「
呻吟を SINGIN’に代え 空青し 苦もまた楽し 楽こそ苦かな」、「人の名を 思い出せずに 気を揉みつ いずれひょっこり 瓢箪親父」、「流行の 過ぎ過ぎた服 珍しき 面白がりて 面白がられ」、「競争に 負けて籤買い 夢に酔い 遊び足りぬか エピゴーネンは」気になっていた昭和50年(1975)刊の森田子龍編集の『書と墨象』を入手した。最近その1冊を含む至文堂刊『近代の美術』全50冊を買い、真っ先に本書『書と墨象』を読み終えた。『近代の美術』は10冊近く所有することもあって全50冊は不要だが、本書は入手困難なようでネットの『日本の古本屋』では5000円ほどすることもあって、その倍ほどの価格でも全冊セットを買う方がよいと判断した。同じ版型で至文堂は長年『日本の美術』を毎月出版していた。筆者はその全冊の7割程度は所有しているが、美術の入門書として最適で、刊行の終了は、概説を前提に紹介すべき分野がおおむねなくなったとの判断からだろう。『近代の美術』が50冊で終わったのはもったいない話だが、時代にそぐわなくなった面も否定出来ないだろう。評価が定まったとは言えない作家を取り上げてどう書くかは難問であるからだ。本書は『近代の美術』では唯一作者が執筆したもので、森田はどの美術評論家よりも書と墨象について論評するにふさわしいと考えられたのであろう。100ページほどの紙面でこれ以上はない作品の選択と分析を尽くしている。内容が濃く、疑問や反論を惹起させ、美術や書に関心のある人は必読の書だ。作品図版は109点で、この投稿ではその中から特に気になるものを1割ほど選ぶ。本書1ページに1点の割合の図版数で、紙面の半分ほどが文字で、文章量はざっと計算すると400字詰め原稿用紙で135枚だ。昭和50年当時の筆者は今につながる美術や音楽の関心の根本を展覧会や読書、レコードなどで接した。おおげさに言えば大人としての関心事の原点がその年度頃にある。そして半世紀近い歳月が経った今頃本書を読むことになった。昭和50年以降も墨象の作品は生まれて来ているのは当然として、この半世紀間の動向についての書物があるのかどうかは知らない。あっても筆者はほとんど関心がない。回顧趣味に浸っているとの謗りを受けそうだが、それでもかまわない。本書を読めば、その後の書や墨象の展開はおおむねわかる気がする。本書は書と墨象の関係を江戸時代の白隠などの禅僧の作から書き起こし、昭和50年の時点での森田を初め前衛書道家の作品とその説明を行ない、さらには欧米の抽象画と墨象作品との比較を論じて後者の優位性を説く。吉原治良の「具体」との関連については述べられないが、本書における森田の考えは吟味され続けるべき重要性を持っている。しかし現在森田の思想を継ぐ書家がどれほどいるのか知らず、また嫌でも目に入って来る若手の作を筆者は好まない。
筆者が森田の墨象作品を知ったのはロジェ・カイヨワとの共著『印』によってだ。つまりカイヨワへの関心から森田を知った。そのため、森田には特別な思いがあり続けている。もちろんそれはカイヨワがなぜ森田の作品に感動したかの理由を知りたいからだ。とはいえ、本書にはカイヨワのことは何ら書かれない。本書の最後の「むすび」の前の章は「世界における書――書の海外進出」と題し、昭和29年の『墨美』に森田が掲載したアレシンスキーからの手紙の一部も転載される。
アレシンスキーが来日して森田らの書家を撮影して
『日本の書』を撮ったのはその翌年のことで、戦後の早い時期から書の海外進出は書の雑誌によって行なわれていた。本書からは森田の師の上田桑鳩が「書の国際性」を論じていたことがわかるが、昭和27年1月に森田が井上有一その他と創刊した『墨美』が欧米の美術家、愛好家に注目されたことが書の海外進出のきっかけとなったと言ってよい。「世界における書――」では昭和28年に森田の作品がパリで展示されて以降、昭和47年までの海外での書の展示を列挙し、アレシンスキーらの『日本の書』の撮影が果たした役割の大きさが想像出来る。