「
戌年の 彼をつかまえ 犬も飼い 忠誠ほしき 年増の女」、「夕の字を 横にふたつで 多と読めと ひとりよがりを 知らぬは多し」、「漢字では 感じ悪いと 仮名の名を 男児断じて やわきがよしと」、「竹を食べ 折れぬ心の パンダ見て 敵を作らぬ 生き方学び」
昨日取り上げた森田子龍編『書と墨象』について今日は続きを書く。同書の「書と抽象絵画――書の独自性 2」と題する章で森田はカンディンスキーとモンドリアン、そしてジャクソン・ポロックの3名を順に取り上げて彼らの作品と思想を批判する。この章を含むことで森田は他の前衛書家の追随を許さない理論家の相を如実に呈している。それはおおげさに言えば書に端的に表われる西洋に対する東洋の精神性の優位の唱えで、その背後に禅が控えている。森田は禅と書を結びつけ、現代の書がいかにあるべきかの形を自らの作品で示したと言ってよい。それがもっとわかりやすい形で具現化したのが井上有一の作であろうが、井上は森田のように多くの言葉を残さなかった。本書の編集が昭和50年(1975)というひとつの区切りの年になされたこと、またそれが森田に委ねられたことは、前衛書、墨象の世界で森田のように言葉によって思想を強固に武装し、その証拠としての自作を提示する才能があったことによる。昨日書いたように至文堂『近代の美術』、あるいはもっと長年刊行された『日本の美術』はどれも作家が編集を担当しておらず、いわば歴史的に評価が定まった画家や流派について評論家が解説した。本書はその意味では客観性が欠けるとの謗りを受けかねないが、森田は自作の優位性と自信を隠しはしないものの、たとえば絵画に近い篠田桃紅の作品を取り上げて、墨象が置かれる多様性と歴史を他の作家の言葉も大いに引用しながらバランスよく書いている。これは評論家では無理な仕事であった。あるいは墨象を客観的かつ総合的に評論出来る人物がいなかった。それは書の専門誌を森田ら書家たちが発刊していたことにもよる。これは言い換えれば、前衛書を論じる場が評論家にはなかった、あるいはあえてそれをしても収入にならなかったためと考えられる。それほどに華やかな絵画に比べて書の世界は狭い。またそれだけに書家自身が理論を強固にして制作に当たらねば内容の乏しいものになったことが想像される。これはどこまでも意識して制作することであると断じていいかどうかだが、墨象は偶然が大きく支配し、出来上がった作品をいいかそうでないかの判断を書家自ら下す美意識を前提とする。偶然に委ねる部分があることは焼き物と同じで、前衛書家は陶芸家に近い。また偶然性を美が宿る契機として受け入れる態度にはシュルレアリスムに近い美意識があるようにも思う。法帖の臨書はそうした偶然を極力排し、どこまでも原本を忠実の模倣しようと神経を張り巡らせる。それを不自由と捉えるならば、新たな思想と行動が必要となる。
昨日は「書の美しさは、筆・墨・紙で書かれた文字における境涯の美しさ」という言葉を引いた。「境涯」は本書の「書と具象絵画――書の独自性1」の章では別のわかりやすい表現で書かれる。「書は単に文字であるのではなく、いのちの表われ出たかたちであり世界である。いのちの世界、意識のかなたで自己決定した深い意味での生き方、その生き方が生み出したかたちが書である。書は生き方のかたちである。…」つまり「境涯」は「生き方」と言うのだが、この意見に筆者は納得するところと反発するところがある。それは「生き方」という言葉を公言する人を敬遠したいからだ。筆者は人に示し得るほどの自分の生き方はなく、またそこに美があると言う自信もない。凡人はだいたいそうだろう。誰でも生きるのであって、悩みながら時に「生き方」を意識して日々暮らしている。書の美しさが境涯の美しさであるならば、無名あるいはほとんど教養のない人は美しい書が書けないことになる。筆者はそうは思わない。これは何を美しいかという問題につながるので意見を戦わせても話が嚙み合わないだろうが、森田が自信作を公にする時、その作品を美しいとみなしているからだが、その美しさが自身の生き方の美しさから生まれたと主張することは、驕りが見え透かないか。