によって殺される図像が繰り返し描かれ、吉祥のイメージはないように思う。だが森田は作品を売るために、多くの人が喜ぶ吉祥性を喚起する漢字ばかりを書いたのではない。「死」の一字書もあって、やはりその漢字が喚起させるイメージを表現した。ただしそれは誰にもすぐに納得出来る「死体」のような形で、絵画を意識し過ぎているように筆者は感じる。さりとて森田は絵画の領域に入り込むことを拒否した。絵画的リズムは悩む必要がなく充分に文字を書く行為によって発揮出来ると考えたからで、それは書家を名乗るからには全く正しい。チャンの「龍」は彼が画家であったゆえの作で、彼は絵画に見えながら文字の約束を守る「墨象」には無関心であったろう。アレシンスキーは森田と同じく爆発的な筆致を愛しながら、即興性を重視し、森田のように単純化した凝縮の形象に向かわず、多弁で饒舌とも言える筆使いをする。
さて、『森田子龍と「墨象」』の図録は冒頭に森田による「書・書いて考えて60年」という文章を載せる。原稿用紙42枚ほどの森田の自伝で、これは『墨美』に部分的にも発表されなかったものだろう。至文堂刊『書と墨象 近代の美術28』から17年後の文章で、森田の出自や創作の原点を知るうえでは一読すべきものだ。明治45年生まれとはいえ、明治生まれの人間であって、この文章からは恩義を忘れない真面目な人物像が浮かぶ。「直接に書に結びつくことはない…」と断った前書きの後はまず「恩師」と題する節がある。豊岡の農家生まれの森田は小学校5,6年生の時の担任の吉川先生を最初の恩師として言及する。当時20歳そこそこで、「小学校を出られただけであとはあとは誰にも教わるということはなく、すべて独学で切り拓いて、教師の資格をとられたのだという。…経済的にも誰の世話にもならずに独力で乗り切ってこられたのである。自分は小学校の宿直室に寝泊まりして簡素極まる生活に堪えながら、鳥取県の田舎にひとり住まれているお母さんに孝養を尽くしながら、今はさらに次の受験の勉強に寸暇を惜しんでおられる…。卒業後の進学の問題の授業の後、吉川先生は私を呼んで、自分には沢山の教え子があるが、その中で君に望みをかけている。君は中学校だけは出ておいた方がよいと言って下さった。当時、私の村から中学に行っているものはなかった。当時は余程の資産家でもなければ中学には入れないし、入らない。…私の家は農家だったが、そういう条件からは程遠かった。でも私は無理は承知で毎日毎日両親に頼んで、とにかく中学受験を許してもらった。…吉川先生は、私が中学三年生になった四月には京都帝大に合格され、小学校を退学、京都に出てゆかれた。これには旧制高等学校の卒業資格を得るため、その全科目の試験に合格しなければならぬわけで、国家試験の中でも一番の難関とされる高校にも合格されていたのである。…」この断片的に引いた文章に感動しない人は森田の書の味わいもわからないだろう。筆者も小中と先生に恵まれた方で、ごくわずかな先生の言葉を今もたまに思い出して気分を引き締める。義務教育の教師はまことに幸福かつ最も重要な職業で、10代半ばまでの子どもの将来に大きな影響を及ぼす。もちろんそれは励ましの言葉だ。一学級で40数人の児童、生徒がいた昭和30年代前半、担任の先生が全員平等に贔屓なしに目配りすることは当然として、それでも特に目につき、気がかりな教え子はいるだろう。筆者は学校で一番経済的に貧しかったが、素直で頑固なところを見て、たとえば小学校5,6年生の担任のK先生は、懇談会で母に筆者なことを「天才的な仕事をする素質を持っている。ただしあまりに激越なところがある」と伝えた。母は苦笑していたが、片親育ちで情緒不安定であったのだろう。
