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●『ラウル・デュフィ展-美、生きる喜び』
デュフィ展がまた開催された。15日に心斎橋大丸で見た。手元の古い図録には5種のデュフィ展のチラシが挟んである。そのすべてを見たが、最初は1978年10月、大津の西武ホールで開催されたもので、それ以降図録は買っていない。



●『ラウル・デュフィ展-美、生きる喜び』_d0053294_272140.jpgデュフィの素早く自在に動く筆跡を見ると、どこか日本の俳画に近い流麗さ、簡素さが感じられて心地よい。それは素描でも水彩でも油彩でも同じで、とにかく思うがまま滞りなく絵が出来上がって行ったかのようで、描き過ぎで失敗という箇所が見られず、逆の不足も感じられない。これは並々ならない才能だ。考え込む前に絵が完成しているといった一種の気軽な発動力がなければ無理で、そういう才能はそれこそ毎日描いていなければすぐに錆びつく。その意味で画家の中の画家という表現もふさわしい。そんな速度感のある画家の絵は何か重厚な思想というものが欠け、あまり大きな評価を下したくない評論家もいるだろう。目だけの楽しみに終わっているというわけだ。だが、画家もさまざま、絵もさまざまであるので、デュフィのような絵があっていいし、またなくてはならない。深い思考もけっこうだが、そういう画家が最期は自殺で人生を締め括ったとなると、絵を見る方はやはり辛い。芸術が深刻なものばかりでは人生は耐え難い。生涯を生の謳歌に徹する芸術家が自殺してしまう芸術家より価値が低いことなどあるはずはなく、デュフィ展が日本で何度も開催されるのも多くの人々にその絵が愛され、それなりの意味があるからだ。だが、日本での圧倒的な人気があるゴッホに比べると、あくまでも軽い画家として普段あまり気にかけられない存在で、どちらかと言えば玄人好みだ。実際、絵を描いている人にファンは少なくない。簡単に描いているようでいて、その的確な描写がよく理解出来るからだ。日本での人気が一般的にあまり高くないのは、紹介されて来た経緯も関係するが、ゴッホとは違ってその後を継ぐ作風の画家が現われなかったからでもある。芸術家の偉大さを計るひとつの指標はどれだけ追随者を生んだかにあって、その意味ではゴッホよりはるかに孤立している。どんな画家でも孤立してはいるが、流派といったものを形成しない場合はさらにそれが言え、デュフィは誰にも影響を受けず、また与えずに立っている。それは近代、現代の芸術家のすべてが望むところだろう。そのような本当の独自の才能をフランスがたくさん生み得たことはやはりたいしたことだ。日本ではまずそれはない。模倣から始まってほとんどそれから抜け出られないか、抜け出てもそれが多くの人を打つような作品群にはならない、あるいはなり得るものであってもそう評価はされない。個性というものの捉え方の違い、社会がするその容認の仕方の差があるからだ。
 デュフィがどれくらい作品をたくさん描いたのか知らないが、美術出版社から昔出ていた『巨匠シリーズ』のデュフィの巻の冒頭にある大きな油彩画は、伊丹市立美術館に所蔵されているものとほとんど同じ絵で、そうしたものも含めておそらく膨大にあるのではないだろうか。素早く、また簡単に描けてしまう絵であるのでそれは当然だが、先にも書いたように、たくさん描くことで獲得した技術であるため、自転車操業的に次から次へと描いたという印象がある。そのため、何年かごとに見るデュフィ展はあまり大きな期待はない。何かしっかりと記憶にとどまる作品というものがなく、たくさんの作品全体から発散している空気を味わってそれで満足という気分になれるからだ。1点ずつが完成度が低いと言いたいのではない。みな1個の作品としてそれなりの独自の世界を持っている。だが、個々の絵よりも、絵から浮かび上がる精神と言おうか、その洒落た絵画世界がみな共通して幸福感に満ちた楽しいものであり、それを感得出来ればもう充分という気になるのだ。何か特定のモノを強調してしっかり描くというよりも、そのモノの形や色が合わさって取り巻く環境もひっくるめてデュフィは常に見つめつつ絵を構築する。したがって、その絵を見る者は、モノでもいいし、モノとモノの間の空気でもいいし、また描かれている天候や気温でもいいし、あらゆる部分や全体に視点を移しながら、そこから鳴り響いて来る音楽的とも言える味わいに浸れる。音楽は鳴り終わってしまうともうそれは記憶の中にしかないが、デュフィの絵にも音楽に似たところがあって、絵の前に佇むとすぐに音楽を聴くような気分が一気に訪れる。そして、後でこうして思い出すと、遠くに音楽が鳴っているという感じだ。