森田はその疑問に対して、美醜を考えずに一気すなわち数秒で書き、結果満足の行く作もあればそうでない作もあると言うだろう。それは当然のことだ。生き方が美しいとして、同じ心持ちの状態で書いたとしても作品に美が宿るとは言い切れない。それで先の段落で森田のような墨象は陶芸に似て、偶然性から逃れられないと書いた。禅僧の書に限らず、伝統的な書は一点一画に書き手の精神が宿る。それは字の下手な現代人でも同じことで、線の肥痩に書き手の精神の動きが表われ、それが鑑賞の対象になる。森田が極太の筆を使い、また一字を大きく書くようになったのは前衛絵画を意識し、また会場に展示して見栄えが劣らないようにするためだ。また森田は全身を動かして書くと言うが、そもそも他者に見せる、また広い会場で展示する必要を思わねば、書かれる文字は全紙は必要でない。ノートの切れ端でも充分で、一字の大きさは6,7ミリ四方に収まる程度で済む。それは指先だけで書いたもので、会場で展示するための作品にはなりにくいが、墨象作品が指先だけではなく、腕を含む全身の動きを必要とするとして、そういう書が唯一美しい書のあり方とは言えない。墨象以外の書は指先で書かれるからだ。指先を動きだけでは芸術的な書になり得ないと言うのは暴論だ。篆刻は座って指先に全神経を集中させる必要があり、墨象的印章作りはあり得ない。森田の墨象作品には古典的手法で彫られた印章が捺される。この矛盾を森田はどう考えていたのか。指を動かすのは頭であり精神であって、それも境涯だ。
これを書きながら北大路魯山人が大本教の出口すみの書を絶賛したことを思い出している。彼女の書は無学文盲が書いたように拙く見えるが、それ以上に稀な個性の美がある。昨日は筆者がかつての3年間に大量に書いた鉛筆書きの手紙としてのいわば日記を、50パーセントに縮小コピーして製本された写真を載せた。その背表紙と表紙に染め抜いた一字は、各年度の最初の1枚の冒頭すなわち「春」「咲」「爺」の漢字をそのまま拡大コピーして下絵として使った。文章は猛烈な速さで綴り、書き直しをせず、美しく書く意識は全くなく、次にどういう方向に話を進めるかに夢中になっていた。それはさておき、6,7ミリ角に収まる大きさの本文の文字を拡大コピーした時、そこに筆跡の個性と納得出来る美があるかどうかに関心があった。そして出来栄えに満足したが、他者から賛辞を得たいために書いたものではなく、また森田のように自己の境涯すなわち生き方が美しければ書も美しくなるといった大げさな考えは毛頭ない。この筆者の言葉が示すように、墨象の作品は美を根底に意識するあまりか、大げさ感が露わになっているように思う。それを以前に「はったり臭い」と書いた。その大げさ感は、芸術を意識し過ぎるからだ。もちろん森田は意識しながら意識しない境地で書かねば美しくならないと語っているが、書は子どもでも書き、日常のメモなどを含めて誰でもあたりまえに書いている。そういう中にあって墨象は大画面でもあって特に芸術を意識している。そのことで作品に美が宿る可能性は高まるとして、意識しなくても自ずと独自の美を宿す場合があるほどに書は間口が広く、奥も深い。つまり万人に広げられている。この考えは前衛書の立場からすれば問題とするに当たらないほどに凡作しか生みえないと反論されそうだが、生き方は人間全員が持っていて、そのどれが美しくてそうでないかは他者にも決められない。書は不思議なもので、人間性を表わし、またその人間性は森田のような書に人生を捧げたような人物でなければ美しいものが書けないという、狭くて小さな存在ではないということだ。世間には優れた人物と目されても、見るに堪えない卑しい書を書く人はいる。またその反対もある。その不思議さこそが書の本質ではないか。本書に何度も出て来る「いのち」や「一つの動き」といった言葉は、森田のこだわった信条はわかるとして、人間は常に緊張して一発勝負的な、すなわち墨象作品のような制作に携わることは無理で、人生の大半は静かで孤独な時間に浸っているし、そういう平凡な状態からも味わい深い書は生まれ得る。森田もそのことは承知で、であるからこそ紙を前にしていざ書こうという時に全神経を結集し得た。ところが墨の想定外の滲みもあって、作品のよしあしは偶然が影響し、またそれがなくても必ずしも納得行く作品ばかりとはならなかった。
