「
碁盤目の 京の街路に 白や黒 外人闊歩 店舗がっぽり」、「若者の 言葉使わぬ 頑固爺 出鱈目造語 家内に通じ」、「酒飲んで 袈裟を脱ぎたる パンツ僧 履いてますよと ぬーっ白肌」、「パチリ眼に 小顔加工の 美女自慢 男ひるんで 転んで逃げて」 何事も機会が多いほどに形は整って様になる。ザッパのライヴの正確な回数が記録されているのかどうか知らないが、64年から88年までの活動として、年100回で2000から3000程度の数字になる。それだけの量から最優良な演奏がレコード化されたのであるから、演奏技術がきわめて高いバンドと評されて当然だ。またそうしたレコードやCDでザッパの演奏に耳慣れると、ザッパ曲のカヴァー演奏がたいていは物足りなく感じてしまうのはやむを得ないところがある。それはプロとアマチュア・バンドの差とも言えよう。後者は作品行為に費やす時間が前者に比して圧倒的に少ない場合が普通で、作品の仕上がりが未熟になりやすい。それゆえ、ひたすら練習に励み、誰よりもそれをこなしているという自信がついた頃に、プロすなわちその専門だけの生活と活動で収入を得る入口に立つと言ってよい。プロが凄まじい練習量であれば、アマチュアはそれに負けじと寝る間を惜しんで練習するしかない。一方、若いアマチュアは認めたくないことだが、練習量に関係なく、才能には多寡がある。それの少ない者は何倍もの努力をしても凡作しか作り得ない。しかし人間世界は複雑に出来ていて、凡作しか作り得ないのに有名になる場合はよくある。その反対に名作をものにしているのに、それが没後もなかなか世間に認められない場合もある。この後者の真実に勇気を与えられて今日も貧しい若者は才能を信じて制作に励む。そのことで青春を台無しにする人がいつの時代にも大勢いるとされるが、青春はたいてい台無しにされる定めにあって、何かに夢を抱いて猛烈に励むことは肯定されるべきだ。さして名を得られず、したがって経済的に貧しくても、人生に賭けたとの思いはかけがえのない記憶になる。そこには絶えず変わって行く人生に対してどう生きたいかという個人の自由な考えが前提にあり、そのどれもが間違いとは言えず、また客観的に正しいとも言えない。ライヴハウスを拠点とするミュージシャンをアマチュアと断定するのは間違いで、他に仕事を持たずに音楽活動のみで特定ファンを得て活動しているプロもいるし、また有名具合やファンの質もさまざまで、どのバンドが圧倒的かつ絶対的に有名などという評価は下せない。ある個人が好きなあるミュージシャンがいるという事実だけに真実があり、そのことが視野が狭いか広いかも誰にも言い切れず、誰しも好きなように物事を判断し、好きなことに接近する。そこにはいかに琴線に触れるかどうかへの期待が前提にあり、つまりは出会いだが、すでに知っていると思う対象でも受け手の心境の変化で新鮮に感じることはある。
さて、今回のメンバーは去年秋と同じで、さあやさんがデザインしたチラシには7人のメンバーの写真が載せられ、右端に筆者の横顔写真も加えられた。7人のうち、東京ザッパラスのフルート奏者のイケマンさんが特別出演で、ザッパニモヲの本体は彼を除いた6人ということになる。ヴォーカルのJoe、ギターの黒瀬まさたか、サックスの登敬三、ベースのHyochaN、そしてレザニモヲの963とさあやのふたりで、黒瀬さんのみ去年秋に続く二度目の出演だ。筆者が会場に入った時はリハーサルの最中で、「アンクル・リーマス」が演奏されていた。今日の3枚目の写真は4枚を田型に組み合わせ、その左2枚がリハーサル中の撮影だが、かなりぶれた写真となったので4枚組にした。「アンクル…」を含んで5曲演奏されてリハーサルが終わったが、その後さあやさん、黒瀬さん、そして筆者に5分ほど遅れて会場入りした写真家の須原女史と順に話をした。さあやさんにはライヴ配信について尋ねた。ステージ両脇その他全4台のカメラで撮影し、各カメラの映像の切り替えは店の人が担当し、また配信映像と同じものになるか、新たに編集してDVDを制作する思いがレザニモヲにあって、今回の会場が決まったようだ。映像で当夜の白熱したステージがどの程度伝わるのかについては、大画面大音量であるほどによいとして、他の客との一体感が必然的に生じる生演奏にはかなうはずはない。いくらAI技術が進化したところで生身の集団の応酬は再現出来ない。