「
僥倖を 思い浮かべず 出かければ 広き道にて 行幸に遭い」、「電力を 起こさぬ蔦の 繁茂でも 部屋は涼しき 目にも楽しき」、「メモ見られ 揉めることあり 危惧すれば 人を秘密の 世の器具と知る」、「熊蜂の 羽音のそばに 匂い花 生き物すべて 一心不乱」
今日の投稿でブログを始めて丸19年になる。中途半端にしたままのことが山積し、気がかりを少しでも減らそうと日々足掻いているが、その中心を成すのは読書だ。本を読んで新たな着眼を得たいからだ。それは筆者の関心事の芸術全般に言える。いちおう筆者は染色作家であるので、生地に染料で染めることが本職だが、注文がなければ作品を作らないという態度を通さず、
むしろ注文とは無関係に創作して来た。それには時間も費用も必要で、誰からの援助もなく生活を続ける中でよくぞ続けられて来たと思う。exciteブログは最近投稿を有料で読ませる仕組みが出来た。筆者はそのことに関心がなく、相変わらず誰でも無料で読めることにしている。そのことがありがたがられない原因であることは知っている。人は金を出したものに価値があると思うのであって、無料のものを無視する。さりとて無名の者が有料で何かを表現してもほとんど誰も着目しないから、無料でも見てほしいということになり、そのことがネットによって容易になった。この19年間、筆者はこのブログをより多くの人に読んでもらいたいとはますます思わなくなった。先日総合ブログランキングで1位になったが、何かの間違いであるはずで、またそうでなくても別段嬉しいとも思わない。もちろん収入があれば嬉しい。ただし、そのためになりふり構わない姿勢は見苦しい。そういう気位の高い貧乏人をとあるお笑い芸人が嫌悪していたことを知ったが、彼の顔や言葉、全人格は醜悪の権化そのものに見える。世の中はYouTubeにしてもより多くの人が見れば投稿者への収入が増える仕組みが構築され、かくて通俗的なものほど人気を得、名声も得る。誰もがその競争に参加する必要はないと考える筆者のブログはいわば人知れず咲いてすぐに枯れる花のようなもので、そこに美の片鱗はあり得るとの矜持くらいは持っている。ところで、筆者は30歳になる直前に公募展に友禅染めのキモノを出品して百万円の賞金つきのグランプリを受賞した。その題名は「5月の風と雲」だ。技法も抽象的画題も斬新であったとの自負がある。その作品を毎年5月になると思い出すが、幸いなことにそれから42年経つ現在、夫婦ともに歩行に不自由を感じず、天気のよい今日はふたりで嵯峨のスーパーに出かけた。桂川河川敷の中の島公園にある古い藤棚は花がすっかり枯れて熊蜂はもう飛んでいないが、サツキは随所に残っていて、観光客の色とりどりの花も咲いている。こういう日は野外で読書するのがよく、午後3時過ぎに阪急嵐山駅前の植え込みの囲み石に座ってロジェ・カイヨワの本を読んだ。
その本の翻訳がとても読みづらく、ネットで調べるとガリマールの原書が送料込みで10ユーロほどで買える。よほど画面をクリックしようかと思ったが、全部読み終えてからにしよう。ついでに書くと、駅前での読書中、西洋人の親子が改札から出て筆者のそばに立ち止まり、2歳くらいのフランス人形のような金髪の女児が乳母車から降り、キリンの縫いぐるみを手に何やら言葉を発して遊び始めた。そのあどけない姿も5月の好天に似合い、筆者の目元はほころんだ。今日の最初の写真はスーパーからの帰り、いつも歩く道で見かけた薔薇で、何年も同じ道を歩いているのに今回初めて気づいた。左右に向けて2枚撮り、合成してパノラマとした。この見事な開花は数日で終わる。着目した点はほぼ中央に蔓枝のひとつのアーチがあることだ。薔薇を題材に横長の屏風を染めたいと思ったことがある。思い描いた構図は同様のアーチを画面中央に持って来ることで、その現物の開花が目の当たりに出現した。この写真の薔薇をほとんどそのまま下絵に描いて染めれば六曲屏風になる。しかしそれではやはり面白くなく、構図の変形は必要だ。長年その構図を脳裏に描きながら気にしていることがある。それはこの写真のように薔薇はたいてい壁の前で二次元的に咲くことだ。絵画は二次元であるからこの写真の薔薇をそのとおり描くとすれば、背後が壁であることを鑑賞者にわからせるような超写実ならばそれは可能で面白いかもしれないが、染色作品ではそれは無理で、薔薇の花にしても何らかの意匠化を施す必要がある。そこで想起するのは若冲の絵画だ。彼がどのように蔓薔薇を描いたかと言えば、穴がいくつも空いた岩を持ち込んだ。岩の背後や前面に蔓薔薇が下って咲いている図でそれならば三次元性の植生を伝え得る。ところが今回の写真の薔薇は壁と道路に沿う狭い土地に育ち、二次元的に咲くしかない。描くにはその方が簡単でよいが、奥行感の乏しさは面白味を減退させる。それで筆者は写生せず、写真を撮るだけで済ますが、頭の中には相変わらずアーチ状に咲く蔓薔薇はあって、そこにどのような暗喩を持ち込んで絵画化するかの課題がくすぶっている。そこでその一端として今日の投稿題名の歌を詠んだが、薔薇の花の面白さは花と棘にあって、虫や人を寄せようとしながらも拒む本質がある。2枚目の写真の蔦は赤い薔薇から100メートルほど離れた場所で、5月に瑞々しい緑色を呈し、どの葉も日差しを浴びて輝く。この蔦の繁茂も本来二次元的であるから絵にしても面白くないが、琳派が描いたところ、二次元的植物をあえて絵にするところに騙し絵の効果を狙ったのだろう。絵画は元来騙しだ。そうと断ずれば、イメージを固定しない言葉によるイメージ喚起のほうが面白い場合もある。ただし国によって異なる言葉は翻訳に頼らねばならず、またその過程で意味が変質する可能性を内蔵する。
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