わが家の近くの「風風の湯」は浴場に高さ3メートルほど、幅は5メートルほどの大きなガラスが嵌っている。湯舟からは露天風呂が丸見えで、1年の半分ほどはそのガラスが湯気で曇る。筆者はその期間中、ガラスの真ん中部に大きな円を一度だけ描く。素っ裸でのその作業はみっともないので、客がごく少ない時を狙う。円の線は掌の太さがあるので測りがたいが、円の直径は1.5メートルほどだ。円は歪みを含みがちだが、なるべく正円に近づくように一気に書く。1秒かそれ未満の時間だ。左右に同じほどの空きがあるので、本来は3つの円を書くことが出来るが、必ず一回しか書かず、その一度に全神経を集める。それは森田の制作と近いと思っている。書き終わった後は湯舟に浸かってその出来栄えを鑑賞し、よく出来たと感心しながら露店風呂に行って裏側を見ると、表側からはわからない歪みに気づく。そして落胆するが、これまでその円書き作業を何百回と続けながら、満足の行く結果は今後もないことはわかっている。それに満足出来たとして、その「作品」は1,2時間後には湯気で消える。しかしこうして文章にすることで、誰かが同じ作業を同じ場所で試みるかもしれない。それは言葉が影響を及ぼすことであって、文章は読むと映像が再生される便利な道具だ。話は少し逸れる。めったに姿を見ないが、素っ裸で大湯舟や露天風呂の横で剣道の練習をする70代半ばの男性がいる。湯舟の中でゆっくり立ってゆっくり剣を抜き、それを頭上にかざして振り下ろすという一連のエア剣道を何度も繰り返す。昔ゴルフのクラブを振り回す同様の動作が流行って、人が多い中、悠然とその身振りを見せつける男性がよくいた。剣道はそれよりましに見えるかと言えば、そうでもない。筆者には一見知性も常識も平均以上にあるように見えるその男性が馬鹿の代表に見えて仕方ない。となれば筆者の円書き作業もそう見られている可能性は大だが、誰も見ていない時間にさっと書く。剣道男は明らかに自分の静々とした姿に惚れていて、みんなから見られていることを意識しながらそのエア試合の姿を美しいと感じている。何を言いたいかだが、人に見せる行為には必ず自己愛が宿り、そこに美が住むとは決して言えないということだ。責任を持ってこれは他者に見せられる芸術作品であると主張出来る人は、みな自信家だ。また美を作り出す才能があると信じているが、それが鼻につく場合は多々ある。その鼻のつき具合を楽しむことが芸術や芸能鑑賞でもあるが、鼻のつく点を作者が否定して真剣な生き方といった言葉を持ち出すと、なおのこと鼻がつき、「はったり臭さ」を感じることになる。晩年のロジェ・カイヨワが絵画をさっぱり面白くないという思いに至ったのは、絵画から見え透く「はったり臭さ」に辟易したからだろう。しかしそれを合わせ持って名作は生まれる。そして作者が世を去ってから真の名作ぶりが見えて来る。
話の脱線続きで書く。20代後半、染色工房で働いていた時、捺染友禅会社で働いていた若者がいた。筆者より年下だが、出来て間もない工房に半年ほど先に入っていたので先輩格であった。筆者は師匠に就いて手描友禅を2年学んだ後で、いわゆる型友禅の技術を持たなかったが、柿渋を塗った型紙を小型ナイフで彫ることくらいはすぐに出来た。その技術は後に筆者が色紙で切り絵を始めた時に役立ったが、染色工房では実際のところ渋紙を小刀で彫る作業はほとんどしなかった。それはさておき、工房では型友禅の技術で帯やキモノを染めていた。とはいえ、ごく簡単な技術で、ほとんど素人が彫った型紙を使って生地に顔料を擦り込む。器用な子どもならすぐに出来るほどと言ってよく、手描友禅とは技術的難易度は雲泥の差だ。