「
椎茸や 思惟の丈ほど 笠広げ 終活間近 収穫即座」、「同じこと 何度も言いし 老いを見て 笑みを絶やさず 新たに学び」、「同じこと 何度も言われ 腹を立て 頭の悪さ 示し気づかず」、「街中で まあ待ちなはれ 絵が呼びて しばし佇み いと面白き」
千本三条の南西角、すなわち後院通り北端に京都中央信用金庫三条支店があって現在建て替え中だ。今年1月下旬から工事の囲いの塀に「青空美術館」と題して絵画の複製パネルが展示され始めた。予定では7月2日までとなっている。筆者が最初に見かけたのは2月で、信号待ちの際に気づいた。その後何度か見かけ、やがて大いに気になって立ち止まって鑑賞した。カメラを持って出かけ、7点全部を撮影した。企画は「天才アートKYOTO」を愛称とする「NPO法人障碍者芸術推進研究機構」だ。「17号プロジェクト」と題するからには、京都市内各地にこれまで16の同様の展示があったのだろう。早速ネット検索すると、ホームページがある。そこではこの中信三条支店の展示は16号とされ、今年12月末までの予定となっている。これは現場の説明パネルとは違うが、ひょっとすれば工事は今年いっぱい続き、絵画パネルを7月2日以降に別のものに交換するのかもしれない。展示は現在この中信の建て替え現場のみのだが、今後新たな工事現場に展示されるのだろう。これは絵画を選び、撮影してパネルに仕立て、それを現場に取りつけるといった一連の手間があり、その費用を施工主が負担するのだろうが、企業としては見上げた行為だ。工事現場の塀は無地でもよく、それが一番経費が少なくて済む。しかしそういう殺風景では面白くないと考えられ始めたのがバブル期頃からではないか。社会に優しさが拡大したためか、あるいは優しいと思われたいために、工事現場では頭を下げた現場監督の漫画イラストが貼られるようになり、次には塀全体を自然を感じさせるために、たとえば蔦の繁茂を撮影したシールを貼り尽くすようになった。その次に登場したのがこの「青空美術館」で、また美術ファンならよく知る名画ではなく、やはり社会の思いやりを示すためにつごうがよいと考えられたのか、障碍者の絵が起用された。さて、千本三条付近の後院通りの歩道はかなり狭く、この絵画パネルを鑑賞するために立ち止まっていると、自転車や歩行者の通行の邪魔になる。それもあってこの展示をじっくり鑑賞する人は稀な気がするが、殺風景な塀のままよりははるかによい。工事関係者にすればあまり工事現場に接近してほしくないであろうから、本音を言えば人々が塀の前で立ち止まるように目立つ何かを貼ることは避けたいのではないか。たまにTVで報じられるように、こうした工事現場では上から何かを落下させて歩行者に怪我を負わせることがあるあらだ。そう心配をする人は少なくないはずで、それでこの青空美術館の展示に気づきながら、立ち止まる人が少ないように思う。
筆者は蔦の葉の連続貼りつけを見ながら、画像のつなぎ目のずれを味気なく思ったもので、絵画パネルの方がはるかに感じはよい。ただし、本物の美術館での展示よりかなり長期にわたるとはいえ、工事が終われば撤去され、またそのことが障碍者の絵画であることに社会における彼らの立場を何となく反映してもいる気がする。それはいい意味においては障碍者にも優れた絵画の才能があることを気づかせるが、悪い意味で捉えれば障碍者の絵画はこうした工事現場の一時的な塀でしか展示され得ないという一種の差別を感じさせる。惜しいと思うのは、どの絵も作者名が大きく書かれるが、実寸を記さず、また実物の作品がどこにどう保存され、それが見られるのかそうでないかについては書かれないことだ。欲を言えば作者の年齢も知りたいし、またどのような障碍者であるかも知りたい。たぶん身障者ではなく、知的障碍者と思うが、そうであればなおさらこれらの絵画は驚くべき才能を示していて、「天才」の呼称はおおげさとは思えない。筆者が真っ先に気づいたのは、横断歩道に最も近い展示場所にある今日の最初の作品で、これは足立茉莉さんの「無題」だ。写真ではよくわからないが、マジック・インキを何色も重ねてほとんど同じような渦巻きを重ねて描いてある。こうした絵を子どもはよく描くが、この作品は勢いがよく、また画用紙からはみ出さないように描く注意力は驚嘆すべきものだ。