森田は生涯忘れ得ぬことを吉川先生から聞いた。それは有名な話で、大人であれば一度はどこかで聞いたことがあろう。「歴史の授業で新井白石が出てきたとき、先生は教科書を離れて白石の少年の日の挿話を話された。それは白石の優れた才能に目をつけていた富豪河村瑞賢が、自分の娘をめあわせかつ学費を負担するから君は存分に学問をして大を成せと援助を申し出た。ところが白石は、小さい蛇がキズを負っていても誰の目にもつかない。…しかしその蛇が大きく成長して龍になって天に昇るときには、そのキズも大きくなって衆人環視の的になる。それは自分には堪えられない。自分は何のキズも負うことなく、無キズの龍のままで天に昇りたい。そして龍となって昇天する自分を仰ぎ見る人々に恥しい思いをしたくない。と瑞賢の親切な申し出を辞退したというのである。その白石少年が他人の親切に甘えず独立独行の精進を覚悟する毅然たる姿は、吉川先生が今正に実践されているところである。…傷つかない龍の話、これは白石の決意と精進のシンボルであり、吉川先生の実践の核でもある。…書を始めるようになって、人並みに雅号をもつようになった時、私がその龍を頂いて、しかし謙そんして、自分は子供の龍にすぎないとして「子龍」と名乗ったのであった。…」因みに日本画家の川端龍子は森田より27歳年長で、「龍子」の雅号は「龍の落とし子」の自覚による。「恩師」に次ぐ節は「神戸と私―ふたりの大恩人―」と題し、「昭和5年3月、私は中学校を卒業した。時の校長、多田徳助先生は、卒業後数ヶ月、本人は独学を期していても外目には学校にも行かず勤めにも出ていないで宙ぶらりんの形でいる私を気遣われたか、私は多田先生に呼び出された。中学校の事務室で勤めてみないか。書記の定員が増して、君のことは県の方にもすでに諒承してくれている。…私はお受けして中学校書記として勤めることになった。…多田先生はその後神戸に出られていた。…森田を山陰に埋もれさせてはいけない。なんとか山の表側に引き出してやらねばと気にかけて下さっていた様である。そして二年余、神戸の三中に推挙して下さり、その三中の緊道英也先生から神戸に来るようにとお手紙を頂いた。…「百遍断られたら百一遍頼め」精神で事に当たったのであった。「墨美」が30年間、301号にわたって一応の使命を果たすことができたのは、正に近藤先生のお教えのたまものであった…。ずっと後、東京の書道界の中で揉まれている中で、かつて近藤先生の徳風慈気の中にいたことが力の源になっている自分を感じていた。…こうして多田先生、近藤先生は、私を神戸に呼び出して新しい世界を与えて下さり、かつそこで私に太くて確かな背骨を打ち込んでくださった。…」この次は「痛苦三昧―痛さと一つになる―」と題して24歳で患った大病について書き、森田の書における精神と肉体のつながりの原点を説く。
「痛苦三昧―痛さと一つになる―」の内容を端的に言えば人生における負の経験から真実をつかみ取ることで、森田の一気に書く墨象作品の根本が大病を経験する中で自ら見出された。転んでもただでは起きないという気概で、どんな経験でも受け入れ、そこから何かを学ぼうとした。次の節「書の美」から引く。「近藤先生、広田博士に助けられて、さしもの病気から生還した私は神戸の書の研究会で出会った上田桑鳩先生にすすめられて上京を決意した。…東京では学生、生徒の書道誌「健筆」の仕事にかかわった後、当時新しい書の中心的な存在だった「書道芸術」の編集に従事した。…昭和19年暮れに疎開の形で郷里豊岡に帰った。雑誌の発行、編集の経験を生かして昭和23年「書の美」を発刊して上田桑鳩一門の機関誌にした。兵庫県の北端、片田舎に居ながらもここが日本の中心だなどと嘨きながら、誌上に発表する作品を書いたり、臨書の参考作品を書き、また展覧会があればその作品も制作する。そして必要があれば文章も書くというように、編集だけでなくすべてを手がけて楽しく仕事をしていた。