鰯は鰯には嬉しくない文字であろう。国字に違いないと思って調べるとやはりそうで、海に囲まれた日本では魚偏の国字が目立つ。寿司屋の湯飲み茶碗の表面に埋め尽くされる魚偏の漢字には当然鰯が含まれる。「弱」の漢字を学ぶ小学生はすぐに「鰯」も覚えるだろうし、魚偏に「強」の漢字がないのかと先生に尋ねる者もいるだろう。「強」と「弱」とでは誰しも「強」を好むはずで、「鰯」の一字を大きな紙に毛筆で書いた作品をほしがる人はせいぜい鰯の天ぷらを売る店くらいなものだ。それで井上有一も「鰯」の一字を大書しなかったはずだが、今日の3枚目の写真のように強烈な意思を秘めた顔つきの井上だが、強さを連想させる漢字ばかりを書いたのではない。たとえば「貧」の漢字から「弱」を連想する人でも、井上の「貧」の一字を書く作品からは強靭さを感じるはずで、井上が「鰯」を書いたとして、それも同様の迫力を持ったに違いない。となればどの漢字を書いても井上らしさが出たことになるが、井上が書いた漢字の数はごく限られる。また注文によって漢字一文字を大書したのではないはずで、天ぷら屋から依頼されても「鰯」の一字を書かなかったと思うが、案外そうでもなかったかもしれない。ともかく積極的に売ることを目標にしなかったはずで、井上の作品はめったに市場に出ない。出れば1000万円の値がつく。そのことを井上がどう思っただが、画家のモディリアニのように没後に驚くほどの高値で作品が取り引きされるのは、制作に一途で作品がほとんど売れなかったという不遇のドラマが必要とされる。さて、今日は森田子龍つながりで井上有一の展覧会についても書いておく。筆者は1988年3月4日に京都国立近代美術館で『大きな井上有一展』を見て図録も買った。1955年から没年の85年までの作品を展示し、これは戦後の高度成長期からバブル絶頂期までに相当する。40年前の展覧会の記憶はほとんど消えていると言いたいところだが、図録の図版からも記憶は蘇る。今日の写真は最初が左に図録の表紙、右はチラシで、この裏面は白い。2枚目もチラシで左右に表と裏を載せる。4枚目は55年の抽象画、5枚目は上が「花」、下左が「圓』、右が「月」、6枚目は晩年の作で詩文を書く。井上の一字書はどれも畳1枚かそれより大きく、全紙の和紙を使ったのだろう。和紙に詳しくないのでわからないが、とても高価なものがあって、安価なものでも全紙サイズは画用紙の全紙よりかなり高額だろう。ついでに書けば筆者は小学3、4年生の頃に全紙の画用紙がほしくなり、人に聞いて今里駅前の商店街の紙屋に出かけた。店内や対応してくれた男性の姿や顔をよく覚えている。A0サイズと思うが、B0であったかもしれない。筆者の全身がすっぽり収まる大きさのケント紙で、そこに鉛筆で戦艦大和を何度か描いた。1枚の価格は当時150円から200円の間であったと思う。
和紙の全紙はその何倍もしたと想像するが、漢字一字を大書するには箒のような大きな筆が必要でしかも墨も大量に使う。『大きな井上…』で上映された井上の制作風景は、正面から捉えた白黒映像で、妻を助手とし、とても淡々としていた。妻は画面の右手に座って墨がたっぷりと入っているバケツのような容器を支えている。画面右手から全身が白っぽい、下着姿のような井上が登場し、箒状の筆をバケツに突っ込んで床に敷いた和紙に一字を書く。それは森田子龍のような激しさとはまた違って「気」というものが伝わりにくく、映像を見ながら拍子抜けした。10数足らずで書き終わり、井上は相変わらず淡々として書き終えた紙を掬い上げ、それを妻が手助けをする。両人ともに終始無言で、「一気呵成に書く」という言葉がふさわしくないほどに、つまり日常の老いた夫婦のありふれた生活の一端という印象があった。言い換えれば気負いが全く感じられない。清水寺の管主が今年の一字として年末に極太筆で漢字一文字をしたためる光景は日本の風物詩になっているが、井上の制作は先の記録映像は別として、他人に見せるものではなかった。