音楽は形としては楽譜や楽器くらいしか実態はないが、デュフィの絵もそれと同じで、カラフルにモノで彩られた一種の楽譜のようなところがある。楽譜なら音楽を解する者にしか実際の音は実感出来ないが、デュフィはかなりパターン化された確たるモノや、また文字どおり波や花模様などのパターンを同居させることで、誰にでもわかりやすい歌心のようなものを伝えている。そしてその音楽は重厚な交響曲のようなものではない。もっと聴きやすい小品だ。深刻ぶることはないが、軽薄ではないというのが絵の特徴で、人物、静物、室内からもっと外の広々とした場所まで、ありとあらゆるものを描きながら、どこにも共通した優美さや温かさが備わっている。
 幸福感いっぱいの不幸とは無縁のように見えるデュフィは温暖な南フランスの生まれではなく、セーヌ川が注ぐ人工の港町のル・アーブルに1877年に生まれた。つまり、北方育ちだ。それに9人の子のひとりとして生まれ、9歳で小学校を終えて就職し、会計と営業を担当した。苦労人なのだ。15歳の頃、働きながら市立美術学校の夜間部に通い、そこでカバネルの生徒でアングルを尊敬する教授に教えられ、またオトン・フリエスやブラックと出会った。これは大きい。将来名を上げるには、才能のある先生につき、また同じ志を持つ才能のある人物と出会う必要がある。21歳からは2年間兵役に就き、復員後1900年にはル・アーブル市から与えられた月100フランの奨学金を得てパリに出た。そこでまたフリエスに出会い、その後ブラックとも仲よくなって、各地を旅行したりするが、1905年にマティスの絵を見て印象主義からフォーヴに転向したことは大きい。1910年には南仏に旅行し、翌年服飾デザイナーのポール・ポワレとの友情から服地の印刷のために木版画を制作し始める。このことがきっかけで、翌年にはリヨンの織物業ビアンシニ=フェリエと契約し、染織デザイナーとして1928年まで仕事をしたが、今回の展覧会は会場の後半部を使用してそのことに大きく焦点を当てた内容となっていた。今までのデュフィ展でも多少はこの方面の仕事が紹介されてはいたが、断片的なものにとどまっていたから、今回は別の才能をよく知るにはうってつけのものであった。こうしたデザインの仕事をしたのは収入確保の理由もあったろうが、アール・デコ時代を迎えて、装飾ということが美術にも課題として押し寄せて来ていたなか、それまでの自身の芸術を布地で表現し、装飾性が絵画性とどのように関係するかの数々の実験が出来る場があると考えたことが大きい。だが、繰り返し連続模様が前提であるそうした染織デザインの絵と水彩や油彩画との関連はあまり顕著には見られない。当然モチーフは共通したものが少なくないが、前者はあくまでも量産を限定とした、しかも用途を考えたものであって、デュフィならではの自在に筆が動くというものとは異なる、輪郭線がはっきりとして少ない色数によって表現されたものだ。几帳面な性質がよく見え、絵画とは違った独自の魅力が溢れている。デザインした生地は今も定番商品として売れているものがあり、その大胆な絵画模様からはモダン生地デザインの先駆を行っていた姿が見える。それは画家として培った才能があってこそだ。消耗品的な服地デザインでも本格的に絵画を学んだ者にしか優れた作品が生めない。
 ビアンシニ=フェリエ社は最も息の長いデザイン社のひとつで、婦人服とインテリア用高級生地のデザインから製造、販売までを行なっている。初めは3人で設立され、1900年のパリ万博でグランプリを獲得するなど数々の賞を得た。ビアンシニ=フェリエとなったのは1913年で、2002年にはリヨンのセドリック・ブロシェ・ソワリ社に移り、現在もビアンシニ=フェリエ・デザインの製造が続けられている。1910年代、ビアンシニ=フェリエ社はパリのオペラ座通りにも事務所をかまえていて、デザインの点数やスタイルを任されていたデュフィは毎週その事務所に赴いてビアンシニに売れそうなデザインを選んでもらっていた。一方でポワレとの友情は続いていて、1925年の国際装飾芸術展では彼の船を飾る14の壁掛けを制作して成功するが、その後ビアンシニとの契約を解除しているから、もう染織デザインではやるべきことはみなやったという気になったのであろう。それは今回よくわかった。それほどデュフィの染織デザインの仕事は多様で、具象から抽象までありとあらゆるものがある。実物の染織品と下絵が展示され、油彩では素早く気軽に描いているかのようなデュフィが、方眼紙を使用して厳密な絵を構成していることが興味深い。つまり、素早く描かれたような絵でも実際は形や色などしっかりと計算されたもので、何事も簡単には事が運んでいないことが伝わる。また、いくら想像力が豊かとしても、染織デザインのモチーフは普段絵画でよく表現しているものと同じようなものが登場するし、一方別の版画作品などをきっかけにしてそれを染織デザインに転用しているところも、いかにも絵画とデザインのつながりを思わせて面白い。同じ人間がする、同じような絵の仕事であるから、それは当然だが、絵画から染織デザインへの影響はあってもその反対はあまりなかったようで、そこがやはりデザイン仕事を生涯のものとする気がなかったところだろう。