足立さんは同様の渦巻きを描くことが得意で、またほかに画題はないかもしれない。それでもこの1点は有名な画家でも模倣は難しい。筆者はこの渦巻きは学校の先生による「花丸」に感化されたもので、足立さんは花丸をつけられたことに感激し、それで勢いあまって花丸の過剰表現となったと想像する。それは褒められたことの嬉しさを何倍にも増幅する行為で、彼女のこの絵には幸福感が満ちている。これほどの肯定的エネルギーに満ちた絵画は珍しい。冷たいミニマル・アートの巨匠作品よりもはるかに感動を誘い、足立さんに他の画題がなくても、この花丸渦巻き画を色を変えて量産してほしい。7点のうち、次に見入ったのは2枚目の画像で、大場多知子さんの「大きのこ祭り」だ。これも驚愕すべき作で、プロのイラストレーターの作としても誰も疑わないはずだ。画面の隅々まで小さなキノコ類で埋め尽くすのは、「アール・ブリュット」の画家にはよく見られる手法だが、この作では最初の小人5人をサイコロの5の目のように配置し、その後数種類のキノコを埋めて行ったのだろう。ベニテングダケは毒キノコだが、その特徴的な赤に注目し、小人の濃い青い服と相まって画面を賑やかなものにしている。隙間をすべて黒で塗りつぶしているところにキノコの密やかな雰囲気を高めていて、隠花植物のお祭りというところにシュルレアリスム絵画的な気配がある。この作は原寸大の複製を作ればよく売れるように思う。
他の5点は3枚目の写真の3作、4枚目の2作だ。どれも絵の才能とは何かを考えさせる。3枚目の上は佐野靖文さんの「無題」で、水彩絵具で点描を重ねる。サム・フランシスとリー・ウハンの混合的な抽象絵画だが、じっくり見ていると風景画のような面白さがある。中央の作は木下アラン海さんによる「無題」で、「アラン海」は「ARAN REI」と読むようだ。ドイツ表現主義の絵画と言えば絵画通は信じるだろう。爆発的迫力と色彩布置の独自性は絵を描く楽しみを存分に伝える。下の作品はいしいこうたさんの「子供をのせるぞうさん」で、アメリカの抽象表現主義絵画に見える。象の四つ足は黄色の台地を踏み、象の背中に昭和中期に流行した「だっこちゃん人形」のような子どもが象と同じ目をして乗っている。子どもは笑っているようで、いしいさんはこの子どものように象に乗りたいのだろう。これほどの純真な喜びを描く絵画は大人の作にはあり得ない。絵を描くのに何が最も大事であるかをこの絵は突き付けている。4枚目の写真の上は道家大偉之さんの「店先のかざり置物狸!!」で、写真を見て描かれたものだろう。大小10いくつかの信楽の狸の置物を中心に左に自動車、その背後に店舗とその看板、右上奥に街を見通し、画面構成が巧みだ。写実の能力に長け、画題が豊富であることを想像させる。素っ頓狂な狸の置物に目をつけるところ、かなりのユーモリストであることもわかる。下の作品はゆうだいさんの「ひょうごけんフラワーセンターのチューリップばたけ」で、ゴッホとモネを連想させる。空を水色で塗り潰しているところはたとえば二コラ・ド・スタールが見れば大喜びしそうな清々しいエスプリを感じさせる。これら7点は障碍者の中でも特に絵画の才能に秀でた人たちの充実した作品であろう。そうでないとすれば、ぜひともこれら7名あるいはもっとほかの絵を描く障碍者の作品を実見したい。滋賀では「アール・ブリュット」の作家たち専門の作品展示の施設があり、また別の場所での展示もあるが、障碍者の画家や彫刻家をアール・ブリュットと同一視していいのかどうか筆者にはわからない。障碍者はその言葉のイメージから特別視され、また敬して遠ざけられがちと思うが、画家や彫刻家として有名な人でも、絵に関心のない人からすれば障碍者のようなものだ。普通ではない何かを所有するのでなければ作品を作り続ける人生を歩まない。この「青空美術館」の展示を障碍者の絵とせずに、外国の現代の画家たちに委嘱して描いてもらったと説明すれば、誰しもそれを疑わないだろう。そして障碍者の作であることを示されると、なるほどと納得し、そして際物という評価を下して安心する。それに大人は純粋でない方が有名になれることを知っていて、これらの作品からうまく盗んで自作を描く人物も出て来ることが予想される。
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