また森田子龍と同様に床に置いた紙に書きはするが、視力があまりよくなかったような森田とは違って立ったまま、つまり箒で地面を掃除する格好で書くので、紙にかなり接近して書く森田のような気迫は減じて感じられた。高校の書道部の女性たちが井上と同じく立ったまま、体育館などに広げたもっと大きな紙に激しい動きで書く様子はたまにTVで紹介される。それは戦後の前衛書道家たちに倣った書き方かもしれない。そう考えると、井上の書は今では高校生でも即座に真似が出来るもので、井上の書の市場価格が1000万円ということに納得が行かない人は多いのではないか。ではなぜ没後3年に大規模な展覧会が開催されたのか。『大きな井上…』は『森田子龍と「墨美」』展よりも4年早い。もっとも森田は同展以降も生きたので、井上のような没後の大規模展の開催は当時先送りになったが、では森田の没後に『大きな井上…』のような回顧展が開催されたかと言えば、それはなかった。その理由は森田が長生きして前衛書のブームが去っていたという説明が出来るかもしれない。だがこれも門外漢の筆者の勝手な想像で、実際のところはわからない。ともかく森田の作品展は『大きな井上…』のように国立近代美術館では開催されず、井上のほうが森田よりも人気があるように感じる。森田は兵庫県生まれで長らく京都に住み、井上は東京生まれでその後関東を拠点にしたにもかかわらず、京都国立近美で回顧展が開催された。また同館は作品を所蔵するから、井上の人気は森田を圧倒していたのかもしれない。その理由を穿てば、井上はひたすら無言で制作したのに対し、森田は伝統に根ざした理論家で、言葉は悪いが、理屈が多かったからではないか。
美学者、美術評論家は言葉を扱う職業で、彼らは美についての理論ないし理屈を操る自分たちの立場を侵害するような行為を、書家を含めた美術家が積極的に行なうことをあまり快く思わないだろう。森田と井上の交流について詳しく書いた本の存在を筆者は知らないが、森田は井上らとともに墨人会を結成し、書に関する雑誌『墨美』を長年京都から発行し続けたが、『墨美』における貢献度は森田が圧倒した。それは井上が関東に住んでいたことだけが理由ではなく、作品の原点の違いから言える。『大きな井上…』には井上の言葉やそれらしきものは書かれず、井上と交流した人たちによる井上像が語られる。また井上は最初期に太い刷毛を使ったかのような黒一色の抽象画を描いている。4枚目の写真がそれで、左右の2点とも55年の作だ。同時期の同様の作は『大きな井上…』では8点展示された。これらはケント紙にペンキ類で描かれたが、漢字が読めない人にはこうした抽象画とその後の和紙に墨で漢字一字を書いた作との区別がつかない。抽象画から書に進んだ理由はわからないが、森田らの前衛書道の活発な動きを見て、意味を持つ漢字を書くことに可能性をより認めたからだろう。極太で黒い筆致の激しさはそのままに、漢字を知る人なら誰でも意味を知る題材を選ぶことは、見る者からすれば解読、解釈の方向性が示される。そのことによって抽象画のような自由な読み取りが狭められるかと言えば、そうとは断言出来ない。また意味を持つ漢字を書く方向に進んだことは、文学趣味、言い換えればロマンティシズムを感じさせる。それは最初から漢字を書いた森田以上にそう見える。先に森田は理屈っぽいと書いた。論を唱えて筋道を立てて自作に対する鎧をまとったかのような森田に対して、井上は日本人が抱く漢字に対する心象性、それをロマン性あるいは文学性と言ってもよいが、つまりは一字による詩文のような書の作品を目指したかに見える。森田と井上は作者名がなければどちらの作かわからない時期があって、その意味では森田も一字書による詩を目指したと言えるが、両者を比べると井上によりロマン性がある。それに対して森田の作をもっと硬質と言い切ることは無謀かもしれないが、井上の作は何かに憤りながら純粋な心や生き方というものに憧れ、自らの生涯をそれに合致させようと常に心掛けていたような感じがある。今日の3枚目の写真の井上の顔は俳優のような雰囲気がある一方、現代の禅僧という印象も伝える。禅僧の書は森田も視野に入れて『墨美』でよく紹介したが、禅僧には書のみに徹することは本来ないから、井上も森田も一気に思いを爆発させる書の書き方によって激しく自己主張する純粋な生き方を希求したと言ってよい。日本独自の書の文化を考えた場合、優美さはさておき、最も迫力のある書は禅僧によって書かれた。森田らの墨象は禅僧の書と西洋の前衛美術の双方にまたがっている。
