「
鎧着て よろめきたるや 古武士かな 拳かざして 叫ぶもむなし」、「ねこやなぎ 枝を接して 辛夷咲き 夜には庭に 二匹猫泣く」、「伐り過ぎて ごめん唱える 吾の意を 木々は気にせず 逆に励まし」、「枯れ枝を 束ねて縛り 四躯体 並べ見送る 最期の別れ」心配というほどのことでもない気がかりを思い切って断つことは誰しも経験する。誰しも心をすっきりさせるために時に気がかりの原因をいわゆる「棄てる」。「棄てられた女」という表現が昭和半ばに流行ったと思うが、当時子どもであった筆者は「人間を棄てるとは何事か」と合点が行かず、「振られる」という別の言い回しをなぜ使わないのかと思った。「棄てる」と「振る」では前者はよりどぎつく、棄てた方はよほどひどい仕打ちを受けてのその行為への思いであると一応は理解する。それでも人をゴミ同然に扱った表現で、耳にしていい気分はしない。あるいは信じられないほどひどい行為を男性にする女性も現実にいて、「女を棄てる」という侮蔑的な言葉は、人権問題にきわめて敏感になって来ているとしても今後もなくならないであろう。さて、今年も京都市内では不用品や枯れ木などの回収を最寄りの公園などで年2回実施する予定で、そのことを先月ネットで確認した。今春は6月13日で、わが自治連合会区南部すなわち阪急の松尾大社駅から近い2か所の公園で、そこまで重さ10キロ近い枯れ木の束を筆者と家内が2束ずつ運ぶのは面倒だなと思った。歩いて15分はたっぷり要する。それにほとんど訪れたことのない小さな公園であるからだが、仕方がない。今年は裏庭の合歓木の選定は例年以上に大幅に行ない、またそのために脚立をフェンスに固定するための針金を買うなど、何かと用意することがあった。しかもそうした準備をしたうえで実際に小川の底からは高さ6メートルはある幹分かれによじ上り、長さ3、4メートルほどの金属性の竿の先端に取りつけた鋸で枝を掃う作業は、危険が伴なうこと以外にかなり体力を使う。伐り落とした枝の4分の3はどうにか木の上で鋸に引っかけ、隣家もしくはわが家の裏庭に放り投げるが、そのまま小川に落下する場合もある。細い枝1本ならまあ仕方ないと自分を納得させるが、枝分かれの多いそれなりに太い枝が小川に落ちると、水量が多い場合はすぐに下流に流れて行く。流れ去った枝を追うために、木から降りて家を出るまでに数分は要する。だいたい半分はどこかに引っかかっていてどうにか回収出来るが、もう半分は流れ去って行方不明となる。伐るのも大変、回収も大変、さらに回収した枝を長さ50センチを念頭に切り、束ねることも大変だ。どうせ燃やされるのであるから、適当に縛って回収日に指定場所に運べばいいが、束ねる際にこだわりがある。そのことは今日の写真や前回投稿した写真からわかると思う。これら玄関前で撮った写真はどれも同じようで見分けがつかないだろう。
枯れ枝は京都市が指定している黄色いゴミ袋によって毎週回収される。筆者はその方法で捨てたことがなく、春秋の年2回の回収に頼っている。それはひとつの儀式で、それなりに枯れ枝に敬意を払い、きちんと整えた形にしたうえで回収してもらいたいのだ。ペットの死体も同じではないだろうか。死んだからゴミ袋に入れて家庭ゴミとともにパッカー車に回収してもらうというのでは、あまりに情がない。枯れ枝ごときで何を大げさなと思われるかもしれないが、筆者は1束を作り上げるのに1,2時間を費やすことを数日続ける。まず全体に緩めに枯れ木を縛ってからそこに直径2,3センチの枝を1本ずつ差し込み続ける。その数は数十本になるが、これ以上差し込めないという密状態が仕上がりだ。そうなれば束全体を持ち上げて逆さにしても細い枝1本外れない。紐が切れる恐れがあるが、そうならないように自分で工夫して加工した紐を使っているので、これまで運搬中、そして区役所職人に手わたす際に紐が切れたことは一度もない。今年も3月からのべ2週間ほどを剪定に費やし、4月下旬に4束を仕上げた。そして6月中旬の回収に備えたが、4日前の回覧文書に本年度の回収日が記してあった。ネットで調べた6月中旬以外に、今月6日に例年どおりに自治連合会区北部の2か所で回収するとあるではないか。この情報はネットに告知されず、不意を突かれたが、4束は仕上げてあるので、いつものように家内と筆者で運べばよい。そして今日の午後2時をわずかに過ぎた頃、ふたりは同時に家を出てそれぞれ指定場所に持参した。写真からわかるように、4束はあえて紐の色を2束ずつ変えてある。これは家内と筆者は異なる場所に運ぶとはいえ、明らかに同じ家から出たものと文句を言われることを避ける思いからだ。1軒2束までの決まりで、夫婦で別の場所に運ぶとはいえ、同じような束で紐も同じであれば、同じ家から出たものであると思われる。しかし2か所の回収場所は別の係員が担当し、同じ家から出たものとわかるとしても区役所に全員が戻ってからだ。毎年筆者はひとりで剪定して束を作っているが、剪定対象の木々はわが家と隣家にあって、筆者にすれば2軒で計4束で、ルールを違反はしていない。ともかく、直径1ミリ程度の細い枝までをていねいに束ね、ソリッドな束を作ることがそれなりに楽しい。束ねるのに大いに時間と手間をかけるのは、形式美を守りたいからだ。さて、今春も4束以外に束ねずに放置したままの枝がある。それらはざっと4束で、6月中旬か秋の回収日に出す。小川に落下して行方不明になる枝と合わせて、やはり年に10束は剪定する。1束7キロとしてもかなりの重さで、毎年地面の養分がその枝に化ける。先日庭木の剪定時に防護ハーネスがずれて圧死した高齢者のニュースがあったが、筆者もいつまで続けられるか。そのことが今年は特に心配になっている。
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