型紙の穴の開いた箇所に樹脂材を混ぜた顔料を擦り込む直前、直径1センチから5センチほどまである丸い刷毛に付着させた顔料を藁半紙になすりつけて色合いを見る。先の先輩が型染め作業を終日していると、色が適当に付着した何枚かの藁半紙が脇に重なる。使い道がないのでゴミ箱行きになるが、中にはとても美しいものがあった。それは彼が絵を描こうという意識はないままに、適当にさまざまな色や筆の線をなすりつけたものに過ぎず、全くの偶然の産物だ。ある時、筆者はその1枚を手に取って彼に言った。「ものすごくきれいや、皺を伸ばしてそのまま額縁に入れたいくらい」。彼は大笑いした。商品として作っている帯よりも棄てる紙の方が美しいとは何事かといった非難も少しはあったかもしれない。しかし筆者にはその無意識で生じた試し色の集まった画面が、作意の集積で作られた帯やキモノの何倍も美しく見えた。手元に1枚残しておけばよかったが、今日の最初の写真は似たものを画像加工ソフトで作った。滲んだ大小の円形を中心としたカラフルな抽象画といった様相で、そこに墨や金銀の細い筆跡が混じることもあった。その無作為による抽象画風落書きにサインを入れて額縁に収めると、他者は作品として見つめるだろう。抽象絵画とはそのように他愛ないものと退けることは出来るし、その伝で言えば墨象作品も同様だ。ノートに鉛筆で小さく「円」と書き、それを何重倍にも拡大すれば展示用作品になるのに、大きな紙を容易して筆を何本も束ねて一気呵成に書くことで時に1000万円の市場価格になる芸術作品と化する。子ども的な考えによればそれは魔法と言うより詐欺に見えるだろう。しかしそれを言えばあらゆる芸術は詐欺のようなものだ。いかに人を幻惑させるか。昔のままに書を書いても模倣の連続でつまらないと思った人たちが墨象を生んだ。そこにはデフォルメが強調され、それが善とされるが、デフォルメは必然性が感じられなければわざとらしさが目立ち、墨象作品はその思いのギリギリのところに立っている。
今日の2枚目の写真左は本書で1ページ大で紹介される。手島右卿の1960年の「燕」だ。これは「燕」の草書体そのもので、手島個人のデフォルメはほとんどない。燕の飛翔の軌跡を念頭に置いて書かれたはずで、森田の一字書のように極太な線ではない。この書を森田風に極太に書けば写真右のようになるが、これを「燕」と題すれば、鑑賞者は燕の逞しい生を想像するだろう。だが手島は細い線で書いた。3枚目の写真の上下2点も手島の作だ。上は48年の「山行詩」、下は57年の「崩壊」で、「燕」同様に絵画的だ。前者はどの漢字もわかりやすくて読める。字に大小をつけず、抑揚もなくてバブル期頃に若い女性に流行った丸文字に近い。下の「崩壊」は「爆弾のすさまじい破壊力、そして無残にもくずれ落ちるコンクリートの建物…」などとペトローザ氏が感じ、熟語の意味を知って驚いたというが、手島は「崩壊」の二字を崩壊を感じさせるように書いたのであって、漢字の読めない外国人が崩壊を感じても驚くに当たらない。漢字の意味を汲み取って絵画的に書くことによって絵画とは違う視覚性を感じさせることに成功した例だが、それは誰でも思いつくことで、謎めきがなく、一度見れば充分という気にさせる。4枚目の上の写真は池田水城の61年の「山」だ。誰でも即座に篆書体の「山」だとわかるし、墨象作品とは言えない気がする。極太の筆を使うことで雄大な山を表現したかったとして、筆者はこの作品の筆跡の中心とその勢いをもっと細い線でなぞってみた。それが下の写真で、これでも充分に「山」の雰囲気はある。それは篆書体の「山」がそもそも山を象った象形文字で、池田のこの作品は漢字を生んだ当時の人々が見ても「山」でしかあり得ず、また同じように太筆で書かれたこともあると想像させる。では次に5枚目の左の写真だ。これは森田の54年の「蒼」で、極太筆で書かれたために文字の隙間がほとんど埋まっている。それだけの面白さと言えば森田は反論するだろうが、先の「山」のように、森田が細筆を使ったとすればどうなったかを右側の写真で示す。