それはさておき、本書で筆者が最も勉強になったことは、江戸時代の禅僧らの書はいいとして、その後森田へとつながる書家についての情報だ。『近代の美術』全50冊のうち、書に関するものは本書のみで、そのことからも書は美術においては存在が小さいことがわかる。それで本書で森田は大いに気を吐いて絵画にはない書の優位性について説く。本書は明治から書が美術かどうかについて論争されて来たことに触れ、森田あるいは井上有一らの前衛書が突然変異のごとくに登場して来たのではなく、充分な下地があって、先駆者が何人かいたことを伝える。そのことから筆者はたとえば昔から気になっている上田桑鳩について調べたくなるが、本書では上田よりさらに先人がいたことが最初に紹介される。その代表は群馬の比田井天来で、本書で初めて天来やその息子の南谷の存在を知った。本書はこの父子に対してそれ相応の扱いに努めている。本書の表紙は今日の最初の写真にあるように森田の67年の一字書「圓」で、これは見方によっては森田が本書の客観性に努めたのではなく、かなり自己本位で書いたように思われるところがなきにしもあらずだが、森田が「書と墨象」の題名で本書の執筆を依頼された時、表紙に自作を掲げる光栄を授けられたことは当然だ。それにこの「圓」は森田の神髄を示す迫力があり、また美しい。この表紙の裏にやはり1ページ大で掲げられるのが比田井南谷の「67-3」で、今日の2枚目の写真がそれだ。題名は67年3月の制作を意味するのだろうが、同じ図版が本文の中に同じく1ページ大で掲載され、森田がよほどこの作品を重視していたことがわかる。正直に感想を言えば筆者はこの作品のどこがよいのかわからない。
篆書体のように見えながら、最後の文字ないし記号はMで、抽象画と言ってよい。図版の説明に森田は「鳥の子紙の表面をアクリルで加工、その上に古墨で書き、さらにつや消しの樹脂で定着して堅固な紙面になっている」と書き、また本文では「その後の比田井は、筆脈の一貫を大切にするようになった。紙面構成のために筆路を切って線や点をかくのではなく、一貫する筆脈のなかにそれぞれの線や点を収めとって…いる。ここでは時間的でありつつ時間を超えて、さわやかに透りきった空間をつくり出している。書の高次なよさの方向をそなえた、墨象の一つの典型といってよいもののように思う。」として、森田の「圓」に比肩しつつ別の味わいを持つ墨象作品の傑作として評価しているとみなしてよい。しかしここには文字を書くことが書作品の絶対性ではないとの、曖昧と言える問題が横たわっている。もちろん本書はそのことについて何度も森田は言及し、墨象とは何かを説明するが、それはいわば森田個人の考えであって、当時の墨象作家全員が意見の一致を見たのではないことがわかる。森田の「67-3」に対する先の森田の説明は、本書で紹介される南谷のそれより遡る他の作との比較で読むと森田の墨象に対する考えがよくわかる。今日掲げる3枚目の写真は本書で紹介される南谷の他の4点で、上右は南谷の代表作としてよい1945年の「電のヴァリエーション」で、ヤモリのように見える記号はどれも「電」の古文だ。古代中国の人は「電」を稲妻に見た。今日の4枚目は76年6月に買って座右の書となっている山田勝美著『漢字の語源』から「電」の項目を写した。そこに「電のヴァリエーション」の合計9つ書かれる「電」の古文が記される。つまり南谷のこの作品は書と言える。この作品を見れば誰でもすぐに同様のものは書けると思うだろうし、それは正しい。しかし南谷がどういう状況でこの作品を書いたかという動機を知ると、時代を象徴する記念碑的な作であることがわかる。本書の「心線作品――南谷」と題する節で森田は、「昭和二十一年六月、当時長野県に疎開していた比田井南谷は、心線作品第一「電のヴァリエーション」ほかを発表した。文字でない作品であった。」と書き、続いて南谷の31年の言葉を引用する。「丁度十年前のことである。あの終戦がやはりこの新しい誕生に作用を及ぼしたのかも知れない。疎開先の炬燵の中で奇怪な線や点を書いては反古の山をつくり、人が来るとしまい込むという自信のなさに私は悩んでいた。…突然頭に浮かぶものがあった。それは父(天来)の「行き詰まったら古に還れ」という言葉である。…そこで古籀篇を開いたとき、「電」の字が異様に私の注意をひき、これを夢中で展開させて、心線第一「電のヴァリエーション」となったのである。これは今から見れば幼稚なものでも、このデッサンができた時は、それこそ天に昇る思いであった。…」