当時は書の世界そのものが未熟で中心の柱となる書の理論を持っていなかった。…豊岡で書の講習会を開いたり、「書の美」の展覧会を開いたりしているうちに、京大美学の井嶋教授を知るようになった。禅の久松真一博士の名声は高くすでに聞いている。京都には私の求めているものが豊かにある。その魅力に引かれて昭和二十四年四月渡しは「書の美」をひっ提げて京都に出た。…」この後に「結集・交流」と「私がめざしている書―いのちの躍動―」の節が続く。京都在住の筆者であるので、森田が京都のどこに定住したのか気になるが、「墨美社」の発刊元とみなしていいだろう。それは堀川丸太町から一本北の道を西に入った椹木町にあったが、建物が残っているかどうかまではわからない。それはともかく、京都に出てから昭和27年1月5日に同じ上田門下の井上ら5人で「墨人会」を結成し、「今までになかったような大きな筆を特別に注文して造らせ、それに濃墨をたっぷりと含ませて力一杯に書くことを始めた。きちっと行儀よく上手にきれにという心のつかいようは一切かなぐり捨てて、腹の底にたまり込んでいるものを底の底から爆発させるように全心身を打ち込んで書きまくった。…それは戦後、世界が何彼につけて日本に辛くあたってくるのを見つつただ耐えてゆくしかないという現実への反発であり、また小さくは書の世界の旧態依然たる封建体質打破に向かって内に鬱積するものが、時を得て爆じけて散っていたのでもある。後になって振り返ってみると、1950年代前半のこの動きは世界的にも各地に同様のものがあった。昭和60年には国立国際美術館がその激動の全貌を世界的に網羅して「絵画の嵐」展を開催した。私の二点の作品もそこに招待されて時代の生き証人となったのである。…」
89年の
『大きな井上有一展』は井上の作品のみ展示された。4年後の本展は森田の47点以外に第2章「墨人会関係の書家たち」で13点、第3章「同時代の関西の画家たち」で19点、第4章「『墨美』と交流のあった海外の画家たち」で16点の出品で、森田の作品数は全体の5割であった。また図録に図版は掲載されなかったが、92年の森田の新作として、「泉」「渓」「龍」の3点が出品された。その3点の題名を記す別紙に、森田の「在外作品リスト」と題して23点が挙げられ、「龍知龍」の3点、「龍」の2点を含み、森田が最もよく書いた漢字は「龍」であったとみなしてよい。井上の海外における所蔵数はわからないが、森田よりは少ないだろう。本展が上記のように画家の作品を多数取り上げたのは、美術館か森田のどちらの意向が勝ったのかはわからないが、絵画が展示されたことは森田の位置がわかりやすくてよい。森田と深い関係にあった具体美術のほかに、雑誌『墨美』によって特に交流のあったアレシンスキーなど海外の画家たちを紹介したのは、前述の85年の『絵画の嵐』展を引き継ぎ、同展と本展の図録の資料的価値は大きい。その後「具体美術」そのものや「具体」の個々の画家を取り上げる企画展も頻繁に開催されているが、墨象を含むものとなると筆者の知る限り、本展以外にない。来月から開催されるスーラージュと森田の二人展は総花性はなく、そのことは森田やその周囲の書家、画家の作品を概観する教育的観点とも言える展覧会は本展で役割を果たしたという関係者の思いを示すだろう。「具体」に所属した美術家の全員が公の美術館で個人展が開催されておらず、そのことは墨象の書家についても同じで、ある団体で特別に目立って人気を得る者が回顧展開催の名誉に浴し、森田や井上はその代表であった。一方、美術ファンの質はさまざまで、筆者は自分の関心を書くことしか出来ないが、森田や井上に注目することはこのふたりが大きな美術館で名前を冠した展覧会が開催されたことによる。