『大きな井上…』で筆者が最もよく思い出すのは、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩文を鉛筆で書いた作品だ。鉛筆ではなくてコンテかもしれないが、いずれにしても太い筆による一字書とは違って、児童や生徒によるノートの下手くそな縦書きに見える。『大きな井上…』の図録に井上が顔真卿を臨書している写真があるが、それはかなり後年のことで、森田の影響ではないだろうか。井上は小学校か中学校の先生を定年まで勤め、最後は校長にまでなったが、黒板に書く文字は子どもたちが読めないほどであったという。ここは森田とは大違いだろう。井上の最初の作品として墨象的前衛絵画が位置するのは、書を得意としなかったからにも思える。書を強く意識してはいたが、美しく書く能力がなく、それで書を解体したような抽象画を描いたと思えばどうか。前衛書は文字をかなりデフォルメするので、きれいな文字を書く能力は必要ないと思われるであろうし、そのことに関して井上は森田よりも確信があったのではないだろうか。つまり形は崩れていても作品全体から立ち上る香りが美しければよしとする考えで、その点では井上も森田も思いどおりの作を書いた。また彼らの書を見ると、手本どおりに美しく整った形の文字を書く能力は却って邪魔であったのではないかとさえ思える。ではなぜ井上は顔真卿を臨書したのか。美しく整った漢字のひとつの代表である顔真卿を臨書することは、漢字の基本の神髄を学ぶことだ。そのことと彼の前衛書がどう関連しているかとなると、漢字だけではなく、美をどう捉えていたかの深い問題に分け入る必要がある。美とは何かを書家も画家も考え、それぞれに独自の解釈を下しながらこうあるべきという作品を模索し続ける。書という瞬発の芸に美を宿したいのであれば、普段から書のことを考え、また盛んに書くことを続けねばならないかと言えば、そうとは限らないという意見もあるだろう。毎日書ばかり書いていたのではないのに見事な書を書く禅僧は今もいるはずだが、造形の才能はある程度は修練を積まなければ形にならない。また他人からはうかがい知れなくても、内面に持続させる美ないし美の不思議に対して常日頃視点を定めておく必要はある。そういう作家魂としての生き方に応じた作品が生まれると、曖昧なことをここでは言っておくが、そこから井上を見れば、教師生活以外の時間を書に捧げたと言ってよく、その一途さが作品に反映したと思われやすいところに、井上の人気の理由がある気がする。先に黒板の文字が下手と書いた。そのことも美しい文字を書くよりも天才前衛書家のイメージにはよいように働く。子どもに笑われるような字を書くような先生が有名な書道芸術家であることに、人々にとっては井上の作品の破格さがよりロマンティックに印象づけられる。小手先の美しさにこだわらない全人格的な美に人は賛辞を贈る。井上はそのわかりやすい例であろう。
井上は1916年生まれで、筆者が小中学生であった頃の先生を思えばよい。それに今はどうか知らないが、筆者は小学生で「雨ニモマケズ」を学んだから、井上はその詩を教える立場にあったし、実際にそうしたろう。『大きな井上…』には、教師の井上が教育委員会か何かの席で面接を受けた際、趣味を尋ねられ、「雨ニモマケズ」を記した宮沢賢治の手帳の複製品をおもむろに出したことが書かれる。目下の趣味と言えばそれしかないというほどに宮沢の人生、そして「雨ニモマケズ」の詩に感心していたのだが、小学生の筆者にもその詩はあまりに強烈で、現在に至るまで思い出すたびに胸に湧き上がる力のようなものを感じる。