続いて森田は本書において昭和43年9月号の『墨美』に掲載された「書家よりも画家の方に解ってもらえるのではないか」といった論評を引きながら、「この創作が行われた事情や訴えかけてくる意味はみとめながらも、その形式を「書となし得るか否か」の点で問題を感じていたというわけである。」と結ぶ。3枚目の写真に戻ると、上端の左ページの2点は上が55年の「作品17 電」、下が57年の「作品」で、どちらも漢字の古文を元にしているのかもしれないが、ミロの絵画のようだ。また下段の作は59年の「作品」で、これについては森田はこう書く。「比田井南谷は、書を線に重点をおいてとらえ、書線であれば書だ、という考えの持ち主であるだけに、一貫してその線は内容・含蓄を豊かにもっている。…しかし59年の「作品」あたりの縦横に交錯する線は、同時存在的なものに見えて、全体を一貫する時間を感じさせない。一貫して一回きりの一つの動きのなかに生き込んでいるときの奥行きのある組みたてにはなってくれない。線自体が立体的であるからそれにともなう奥行きはもちろんあるのであるが、一つの動きを生きるときの生命空間ともいうべき奥行きにはなってくれないのである。各線のその内容が見える眼を感覚的にとらえてものとしての訴えがつよく、ものを超えた一つの世界・空間になってはくれないのである。その意味では線が必ずしも書線になっているとはいえないように思われる。」この次に段落を換えて続ける言葉は前の段落の最初の方に引いた「その後の比田井は、筆脈の一貫を大切にするようになった。…」であって、森田が墨象ないし自作で「筆脈の一貫」を最も重視していたことがわかる。「電のヴァリエーション」を含む3枚目の作品はどれもどこから書いたのかわからない点で森田にすれば絵画に近い。ところが同じく絵画的でありながら、「67-3」は上から下へと順に一定の速度を保って書いたことがわかり、その点は読めない記号であっても書と変わらない。本書の「はじめに」で森田は「墨象を生みだそうとしなかった書活動、あるいは表現へのそのような方向の意欲に乏しい書活動は、その作品のよしあしにかかわらず、ここでは取り上げ得ないことになる。また「墨による形象」のかたちをとった表現は、手法的にも様式的にもほとんど無限といっていいほどの可能性をもっており、現に実に多様なさまざまな作品がひろく提示されてきているけれども、書に独自な美質とかかわりのないもの(絵画その他の名をもって呼ばれてよいもの)、あるいは書に独自な美質を見失ってきているものは、たとえそれらが書家によってつくられたものであっても、作品のよしあしにかかわらず、本稿の守備範囲外のものとせざるをえない。」この言葉からすれば南谷の作品を取り上げることは奇異に感じるが、同じ年齢の書家として、また天来の息子であることからして無視は出来なかった。
さて、話は前後するが、本書の「はじめに」の次に「墨象以前」と題して白隠の作を取り上げ、最後に貫名菘翁についてわずかに述べる。「…中国・日本の書の古典を、よくもこれほどまでにと驚かれるほどに渉猟して、かつ見かつ臨書して精妙の域に達していた。江戸期の書の世界に清く輝く孤燈ともいうべき存在であった、しかし世人の好尚とはかえってへだたり、門弟も書の依頼も少なく、生計に苦しんだという。これまた残念ながら影響するところは極めて狭かった。」この意見には「清く輝く孤燈」はいいとして、世人に影響を及ぼし、そのことで有名になれば生計にさほど苦しむことはないとの思いが見え透く。また「門弟云々」は書家が団体を作り、仲間がお互い切磋琢磨することで新しい書が生まれやすくなるとの信念が背景にあるだろう。