 デュフィは1910年にアポリネールと知り合い、『動物詩集』のために木版画を制作したが、それは後年ビアンシニ=フェリエの織物デザインにも応用された。「象」(1920-22)、「象と葉叢」(1925)がそれで、前者は黒い象が緑色の背景に描かれ、金色と黒の曲線で埋まり、後者は黒象に銀、朱、薔薇色の葉に背景が銀色だ。こうした独特の限られた色彩世界はデュフィの絵画にはないもので、わずかな生地断片でも額に入れて飾りたくなる個性と豪華が見られる。象は人気のあったモチーフでさまざまに展開された。「ジャングル」(1919-22)はデュフィが手がけた最も長く人気のある絹織物で、象や豹、日本風の流線模様が表現される。色違いなど多くのヴァリエーションがあり、ジャポニズムも含めた奇妙な異国情緒が漂って面白い。「小さな象のための習作」(1922-24)は、同じく象を中心に扱ったデザインで、5点の色違いが展示されていた。デュフィの象はみなかわいらしく、今で言うキャラクター商品的な省略と誇張があって、女性に人気を博した理由がよくわかる。また「亀」「ペガサス」「オルフェの行列」「チベットの山羊」などのタイトルからもわかるように、他の動物などを扱ったものもあって、自在なモチーフの編み出しを認識させた。ある種のものは古代のコプト織や正倉院に伝わる織物のデザインに負けないほど完成度が高く、しかも絵として見ても詩的な印象をたたえていた。それは織物の限られた色数とくっきりとした仕上がり、絹の光沢といったことが強く関連したもので、デュフィ自身が下絵とは違う完成品を見て感嘆したであろう。染織デザインの仕事は1919年1ら31年まで続いたが、全体を通じて見られるのは花のデザインで、これは当然だ。薔薇、百合、カラー、朝顔、アマリリス、アスター、立葵、ポピー、矢車草、デイジーなどが描かれた。ポワレとの仕事はプリントであるから、織物よりも絵画により近い仕事となっている。モダン・デザインの登場とともに風俗画モチーフは廃れ、代わって社会習慣や娯楽、流行、技術革新をたたえる主題が登場したが、こうした現代的な主題を扱ったデザインはデュフィしかやれない仕事として準絵画的な面白さを伝え、染織デザインでは群を抜いた仕事となっていた。「ダンス・ホール」「テーブル、フルーツ、オウム」、「パリのモニュメント」がそれで、「ダンス・ホール」はホールで踊る男女や給仕などを小さくびっしりと描き込む。左右上下方向に送りがある繰り返し模様であるため、どこかで絵のつなぎを作る必要があるが、多少プリント時の版の送りがずれてもわからないように、複雑な絵のしかも通常ではまず考えないような複雑な箇所で絵を切り取っていることに感心した。色は黄色と濃いピンクであったと思うが、やや離れて見ると何が描かれた模様かわからないのに、よく見るとちゃんとした絵になっている。もうひとつ大きくジャンル分け出来る染織デザインとして純粋な幾何学模様がある。これはフランスではバウハウスやウィーンの影響を受けて1923から4年にかけて出始め、数年後には花模様を圧倒するまでに人気を得た。デュフィは具象的なモチーフを抽象的コンポジションから切り離すことはなく、1919年以降は両方のスタイルで並行してデザインした。「鱗」(20世紀前半)はそんな代表作で、日本の青海波文様の一番外側の曲線だけを連ねたものを思えばよい。実際の鱗はそのままで抽象的であるし、そこに目をつけたわけだ。こうした作品は絵画とはあまり相入れないものであるし、やがて染織デザインの仕事をやらなくなったのもわかる。当時の他の画家たちに同じような仕事がどの程度あるのかないのか知らないが、今回は今までのデュフィ像に大きく付加すべきものを提示しており、その偉大さは今後再評価されるかもしれない。
by uuuzen | 2006-04-27 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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