井上は「雨ニモマケズ」以外に鉛筆で宮沢の童話、草野心平や蘇軾、さらには自作の詩などを書いているが、どれも悪筆と言ってよく、手本として使用される美しく整った文字を書く思いがなかったか、あるいはその能力がほとんどなかったことを示している。美しく書ける能力があれば、素早く書いても美しさの片鱗を覗かせるし、またそれが恣意的になれば嫌味が露わになるが、井上の書はあえて下手に書いて嫌らしさを狙ったようなところがなく、普段書く字がこのような作品どおりの下手さであったことがわかる。3枚目の写真はそうした詩文を書いた紙をしわくちゃにして抱える姿を捉えたもので、その没作品が『大きな井上…』に出品された同類の作品とどう違うのかが興味あるが、同じように下手に見える作品でも井上にとっては没にすべき判断基準があったことがわかる。しかしその美意識は没作品とそうでない作品とを比較せねば吟味のしようがない。森田や井上の前衛書は墨の飛沫や少々の形の歪みは全く問題としないと言ってよいから、井上のコンテによる詩文は興に乗って量産する中で手応えが得られたものを作品として生かし、そうでない作をおそらく没にしたと想像するが、『大きな井上…』に展示された作は書き損じた箇所は斜線などで乱雑に消した跡があって、やはり没作品がどういうものであったかが気になる。これは井上に繊細な美意識がどれほどあったのかという疑問があるからだ。あるいは繊細さをどう捉えていたかだ。これは美とは何かという思想と関係する。繊細という言葉の基準をどくに置くかという問題もあるが、井上のような作品において、彼自身が認める作と没作品があったことは、繊細の意味合いが非常に把握しにくい。これが手本どおりに美しく書く書ならば、たいていの人にはわずかな一点一画で繊細さや美の優劣具合がわかるが、正統的な美から極端に外れたと言ってよい井上の作品を見れば、どのように書いても合格であったのではないかと思わせられる。しかし前衛であるので正統を否定する態度を貫こうとすることは理解すべきで、新たな美の発見のために伝統にがんじがらめになっている書から外れるという意識も汲み取る必要がある。
それはさておき、猛烈に書き続けなければ作品と呼ぶべきものは生まれない。つまり自分で納得出来る作はものに出来ない。そう思って筆者は88、89,90年の3年間、鉛筆で毎月びっしりと横書きで文字を連ねたB5サイズの手製用紙100枚の手紙を書き続けた。大量に書くことで自分なりの書体を獲得したかったからで、猛烈な速度で書き連ねた文章のどの行から適当に文字を抜き出しても自己の個性があるとの自負が得られるようになった。それらの書き文字はひとつ当たり、7,8ミリ四方であったが、数十倍に拡大しても均衡を保つことを実感した。友禅のホームページで紹介したが、3年間の各年の最初の1枚の冒頭の文字3つを拡大して綿地に染め抜き、それを半分の大きさに縮小した手紙のコピーを3冊として製本した時の表紙に使った。その本は30代後半の手紙の集大成であると同時に独自書体を獲得するための練習の記録となった。このブログはその3年間の手紙を基礎としているが、ワープロやパソコンを使っての執筆で、せっかく得た独自のこなれた書法は失われた。手で文字を書くことがめっきり少なくなったからだ。文字を実際に書くこととキーを叩くことでは、便利さを得る代わりに失われる何かがある。しかし下手くそに見える井上の詩文を書いた作は文字を書き慣れない人に勇気を与えるだろう。指先でキーを押すのではなく、指で鉛筆やコンテ、筆をつまんで全身で書くという行為ならではの味わいは絶対的に存在する。義務教育で今は書道の授業が必須かどうか知らないが、ダンスは盛んに教えられるようになり、指や腕を動かして書く書から全身のもっと激しい運動へと変化したことは、身体にはいいことだ。ただし音楽と同じように一瞬で消え行くダンスと違って、書はモノとして残る。普通の人の下手な書はほとんど残らないが、井上のそのように見える書は美術館で展示され、鑑賞者にさまざまに考えさせる。それにダンスは還暦を過ぎれば激しい動きの美を見せることは出来ないだろう。話を戻して、井上が詩文を書いたことは森田とは大きく異なる。