『近代の美術』は『日本の美術』と同じく、本文とは別に最後に紙を変え、小さ目の活字を使った数ページがあるが、本書ではその最初に森田は「関係主要団体と展覧会」と題して作品図版5点とともに3ページにわたっての解説を載せる。「団体」の最初に挙げるのは昭和8年10月に天来門下の新鋭によって結成された「書道芸術社」で、そこに上田桑鳩は参加した。次に同12年に天来が書道芸術社同人を含む門下と日下部鳴鶴系の人たちを集めて結成した「大日本書道院」が登場し、同13年2月は書道芸術社同人30余名のうち大沢雅休一門が「平原社」を結成、同15年は上田桑鳩一門が「奎生会」を発足させ、11月に同人展を銀座鳩居堂で開催、同23年3月に森田は雑誌『書の美』を発刊、同27年に森田や井上有一が奎生会を離脱して「墨人会」を結成した。このように書家は団体を作って日展に対峙する団体展を開催して来た歴史があるが、本書では「墨象以前」に続く「墨象胚胎期」の章で主に天来の紹介をする。それほどに森田にすれば貫名菘翁とは比較にならないほどに天来は大きな存在であったのだろうが、南画も描いた菘翁は森田にとっては天来ほどに純粋とは思えなかったのかもしれない。今日の5枚目は天来の書で、右上の「高槐古柏」は1938年、左端に少し見えている縦幅も同年の作だが、「高槐古柏」は一見してその驚嘆すべき香しさに名筆の何たるかを感じる。しかも古くなく、今書かれたような新しさを湛えている。こうした書を単に伝統的、古典的と退ける思いは筆者にはない。森田もそう思ったのでこの作を紹介したのであろう。天来が墨象の始祖とでも呼ぶべきエピソードを本書はドラマティックに書く。筆者は本書で最も収穫があったと思ったのはこの比田井天来を知ったことだ。森田の墨象の原点がどこにあるのか長年調べずに知らなかったのは、美術と違って書の世界は閉鎖的と言えばいいか、先の各種団体の勃興からもわかるように、どこからどうたどればいいかが門外漢には敷居が高いように感じる。
それで絵画に隣接する墨象から天来を知ることは幸運と言わねばならない。書を学ぶ人は日下部鳴鶴や天来の名はあたりまえに知っているだろうが、そういう人たちは逆に森田らの墨象には関心を抱かない場合が多いのではないか。話を戻す。「墨象胚胎期」の半ばに「性情の表現」と題する節があり、天来について書かれる。「…天来は明治三十年上京して日下部鳴鶴に師事して、書は六朝時代に還るべしという復古主義、力の時代を経験した。しかし天来は、鳴鶴の主張と書風をひたすら尊重する他の門人とはちがい、ひとり碑帖に直接して研究し、その範囲は晋・唐の諸碑諸帖はもとより、さかのぼって漢・周の金石文に及び、新出の殷の甲骨文、漢・晋の木簡にもいちはやく着目するなど、あらゆる時代、あらゆる書跡に貪欲に目をさらした。…「書は君子の芸なり」とか、「厳粛の気を養い端正の徳を磨いて、人格の向上を計るものなり」とす鳴鶴らの考え方は、否定するにあたらないが、なぜそうなのかを究明しなければ天来は自ら納得できないのであった。書を「性情を表現する芸術である」と規定し、…そして結局は「性情とは清浄無垢なる心の表現である」のであり、「小利口な思慮分別」に汚されない心の発動を書の要諦だとしている。…従来の手本模倣、一家伝承方式の、書の指導ならびに学習法が、いかに狭いものか、また低きに落ちやすいものか、書の堕落の因はそこにあるとして、天来は極力それを排撃した。…碑帖の臨書にめざめたはずの鳴鶴さえも、その書風を鳴鶴流という一家法として受けとられて多くの追随者をつくっている。…」「墨象胚胎期」の終わりは「「象」への夢――天来」と題し、天来が数人に語ったことが書かれる。「文字は元来歴史的に形成せられた伝統的な約束であり、現存の人間或は自己にとっては、外から与へられた形式である。したがって、一人一人の個的心象や対象がそれによって十全に表現されるとは限らないし、むしろそこには本来隔絶があるともいへよう。それならばすでに固定した与へられる漢字としてではなく、「もっと別な表現はないものか。