これはノート上の6,7ミリ角に収まるような字体であり、森田の普段の書き文字を拡大して極太筆で書けばそのまま作品になり得ることを意味している。なぜ極太筆を使って画面を黒々としたものにする必要があったかは、先の「山」と同じく「蒼」の漢字に宿るイメージを伝えるには隙間が埋まって白地が少ないほうがいいと判断したからだろう。そこには書く前の作為と言ってよい計画性がある。その点は森田のどの作にも言える。極太の筆致の迫力を押し出すことは男っぽいという印象作りにはよい。しかしそれは繊細さに欠けることと表裏一体で、どんな文字でも極太によって、時に判読出来ない状態に書けば芸術になるという誤解を与える。それゆえ模倣されやすく、そのことは森田も充分感じていた。
森田や井上有一の墨象作がその模倣作と違う要因が境涯の美しさであると説明しても、その境涯が普通の人のそれとどう違うのかを説得することは困難ではないか。今日の6枚目の写真はどちらも67年の四曲屏風で、上が「圓」、下が「虎」と題される。黒い紙に金泥かそれに見える顔料で書き、全体に漆を塗って光沢を出したものだ。和紙に墨で書くという書の本来から脱して色を気にした作だが、紺や紫に染めた紙に金泥や銀泥でお経を書くことは昔はよく行なわれたので、森田にすれば絵画を意識した作と言うより、伝統の新たな蘇りとの思いであったろう。漆を全体に塗るのは紙のみでは脆弱であるためだろうが、数秒で書いた後の作品として完成させる時間と費用が何十、何百倍も要している。書は文房四宝という言葉とは切り離せず、森田も「墨象」というからには文房四宝の墨や紙は欠かせないと自覚していたが、墨ではなくエナメルを使う書家はいたし、硯では間に合わず、別の道具を使って大量の墨を用意したかもしれない。さて、「圓」は井上もよく書いた。これはお金の円ではなく、英語では「CIRCLE」と訳される。禅僧がよく書く円相を意識したものではなさそうで、森田は「月」に見えるように書く。「虎」は虎の顔を真正面から捉えたような造形で、先の「燕」と通ずる考えによる。それは遊び心と言ってよいが、漢字をそれが意味するモノに見えるように書くことは子どもが得意とするだろう。何年か前に書いたが、かつて赤瀬川源平は「婆」の文字と女の額の皺が波状になっているイラストと対比させた。となれば「鰯」は細い線によって弱弱しく書けばよいことになり、そうした墨象的作品の面白さは底がきわめて浅いと言わねばならない。つまり森田の「圓」や「虎」は大画面に書くだけの価値があるのかという疑問が湧く。「圓」も「虎」も本来は細い線による、そしてデフォルメしない文字として認識されていたはずで今もそうだが、その文字を個人の芸術とするには、何らかの装飾が必要になる。言い換えれば、墨象の作はどれも本質に何かの装飾を加えたもので、森田や井上の場合は極太の線や墨のおびただしい飛沫、そして時として著しい滲みが絵画的効果として存在する。森田は自作に装飾という、女性っぽい言葉は使わなかったが、細い線で漢字の骨組みのみを鋭さで強調するほうが男っぽく、極太の筆跡の墨象の作はみな装飾の効果によって美を意識している。言い換えれば作為、作意があるということだが、森田はもちろんそれを否定した。その作意はたとえば極端なデフォルメで、筆者は絵画のそれも否定的だ。正確に表現する能力がない場合、歪みを面白さと言うしかない。「圓」や「虎」はそう言われればその漢字に見えるが、森田の「灼熱」や「寒山」など、題名を知らねば決してそうとは読めない作もある。