森田は初期に全体のバランスを考慮して仮名混じりの詩文を書いたが、それは文字どおりの美と言ってよい作だ。出発点が全然異なる森田と井上が、同じように見える墨象作品で評価されることになったのは、同じ時代の空気を吸ったことで説明出来るだろうが、森田が書から出発してそこから出なかったのに対し、井上は墨象的な抽象画から意味を持つ漢字一文字や、詩文を書き損じ込みで作品化したことは、より文学への接近が強かったからだ。その態度は森田にとっては軟弱に見えたであろうか。しかし森田が文学性によりかからず、漢字のみの強固な造形性の可能性を追求するという立場にあったかとなれば、井上と同じように意味を持つ漢字を書いた。
意味を持たない漢字はないが、ここで言いたいのは発音を重視せず、あくまでも漢字の意味するところに注目して題材とする漢字を選んだことだ。たとえば井上は「花」や「貧」をよく書いた。前者は誰もが好きな漢字だろうが、「華」を書かずに「花」であったことは、日本ではわかりやすいが、中国ではどうだろう。「貧」は井上の経済事情を暗に示しているのか、あるいは高度成長を遂げて心が貧しくなった人たちを皮肉っているのか、おそらくその双方と思うが、堂々と貧なる生活に甘んじながら黙々と制作三昧の日々を送る覚悟は誰しも想像するだろう。『大きな井上…』の図録には、借家住まいの井上が部屋を墨で真っ黒にしてしまったため大家に苦情を言われ、井上が小さな掘っ建て小屋を手作りし、そこで大画面の書の作品を制作したことが書かれる。酒を飲んだのかどうか、経済事情も含めて井上の生活の詳しいことは図録に書かれないが、教師の生活の傍らの制作は、表具代を含めての制作費用がどうにか賄えるだけの余裕しかなかったことを想像させる。それは作品が売れなかったことを前提にするが、生前の井上の書がどの程度市場で売れたのかどうかも筆者は知らない。金に興味がないと言えば、今は昔よりももっと信じない人は多いだろう。しかし作品制作がどうにか出来る経済力があれば、ほしいものは制作する時間のみであって、作品を売ることに無関心という作家はむしろ多いだろう。井上はそういうタイプであったのではないか。そして売れる、売れないに関係なく、自作に対しては厳しく、他者にはわからない没基準があった。そういえば、筆者が染色工房を主宰していた時、筆者が下絵を描いた尻から消しゴムで消してしまう様子に驚き、どこがどう気に入らないのかさっぱりわからないと言った人がいた。ごくわずかでも自分の意に沿わない部分があれば没にするのは当然だが、その箇所は絵を描かない人にはわからない。それと同じことは書にも音楽にもあるだろう。作り手が気分に乗って気持ちよく表現し得たかどうかで成功か失敗かに分かれると言ってよいが、いい作品であるとの自認をやがてそうではないと否定したくなることはままあり、またそのことが他者に納得出来ない場合もよくある。そのため作者は作品が作者の手を離れると、あまりくよくよ考えずに次の新たなことに挑戦すべきで、井上も前衛絵画から違和感なしに前衛書に進み、また一字書から詩文をコンテで書くことにも挑んだ。改めてそれらコンテによる詩文作を図録で見ると、それらの最初に「遺偈」があることに気づく。遺偈は禅僧が死の間際に弟子に支えられて書く文章のことで、禅僧の人生を締めくくる重要な作と言ってよい。死の直前、半ば意識が朦朧とする中、筆で文字を連ねる行為は修行を続けて来た気力あってのことで、その慄然とさせる遺偈に倣って井上は死ぬ3年前の82年に「遺偈」を書いた。