自分は前からそんなものを考へてゐるのだが、それは字でもなく絵でもない或るもの、名をつければ<如<とでも言はふか、ともかく対象と表現とが一つに渾融してゐるもの、そのやうなものを工夫できないだらうか。」といふのである。…書を漫然と書くのではなく、性情の表現として書き、またその表現の通路としての筆意を大事にした天来にしてはじめて、おのずとこの「如」「象」へ想い及んだのである。残念なら実際の作品は得られなかったが、墨象はかくしてたしかに胚胎したのである。明治以来、六朝書ショック以来の道程がその母体であったというべきであろう。」南谷は父の天来が夢想した墨象に進み、天来-南谷のつながりは墨象の正統派と言えそうだが、森田が南谷の作を批判的に見たことは前述のとおりだ。
一方、天来-上田桑鳩-森田子龍という流れがあって、森田なりに正統を継ぐ意識はあったはずだ。天来や桑鳩の作品はネット・オークションに割合よく出品され、それなりの高値で落札される。筆者が知らないだけで、天来や桑鳩のファンはいて、森田が成した墨象とは別の可能性を探っている書家は大勢いるのだろう。本書の「墨象胚胎期」の次は「墨象胎動期」で、先に述べた天来門下の「書道芸術社」の作品が紹介される。同社は順次同人を増やし、試験によってやがて森田も同人に推薦された。今日の6枚目の写真の最上部、桑鳩の1937年の作「天地吾盧」と、7枚目の森田による1941年、29歳の「静思微見」は、ともに現代感覚が横溢する。後者について森田は本書で「点を打つ心――子龍」と題して、森田の思想を理解するうえで重要なことを述べる。それは簡単に言えば、「八紘一宇」の言葉が間違って利用されたことによって日本は戦争に敗れたが、その精神には真理があるとの考えだ。森田はこう書く。「八方を掩うて領土となすというやり方では、力一辺倒のものすぎない。…八方を掩うが、同時にそこを家とし、自らその中に入りこんで一つになる――この愛がなければならぬ。この愛と力が一元的にはたらくところに、真の政治もあり、芸術もあり、教育もある、と考えた。八紘一宇のことば自体の中には、…実に宏遠な、しかも千古を通じて悖らない真理があると私は今でも信じている。」戦争を体験した世代としてはこれは当然の思いであろう。さて、「静思微見」は画面の左半分が空白になっているが、よく見るとそこに点が三つ打ってある。これを戦前の奎生会の同人展に出品した時、「禅坊主のようなことはするな、絵を描くなら書家ではない、という非難が圧倒的であった」とのことだが、森田にすれば「文字によらないで、直に内部を表現しようという意欲の芽生えであり、それは私の場合、先ず点のもちえる内容への信頼が支えにあった。その点や線がそれらとの組み合わせに拡大されたとき、戦後の急展開に通じうるもので、その場合も、単なる点や線ではなくて、それらがもちえる内容への信頼が支えであることには変りがないと思う。」であって、ひとつの点に込める思いはたとえばある漢字における増やすことも減らすことも出来ない点画と同様、厳密で重いものだ。「静思微見」の三つの点は「…」のように余韻を表わすものに見えるが、森田が続けて書く「文字によらない、墨象的な作品に寄せる思いの重要な一点は、」の「一点」とは、当然「静思微見」の三つの点のひとつを意味するのではなく、「点のもちえる内容」の言葉が示すように、文字における厳密性すなわち一点一画をおろそかにしない態度を基礎とするもので、絵画における自在な多筆性を認めていなかったことがうかがえる。