そこでたとえば本展で展示された森田以外の作家の作品図版を改めて見ると、以前はほとんど気にしなかった作品やその人物に関心が芽生える。たとえば長谷川三郎だ。彼が『墨美』のα部の作品選考を依頼されてそれに2年間携わったことは、墨を使う書や水墨画などと西洋絵画、特に抽象画とのつながりを思考させることに役立ったが、なにせ55年に渡米し、2年後に50歳で亡くなったこともあって、作品が紹介される機会は多くない。芸術家は長生きするほどに作品数や作品展示の機会が増し、長老として称えられるので、早世は損と言ってよいが、若死にしても名作を生めば美術史に残る。その点長谷川の立場は微妙で、回顧展があったのかどうか知らないが、森田より6歳年長で東大を出ていて、本展図録に「作品と理論の両面から日本の抽象美術を先導する…」とあることに納得する。
本投稿の段落数に合わせて本展の第3章から作品図版を5点選んだ。まず白髪一雄の61年の「地暴星喪門神」。白いキャンバス上に予め数種の絵具の塊を置き、天井から下げたロープにぶら下がって両足で描いたものだ。体全体を使うところは森田と通ずるところがある。絵具がどこに流れるか正確に予測出来ない点も墨象作品に近い。ただし文字ではなく、描く作業をどこで終えていいかは白髪の判断により、森田にすればそこに絵画の節操のなさがある。次は須田剋太の59年の「作品 1959 a」。幅の太い箆で絵具を引き、書に近く、色彩は別としてスーラージュを思わせる画面となっている。須田は後に雑誌の挿絵を担当して人気画家になり、この油彩画とよく似た雰囲気の書もよく書き、市場で評判がよい。本展図録には53年8月の『墨美』に掲載された須田、中村真、吉原治良、大沢雅林、森田、そして司会の有田光甫による、「文献再録「書と抽象絵画・座談会」」と題する原稿用紙80枚ほどの長文がある。最もよく発言しているのは須田、最も少ないのは森田で、森田は画家たちに囲まれて少し萎縮しているように感じられる。3点目は長谷川の53年の「Non-Fⅰgure」。和紙に墨で描かれた。+の記号はモンドリアンを連想させ、中央の墨の滲んだ塊は墨象風だ。4点目は元永定正の58年の「WUTHOUT WORDS」で、白髪の作品を思わせるところがあるが、アクリル絵具を垂らし、その混じり合いに独特の効果を見せる。後年同様の形を用いながら輪郭が明確になり、かつポップに変貌する。昔何かで書いたが、筆者は大阪市内で元永氏を見かけ、同じ方向にしばし歩いたことがある。彼は歩道橋で見つけた割れ物のゴミを拾い、それを持ったまましばし歩き、それをゴミ箱にきちんと捨てた。彼は10メートルほど後ろを歩く筆者に気づかず、また他に目撃者はいなかった。筆者は大いに感心した。5枚目は吉原治良の52年の「牧歌」で、大小さまざまな矩形が重なり合って散らばる。こういう抽象絵画のどこが面白いのかわからない人は多いだろう。何も考えずに画面に向かってしばし時間を過ごし、そこで何か思いが湧いて来ればそれでよい。元永の先の作品もそうで、そのことは題名が示している。先の座談会からもわかるが、吉原は一点一画の過不足なきことが条件の、そして意味を持つ文字を書く書には否定的であった。そのことを知っている森田は関西の前衛絵画の元締めであった吉原を敬遠したかに見える。それもあって墨象の理論を打ち立てる必要があり、文筆にも勤しんだ。森田の墨象を継いでどれほどの個性を出せるか。イケメンや美女を売り物にして、今はSNSも使って人気書道家になる道は広く用意されている。読むのが面倒な理論など、ほとんど誰も気にしないし、AIに代筆させれば済む。「軽いほど 人気も金も 吸い寄せて 見て見て見てよ わたくしだけを」
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