「雨ニモマケズ」を筆者は教科書の活字で初めて知った。詩文としては手書き文字でも活字でも意味する内容は変わらないが、手書き文字はたとえば芸能人や有名人のサインがありがたがられることからして、活字にない魂を感じる。それで小説家の自筆原稿も価値があるとされるが、パソコン時代になる以前にタイプライターはあったし、手書き原稿に意味を置かない小説家はいた。禅僧の「遺偈」は書かれた詩文よりもその尋常ではない迫力に見どころ、価値があって、井上は自作の書にそのことを求めた。もちろんそれは森田やその他の前衛書家も同じで、書かれた文字が本来持つ意味と、デフォルメされたゆえに増すイメージの豊かさとが混同するところに、抽象画に近いがそれにはない持ち味が盛れる可能性を見た。「花」の一字書から鑑賞者はどのような花を想像してもよく、またどのような花にもある命の短さとそれゆえの独自の美に思いを巡らす。図録から一字書を引くと、「秦」「夢」「愚」「関」「円」「山」「属」「風」「塔」「狼」「鳥」「狐」「瓜」「舟」「上」「心」などがあって、森田も書いた漢字を含むが、これらの一字を井上がどういう理由で選んだかはわからず、鑑賞者が自由に考えるしかないし、そこに禅問答を解くような面白さはある。話を戻して、書が芸術として成り立つ理由は書き手の個性が見られることにある。しかし活字も人が作ったものだ。素人にはほとんど見分けがつかなくても作者の工夫、個性が宿っている。ただし一定の面積の枠内に収まる活字と違って、前衛書は文字のデフォルメが著しく、またその崩し方に書家独自の決まりがあるとは到底見えず、その意味で安易に書かれている印象は拭えない。その点で森田や井上の書は子どもや素人が簡単に真似が出来、おそらくそうした作品の良質なものは森田や井上の書以上に風格を備える場合があるかもしれない。そのことを森田や井上が否定するとすれば、その根拠は自分たちが生き方として書に命をかけていると言うだろう。それに書に対する造詣も一般人とは比べものにならない。しかし、どのような人でも独自の人生を歩んでいるし、井上の達筆とは言えない書を見れば、同じ筆と紙を用意されれば同じような書を書けると主張する人はある。そのことから、前衛書を「はったり臭い」と思う人は後を絶たないはずで、中には収入目当てで模倣し、独自の書風を築く人もいるだろう。森田や井上はそれを否定しなかったはずで、むしろ書が一般に浸透することを歓迎したのではないか。金目当てに俗っぽさ丸出しの看板文字を書く人は、結局その領分に留まっていて芸術とはみなされない。芸術を気取り、大家とみなされる俗受けする書家とて書の広がりには貢献していて、やはり問題とするに当たらない。結局のところ、作品、作家の評価は時代が定めて行くが、それとて絶対的ではあり得ず、また鑑賞者個人も好悪を優先する。
何年か前、ある女性と展覧会に訪れた時、禅僧の書の前で彼女は「好きでない」と嫌な顔をした。彼女は書を嗜んでいて、筆者はそれを見たことはないが、臨書を基礎にした正統的なものだろう。禅僧の書は本人が意図してのことか、あるいはそうでなくても、個性が強いものが多い。そして時として破格と言えば聞こえがいいが、勢いだけに取柄があって、美を意識しないものがある。書が人柄を表わすのであれば、彼女は展覧会場の壁にかかる禅僧の掛軸からそれを書いた人物を思い、その人物には対峙したくないと直観したのだ。これは個人の好悪の問題に過ぎず、彼女や彼女と同じ思いを抱く人がいくらたくさんいようが、その書は昔から評価されて来たのであって、今後も大事にされて行くことはまず間違いないと言ってよい。もちろんそのことを彼女は熟知しながらそうつぶやいたのであって、世間のそれなりに定まった評価と個人の好き嫌いは別問題だ。そこから推すと、井上の書に芸術性を認めない人はおそらく大勢いるし、またそれを言えばどのような芸術でもそうで、美に対する価値基準に絶対はない。だが美という言葉がある限り、美とそうではないものを人間は分けて認識する。「貧」の一字を大きな和紙に墨で書くとして、顔真卿のような整った形を美しいと古来人は思って来たところに、井上はその古典美の約束事を無視し、形を大きく歪めてそこに面白味を見ようとした。あるいはそういう作為もなかったかもしれない。井上が教師生活の傍ら、書の制作三昧に生きたことが芸術家として尊いかとなれば、それは作品をわずかに装飾するロマンティックな物語に過ぎないのではないか。