それはひとりよがりと言われかねないが、書家としては読めないのは鑑賞者の眼力や知識量の不足ゆえであって、文字の約束事を守っていると主張する。あるいは読めずともいいと考える書家もいるだろう。それは絵画の「無題」と同じで、画面から何かを感得出来ればよしとする態度だ。漢字の象形文字は絵を単純化した記号だ。書は記号からその元の意味するものを書く行為で、その点では抽象絵画だ。ただし、漢字に具わる意味に限定した作で、それが書家にとって便利な場合と窮屈な場合がある。それは絵画でも同じことだが、基本的に白地に黒で書く書は、自然界に存在する色彩を考慮しない分、表現しやすい。また制約があることで自由になれるという見方もある。筆が存在しない時代、書は甲骨文字のように小刀のようなもので硬い表面に傷をつけて線描を表わした。そこまで遡れば、森田が本書で何度も言い直す「いのちが直にその動きとなって出てゆく一貫して一回きりの一つの動き」といった言葉は意味をなさない。墨象の激しい書は森田が言うように表現主義的だ。それは戦争の爆撃を経験したことが大きな要因になっているだろう。伝統的書を破壊し、その破壊の瞬発的な境涯に美が宿るとする考えはダダイズムそのものと言ってよいが、線とは言えない面としての極太の筆致による線や点の構成が、元の漢字が読めないほどに歪められても、そこに相変わらず美が宿ると信じることは、自己の生き方に間違いがないと信頼を置いているからだ。その自己への信頼から手応えが得られることはどの分野の作家でも知っているが、「いのちが直に動きとなって」という表現は舞踊家にこそふさわしい。また森田は墨象の制作を身体と意識全体の動きが一致して反映するものであると言い、そうでない芸術を否定する、あるいは書より下位に見る意見は、あまりに硬直していると言いたくなる。至文堂の『近代の美術』全50冊の大半は絵画を取り上げる。そのことを熟知しながら森田は書の優位性を説く。そこから見えることは、森田は絵を描くことを得意としなかったことだ。そうであれば構図の感覚も鈍かったことになるが、墨象作品は大きな紙にそれのみでひとつの宇宙としてまとまった形の漢字をうまく収めることを意識したとはあまり思えない。激しい勢いに注目させられるあまり、余白を含めて全体の均衡感に特に緊張感があるとは言えない気がする。もちろん余白を考慮して一気に書いたが、「蒼」の作品は余白を限りなく狭め、その文字の意味雰囲気を出そうとしている。そこには漢字本来の安定感、構築感はあっても、画面全体としての絵画的面白味は少ない。森田が重視しなかった貫名菘翁は絵も描き、絵画的空間をよく知っていた。その伝統は森田には継がれなかった。絵画も書も二次元の画面で、本来どちらも空間をいかに魅力的に構成出来るかという才能が欠かせない。
森田が絵画を軽んじたとすれば、意表文字のみで充足している小空間に囚われることを望み、その文字の変奏に終始したと言える。つまり、安定や完璧が約束されている漢字をどのように書いても大本は崩れないという信頼がある。絵画は漢字がそうであったように自然を手本にするもので、画家ごとに最初からやり直さねばならない。それが自由か不自由かは考え方次第だ。最初に書いたように、森田はカンディンスキー、モンドリアン、ポロックの3人の抽象画家を批判する。一読すると筋が通っているようだが、絵画の面から見れば突っ込みどころ満載で、森田はあまりにも絵画に寄り添っていない。日本美術の歴史において書が占める割合はわずかで、戦後の墨象の評価も吉原治良の具体美術の陰に隠れて地味に見える。そういう冷や飯食いの状態を知って森田はひとり気を吐いて本書を編集したことが想像出来る。森田は「一九一〇年、カンディンスキーが『自分の絵を駄目にしているのは対象である』として対象を否定して対象を描くことをやめた、といわれている。」とまず書き、最後には「『否定』はけっきょく、相対的次元における選択という便宜上の問題にすぎないのであって、人間の自由の問題とはまったく次元が違うのである。」と結ぶ。カンディンスキーは色彩のハーモニーを重視し、きわめて音楽的な画面を作った。その点は森田の理解を超えていた。筆者が最初にカンディンスキーの絵画を知ったのは中学生で、その時の教科書の写真を今日の7枚目に掲げる。森田の「圓」とカンディンスキーのこの表現主義的な「円の中」とでは、思想の差異はあまりに大きい。カンディンスキーは自然の模倣から出発した。当時の絵はそのまま進んでも大家になったことを充分うかがわせるほどに対象を的確に捉える描写能力があったことは明らかだ。