言い換えればきわめて森田は禁欲的だ。文字によらない南谷の「67-3」のような作品を森田は書こうとせず、それは漢字で充分画面の構成は充分賄えるのになぜ記号の助けが必要なのかとの批判もあってのことだったろう。そう考えると「静思微見」の左半分の三つの点は森田にとってはぎりぎり許せる記号であって、言葉になる前の文字と見てよい。またその点の配置は当然ながら右の4文字とのこれ以上はない均衡が保たれている。いわば全く隙がない。そういう造形感覚は書で身につけたもので、絶えず紙の余白をどうすべきかとの考えを抱いていたからだ。絵画でも余白は大事だが、書ではそれがもっとわかりやすく現われ、それゆえに書き手の鋭い造形感覚が必要とされる。この作品は横長画面の左右を分ける中央に「子龍書」の落款と印章があって、漢字と記号の中央に立ってどのような書作品を書き得るかという迷いと同時に大きな決意も見える。ともかく森田はひとつのイメージを画面に固定することで鑑賞者に多弁になりがちな絵画とは違い、意味を持つ漢字をごくわずかに書くことで多くのイメージを連想させる書にこだわり続けた。これは絵画よりも文学に近い芸術で、また井上有一のように明らかなロマンティシズムに傾斜せず、冷徹な哲学に接近している。6枚目の写真の3点の作はどれも上田桑鳩だが、中央は55年の「よろこび」、下は54年の「看墨生涯」で、森田の作に比べて温和な印象がある。それは雅号も影響しているかもしれない。鳩と龍では後者が激しくなるのは当然だ。「看墨生涯」の「看」と「涯」は森田の作品を思わせる極太だが、「墨」と「生」は擦筆により、4文字全体で絵画的な面白さが出ている。本書の「墨象誕生」の章における「文字性をめぐって」に森田は桑鳩の昭和37年の言葉を引用する。「…自己の感動した感情を、全力的といわんより、全身的に書きつければよいと思っている。よしそれが古典に違ったものであろうと、文字によらぬものであろうと、それが書的な性格を堅持したものであればよいと思っている。」この言葉から先の「よろこび」は理解しやすい。また本書では「しかし作品面では、墨人的パターンを指摘されることが多かった。同じ考えに立つ人が多いから類型化するだという外部からの声に対しては、「…類型化するのは、自己への掘り下げが足りないのだ」という反省が叫ばれ、各自それぞれに苦しみぬいた。」とあって、本書に掲載される作品図版はそれぞれの書家の代表作と言ってよい精鋭揃いのはずで、作者ごとの個性違いがわかりやすい。ただし、本書の「はじめに」で森田は「書における墨象胚胎期、誕生期は僅々ここ五〇年間のことに属する。資料の整理保存に馴れないこの世界では、その収集はすでに容易ではなくなっている…」と書き、旺盛に活動してある程度名が知られた書家のしかも書物に印刷された代表的作品しか残らないことを伝える。
本書の「墨象誕生」の最初「戦後の混沌――内の激動・激発」は次の言葉から始まる。「戦争は終わった。国力を消耗し尽くして悲惨な結末に終わった。かつての秩序は崩壊し、その秩序の柱をなしていた道徳も社会的な仕組みも崩壊し、一挙に信頼と機能を失い、それらを背後にして成り立っていた美意識も当然ぐらついてきた。世は芸術も含めてまさに混沌の様相を呈した。…これらを前にして心ある人びとはじっとしてはおられなかった。内からの激しい突きあげは、伝統にも因習にもしばられることのない思うがままの行動となって爆発した。そこには無茶と自由が紛然と同居していた。いわば味噌も何もいっしょくたの混沌であった。」これは前衛書が流行したことと、その中から本書で取り上げられるいわば名作が残って来たことを暗に示す。そしてその流行が一段落したのが本書が刊行された昭和50年だろう。そう考えれるとその後は書も含めての美術界、あるいはもっと広くジャンルを捉えて新たな流行があったと考えられるが、それは別の話になる。「戦後の混沌――内の激動・激発」の次の節は「α部設置」でこう書かれる。「新傾向の作品が外部の人びとの眼にもふれて話題になりはじめ、マスコミの上でも、あるいはもの珍しくあるいは非難をこめて取り扱われることも多くなった。」α部は上田桑鳩の賛成を得て、画家の長谷川三郎が選評を担当し、森田らが立ち上げた研究室で、森田はα部の役割として、昭和25年の『書の美』において「…最初から「書」ではない作品、純粋に造形の秘密をさぐるところです。純造形を窮めた上で書を振り返ったとき、書に失ってはならぬ生命を見いだし護ることができるのではないでしょうか。…」と書く。これは比田井南谷の「電のヴァリエーション」に触発されたところが大きかったのだろう。