そしてザッパニモヲに潜在している力量を目いっぱい披露させるには眼前に多くの客が密集し、演奏が一体化する必要があり、あたりまえのことながら映像ではなく、ライヴに接するべきだ。今あると思っているものがすぐ次の瞬間にはなくなる。元来人間が音楽に意味を見出して来たのは、何事もそのように消滅して行く「儚さ」という真実を知っているからだ。そして、儚いけれども充実のある実態の代表として生演奏がある。話を戻す。リハーサル後にステージにセット・リストが1枚あることに気づき、それを黒瀬さんからもらった。中間に20分の休憩を挟んで全23曲の演奏であったが、メドレーを含むので実際は25曲、その半分ほどがヴォーカル曲で、残りのインスト曲ではJoeは舞台から降りていた。サックスの登さんは即興が聴きどころで、「キング・コング」ではその主題を織り交ぜながら肺活量マックス使用による自在なメロディの紡ぎに圧倒された。イケマンさんは去年より顎の膨らみが目立ち、体重が増えた分、横笛に吹き込む息の量とその持続は、体全体が楽器と化して鬼気迫る姿を見せていた。彼の片足を上げてもう片方に寄せるジェスロ・タルのイアン・アンダーソン張りの決め姿など、その遊び心はさあやさんやJoeにも言え、ライヴならでは見て楽しいことは観客もよく意識し、面白眼鏡で参入して茶々を入れる場面もあった。
リハーサルの後、黒瀬さんと話し、筆者は「マフィン・マン」のイントロのギターが去年と違って音色の図太いことに感動したことを言い、出来るならば本番でもう少しソロを長めに演奏してほしいと伝えた。すると彼はメンバーに合図してそのように演奏しますと言い、実際にそう演奏され、筆者は大いに満足し、そのことを演奏終了後に彼に伝えた。ギターの音が変わったのは去年と違うギターであることとバンドに慣れて自信がついたためだろう。ザッパの音楽についてさほど詳しくない彼だが、そういう人物がザッパのカヴァーに際して新しい解釈と新鮮味をもたらす。それは当然さあやさんにも言えるが、言い換えればザッパの原曲が柔軟性を持っていて、大枠の中で自在に細部を遊んで変更出来ることを意味している。つまりカヴァーの自在性と楽しさがある。もちろんそれは即興のソロが披露出来る才能あってのことで、クラシック音楽のように原曲の忠実な模写ではない。DEWEYのステージの物理的な幅は「夜想」とほぼ同じで、7人が上がると窮屈だ。奥行は「夜想」の3分の2程度で、さあやさんのメールによれば31名入った。「夜想」でのザッパニモヲの演奏に接した人たちからすれば目新しくないとの思いを反映しているのかどうか、ともかく演奏中の熱気はこれまで最高で、体を大きく揺さぶって聴いていた若い女性が目に入った。彼女はザッパの曲に詳しくないだろうが、リズム感に魅せられていることが明らかであった。ザッパニモヲがカヴァーするザッパ曲はほとんどが半世紀前の曲だ。古い曲であることは確実であるのにそうは感じさせない演奏であるのは、ほぼ全員がザッパの曲を筆者のように新譜のLPを同時代的に馴染んだことがない若い世代であることの理由が大きい。これは現在の新しい感覚でザッパ曲を演奏すれば新鮮味が付与されるという意味を肯定的に捉えるもので、ザッパニモヲの今回の演奏はそれを明白に証明した。つまり、カヴァー演奏において奏者の個性と原曲に対する敬意を存分に表現し、オリジナル曲にはない魅力を盛ることに成功した。それは演奏技術の卓抜さと奏者たちの演奏の楽しみ、そしてザッパへの愛があってのことで、ザッパの音楽をさして知らない人が聴いても印象深い箇所が多々あったはずと筆者は想像する。ここでは当夜のレパートリーを記さないが、去年秋の演奏に接した人には新鮮味に乏しいかもしれない。しかし1年の間隔を置かずに半年ぶりの演奏で、曲配置の妙も手伝って、メンバーの真剣勝負的意欲は高まり、全力疾走の言葉がふさわしい、現在の日本で、あるいはアジア全体で望み得る最高のザッパ・カヴァー・ステージとなった。トークで筆者が話したように、ドイツで33年続いているザッパナーレがインバウンドで賑わう日本で一度は開催され、そこにザッパニモヲが出演して世界中のザッパ・ファンに存在と魅力を知ってもらうことを夢見る。
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