ところが形よりも色を重視するようになる。森田は「彼が変わらなければならぬのである。必要なのは対象を捨てることではなく、そこを場として彼自身が自己を変革することなのである。」と書くが、カンディンスキーの画歴は変革の連続で、どの時代の画風も美しい。カンディンスキーが否定したのは対象を見えるがままに描くことで、その伝で言えば森田も伝統的書を大いに否定して墨象に到達した。カンディンスキーは常に自己変革を心がけ、画風を拡散して行ったのに対し、森田は長生きしたにもかかわらず、ある一点に集中し続け、晩年の作家には普通に見られる総括的華麗さ、すなわちフランボワイヤン様式にさほど到達しなかったと言ってよい。たとえば嵯峨の三条通り沿いにある8枚目の写真の看板のようなカラフルな処理は思いもつかなかったであろう。カンディンスキーの自然の再現描写の否定と、墨象における漢字の意味を絵画的に表現する行為は、ともに抽象表現でありながら、潔い空間作りから言えば、後者は絵画に色目を使っている分、不純性を感じさせる。
カンディンスキーとモンドリアンの絵画について森田は岩波講座『哲学』第14巻「書と抽象絵画」により詳しく書いている。筆者を本書のみを読んで前の段落を書いたので、森田の考えを誤解している部分はあるだろう。書を論じるのに西洋の抽象絵画は無視出来ないと考えた森田は立派であった。しかしカンディンスキーの著作『点・線・面』をどこまで読んでその絵画に批判的であったのだろうかという疑問はある。漢字の文化を持たなかった西洋人が不幸であったとは断言出来ず、西洋の絵画の歴史はそれなりに詩や音楽と踵を接しながら変転して来ている。森田は心身が合一した瞬時の動きから美しい墨象作品が生まれると考え、それをどこまで絵画に敷衍したのか。絵画も彫刻も建築も破壊は一瞬でも構築はいわゆるちまちまと長時間を費やさねばならない。森田が絵画のそういう心身の一連の動きが途切れた状態を批判するが、人間は永遠不動を希求するから、即興や偶然を排除した美は存在する。花は毎年同じ完璧な形で咲いて風になびく。その動かしようのない美の形を人間も保持しているが、その人間がさらなる美、つまり自然にはそのままの形では存在しない美を自らの手で創出したいと考えることは神に対して傲慢か。書は子どもでも書けるし、そこにも美は宿る。絵画も同じで、知的障碍者のそれには健常者には得られない美がある。人間の手わざはどれもそれなりに美しいだろう。その中から珠玉と目されるものが稀に生まれる。それを森田の墨象に見る人もいれば、カンディンスキーやモンドリアンの絵画であると胸を張って言う人もいる。また筆者の話になるが、染色工房時代にネクタイを染め始め、これまで200や300本は作った。今日の9枚目の写真はカンディンスキーの構成主義的絵画の上に自作の手描友禅によるネクタイを重ねて撮った。当時ネクタイの柄の下絵をほとんど自動筆記さながらの無意識かつ即興で描いた。当然ネクタイを締めた時の構図を配慮してのことで、写真のネクタイは特に音楽をイメージし、ドラムやギターの変形を描いた。音楽的であることを求めたのだが、脳裏にはカンディンスキーの構成主義的な作品があった。即興を出鱈目と同義と自覚する一方、用の美を考慮して構図の完成度を常に意識する。キモノではそういう柄を描いたことはないが、遊びのネクタイでは伝統も何も無視出来る。その態度をもっと大きな画面の作品に適用出来る自信はあるが、それはカンディンスキーがさんざんやったことだ。思い出した。染色工房では外注として筆者より10歳ほど年長のローケツ染め作家の作品を随時仕入れていた。彼の塩瀬の帯に墨象そっくりの即興的ローケツ染めがあった。実験を繰り返して獲得した秘蔵の技術により、白地に黒を基本としながらその中心模様の周囲を派手な色で染めていた。書から出発して書から出なかった森田にはそうした作品は不純に見えたであろう。
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