少なくても教師という収入の安定した生活があったし、もっと経済的に苦しい状況で、たとえば井上のように鉛筆で有名な詩をノートに書き連ねる日々を送る、無名の書家とも言えない人はいくらでもいるだろうし、今すぐにでも出現し得る。もちろん井上はそういう人のそうした作品を無視せず、自作よりも素晴らしいと思う心の広さはあったに違いない。だがそうした無名の人々の同様の、あるいはそれが井上の作を知らない、自己流のひとまず作品と呼んでいいものは、今では「アール・ブリュット」としての評価が下される。井上の書がそのように分類されないのは、墨美の団体を立ち上げ、美術の一分野であるとの自覚と行動を伴ったからだが、井上の作品に初めて触れる人はそういう作家の背景を知らず、先の彼女が名前を知らない禅僧のある書に嫌悪感を示したのと同じことが井上の書にも起こり得るし、実際そのとおりだ。そこで筆者はどう思うかという問題に収斂する。最初の方に井上の顔は俳優らしいと書いた。では禅僧は禅僧を演じているのかという疑問が湧くし、誰しも人生を演じているという問題になる。井上は禅僧の「遺偈」に感化されて同様の自己流の書を書いた。そこにも演じている雰囲気はありありとある。
禅僧的生き方、言い換えれば禁欲的に井上は書三昧に生きたが、禅僧では決してなかった。禅僧の「遺偈」は弟子たちによって師の人生の完結を象徴するものとして大事に保管する。井上が本当に死の間際に妻に支えられ、気が遠のく中で「遺偈」を書いたのであれば、それこそ本物の「遺偈」と言ってよいが、その後3年も生きて宮沢賢治やその他の気に入った詩文を美しく書こうという意識が全くないままにいわば殴り書きし続けた。その強烈さを好む人があるので、井上の書は1000万円の市場価格となっているが、そのことを無視して作品に対面した時、それを美しいと思い、自宅の壁にかけたい人ばかりでないことは確かなはずだ。生き方が一徹であったので、その人の書や絵画が美をまとうということはあり得ない。その決まり事があれば美で名を挙げることは簡単で、誰でも真似する。筆者が思う美は、作家の生き方がどうであれ、作品そのものに厳格さ、真剣さ、完璧な形式あって、細部と全体に緊密で強固な関係があるものに宿る。そして筆者はそういう作品を好み、井上の書はそれなりの美を感じるものの、それを反芻したいとは思わない。それは反芻する価値が乏しく、一度数秒見ればもう充分という気がする。それで40年前の『大きな井上…』も昨日見たように記憶している。これはわかりやすい芸術との意味でもあるし、わかりやすいことは「飽きやすい」の意でもあって、あまり評価するに当たらないと言い換えてもよい。井上が臨書した顔真卿は失われたのだろうか。『大きな井上…』でそれがなぜ展示されなかったのかと思う。井上が古典の書を臨書したことは謙虚に学ぶつもりであったのか、カメラマンを前にしての「一応古典の書も学んでいます」とのポーズであったのか。写真から見る限り、かなり忠実に写していて、井上はいわゆる古典的書の美しさを知り、それをそっくり写す実力はそれなりにあった。そういう彼が古典の束縛を破るために禅僧の書のような破格を身につけようとしたことは、ロックの時代の書道家とみなせばとても理解しやすい。井上の書家としての人生は戦後の高度成長時代と軌を一にし、それはまたロックンロールからもっと激しいロックへという時代でもあった。井上が音楽を好んだかどうかもわからないが、時代の空気に敏感に反応したことは最初期の前衛絵画からも明白で、それゆえ『大きな井上…』は副題に1955年から85年が記された。これはその30年をじっくり吟味すべしとの意味合いを持つ一方、では85年以降30年以上経った今、前衛書の世界はどのようになっているのかという疑問ないし興味を喚起させ、また紙と筆、あるいはペンでも鉛筆でもいいが、小学生でも簡単に入手可能な道具によって芸術が作り出され得ることを井上は証明し、それは彼が教師であったことを明かす。しかし義務教育はタブレットを導入し、紙と筆記用具は駆逐されるつつある。
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