桑鳩の「よころび」や「看墨生涯」の図版は「墨象誕生」で取り上げられている。今日の8枚目の写真の左は篠田昭二による1959年の「象」で、木版画だ。一気呵成に書いた「象」の文字の背景を指紋状の線彫りを密に施し、迫力が増している。この作例からすれば前衛書のローケツ染めは行なわれたはずで、また資料を探しても出て来ないが、書の立体化すなわち彫像を作る作家もあった。8枚目の写真右上は筆者がブログを始めた頃に紙粘土で「黒」の篆書体を立体的に象った「マニマン(宝珠男)」の白黒反転図版で、この筆者自身のキャラクターをアニメとして動かしたい思いが当初からあった。筆者がなぜ「黒」なのかは友禅のホームページに書いたが、隠し画面でもあって読む人はまずいないだろう。桑鳩の「看墨生涯」における「墨」は「マニマン」に見えなくもない。ところで桑鳩は「墨象誕生」の「文字性をめぐって」の中で「感情のおもむくままに書きつける。第三者がそれを見て、作者の感情がわかるまでに具象化されていなければ作者のひとりよがりになる。」
この「ひとりよがり」は気になる言葉だ。「作者の感情がわかる」は確かに芸術の役割だが、人さまざまだ。鑑賞者が的外れな意見を述べてもそれは仕方のないことで、結局のところ作者はひとりよがりに徹するしかないと筆者は考える。どれほどの名画でも好きではない人はいるし、凡作であってもそれに愛着を覚える人もある。今日の最後の写真は3年前に107歳で亡くなった篠田桃紅の3点で、本書では唯一の女性作家として取り上げられる。写真の上左は1952年の「炎」で、筆者の「マニマン」の女性版に見えるが、さほどデフォルメしない漢字一字にこれほどの絵画的個性を書き込めることは、爆発的迫力本位の「墨象」にはない繊細さ、また優美さや艶めかしさもあますところなく伝える。彼女はアレシンスキーの記録映画『日本の書』で制作の様子が捉えられ、その堂々たる姿はこの「炎」を思わせる。上右は54年の「作品」で、本書で森田はこの作に対して「一貫した筆路は見えなくなり、紙面の効果を見ながらいくらでも書き足されている。…その後の篠田の作品は、さわやかではあるが平たく塗られた、墨色のちがう幾本かの細長い面によって構成されていて、そこには一貫する動きはもう見ることができない。…彼女は私に語っていた。「私の作品を書だとは思っていないし、自分を書家だとも思っていない。」と。私はまったく賛成であった。書的であるかないかは、ジャンルの問題であって作品のよしあしとは別のことである。…」9枚目の写真下は1966年の「見得ぬ夢」で、墨の上に銀を重ねている。シカゴの美術館に収蔵されているのは、50年代半ばに渡米し、数年各地で個展を開催したからだろう。先の「一貫した筆路」という言葉からわかるように、森田は書き始めると最後まで一気という姿勢を守った。それが書の本質と考えたからだが、一字ならいいが、多くの文字を書く場合、筆を硯に浸し直して墨をまた吸わせる必要があり、その瞬間にわずかでも空白の時間が生じる。その筆継ぎも森田にすれば「一貫した筆路」であろうが、ほとんど考える時間のない瞬間芸のような森田の墨象が書の唯一の本質とは言えない気がする。写経はゆっくり書くし、書きながら考える時間はあるだろう。本書で森田は昭和38年に自身の言葉「書の美しさは、筆・墨・紙で書かれた文字における境涯の美しさである」、「書は境涯の芸術である」を引いている。「境涯」はわかりにくいが、「外のものに拘束されないばかりでなく、自己そのものにも拘束されない、というよりも、外も内も観ておれないぎりぎりのところ、全く何の余裕もないところ」と言い換えている。これは楽器の演奏で言う即興と同じかどうかに筆者は関心がある。筆者の長文は墨象作品のように数秒では書けないが、最初から最後まで走り抜ける気分で書いている。それは「効果を見ながらいくらでも書き足す」ことよりも即興に近い。
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