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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱11月2日(土)、京都大宮高辻Live & Salon『夜想』にて👻👻『ザッパロウィン24』午後4時15分開場、5時開演。前売り3500円👽筆者の語りあり。

●『森田子龍と「墨美」』
は蚫とも書くが、魚偏の難読漢字をびっしりと書き込んだ筒形の重い湯呑茶碗に当然「鮑」はあるだろう。筆者がそういう湯呑茶碗を初めて見た60年代初めは寿司屋がよく使っていたと思う。当時は開店寿司屋がまだなく、寿司屋は貧乏人には敷居が高かったので、実際のところはどうであったのか知らない。ついでに書いておくと、小中学校の遠足時、家で作った弁当を昼食として持って行くことになっていたのに、筆者の母は仕事を持っていたので、毎回筆者は母が近所の寿司屋に注文した巻寿司を登校前に受け取りに行き、同店には何度も入ったことがある。入ってすぐ、カウンターとは反対側に右手の木製の台に竹の葉で包んだ同じサイズの巻寿司が数十の並べてあって、それらはみな同じ遠足に行く子どものものであった。当時は弁当屋がなく、学校の遠足弁当は家で作るか、巻寿司を寿司屋で買って行くしか方法がなかったのだ。さて、今日はここ数日の投稿内容のつながりから、昔見た森田子龍の展覧会について書く。92年に兵庫県立近代美術館で開催され、図録を買った。表紙をめくった右下隅に「92.5/30」の鉛筆の書き込みがあり、筆者は51歳であった。85年に京都国立近代美術館で井上有一展があってその図録も買ったが、当時なぜ森田子龍展が開催されないのかと訝った。森田は兵庫県の生まれで、兵庫県立美術館が展覧会を開催するのは郷土の有名作家を顕彰する意味から理解出来る。しかし森田は生涯の大半を京都市内で過ごし、月刊誌『墨美』の中心人物となって編集と刊行を続けた。その点を重視すれば京都国立美術館が最初の大規模展を開催すべきと思うが、代表的前衛書家として井上有一が選ばれた。井上の師は森田と同じ上田桑鳩だが、井上は東京生まれで活動も関東であった。それでも最初の大規模展が没後に京都国立近代美術館で開催されたのは、森田の尽力によるかもしれない。それはさておき、80年代後半に親しくなった染色のK先生は大の井上ファンだが、先生の口から森田の名は挙がったことがなく、それで筆者も話題にしたことがない。筆者は80年にロジェ・カイヨワと森田の共著が世に出ることを本屋に置かれていた内容見本で知り、その時から森田の書に興味を抱いた。つまりカイヨワつながりだ。またカイヨワの本は76年に最初に買い、現在も気になる存在であり続けている。森田と井上の没後の評価は、おそらく井上が圧倒していると想像するが、どちらも市場に作品が頻繁に出るとは思えない。小品なら家に飾ることは出来るが、どちらの書家も大画面の作が有名で、美術館向きだ。その点が普通の書家とは大いに異なり、現代美術の文脈で語るにふさわしい。最近本展の図録の図録の所有を思い出し、久しぶりに繙くと大量の文章と、森田の作品以外に森田と関係した日本の書家やヨーロッパの現代絵画の図版が載っていて、文章を全部読み終えてこれを書いている。
●『森田子龍と「墨美」』_b0419387_14592698.jpg
 図録掲載の森田の作品図版を見ると、本展を見た時の印象が蘇る。40年ほど経っても思いは鮮明だ。また作品に対する意識に変化がない。確かに井上の作品をまとめて見た時の印象とは違い、どちらがいいかというのではなしに、森田や井上らが始めた墨象作品全体に通ずる、何となく「はったり臭い」印象が拭い去れないことだ。その「はったり臭さ」は現代芸術全般にまとわりついている。それは子どもでも書けるという、鑑賞者による見くびり、誤解なのだが、作品に馴染むにつれてその思いは薄れ、さすがにひとつのことに生涯をかけたことだけはあるという圧倒感が優勢となる。話は少々脱線する。筆者と同年齢の従妹の長男は現在芸能人にも名を知られるヘア・デザイナーだが、小学生5,6年生の頃の彼に墨で自由に書かせた小襖が伏見区内の自宅にあって見てほしいと従妹から言われ、見たことがある。わざわざではなしに、たまたま従妹から車で大阪から嵐山に送ってもらう途中、彼女は息子のその「作品」を思い出して見せたくなったのだ。息子は不在で、筆者はその襖を見て最初は大いに感心した。それは白地の小襖4面に好きなように描かせた従妹の度胸と、それに応じたまだ幼ない長男の大胆さが前面にあってのことで、襖の余白を活かしながら、太筆で一気に墨で描いた絵画とは言えない前衛書のような作品は確かに迫力があり、造形の才が溢れているように見えた。強いて言えば今日の最初の写真の左上すなわち本展図録表紙の森田による「灼熱」の文字そっくりのタッチで、横長襖の長方形の隅ないし周辺に墨のほとばしりがあった。白地が多く、襖一面だけを見ると構図はよいが、4面横並びでは墨の配置が考慮されておらず、感心はすぐに失望に変わった。もちろんそのことは従妹には言わなかった。大人になればいとこ同士でも親しく話す機会はなく、ましてや「はとこ」となればなおさらで、筆者は彼女の長男とこれまで数回しか話したことがない。造形感覚に優れた彼が東京に出て女性の髪の造形を専門とする仕事に就き、しかも京都で自分の店を開いた後でも芸能人から声がかかって東京まで出張するまでになったのは、かつて母親が襖に自由に描かせたこととつながっている。彼の最初の作品としてよいその小襖4面が、森田子龍顔負けの余白と墨とが絶妙の均衡を保っていたならば、彼は書家か画家になったはずだが、1面ごとは面白いとしても4面揃った状態では感覚の冴えはなく、子どもならではの無軌道ないし一種の胡散臭さのようなものが露わになっていた。それで彼がヘア・デザイナーになったことは充分に納得が行く。彼は前衛書を知っていたのではなく、それ風のものをTVなどで見たはずだ。昭和の終わり頃からは特に飲食店では前衛書から着想を得たような筆字の看板が目立ち、森田や井上の作品を見る以前にそうした俗っぽい看板の筆文字の洗礼を誰しも受ける。
●『森田子龍と「墨美」』_b0419387_14594277.jpg それらの看板文字はみなそれなりに卓抜なセンスがあり、また看板文字としての読みやすく目立ち、個性的という機能を果たしている点で、昔流行った「レタリング」という言葉を使ってよいものだ。つまりいくつかの流行の「型」があり、模倣しやすく、したがって看板文字に留まって芸術性はない。ただし、そういう看板やメニュー文字を筆で書く専門家は森田子龍らの墨象を知っているはずで、そうした前衛書を見て「これなら自分でも出来るし、もっと目的や用途に応じた美しさを提供も出来る」と思ったであろう。先に「はったり臭い」と書いたのは、そうした主に日本食堂で見られる看板やロゴの文字に見られる「型」を森田らの墨象が思わせるからだが、話は逆で、墨象がまずあって数十年後に市井にそれをわかりやすく解体したような看板文字が登場した。「はったり臭い」のはそうした手馴れた看板文字で、墨象は普通の手先の器用な人に簡単に模倣出来ると思わせた。85年の井上有一展では井上が奥さんの手伝いによって箒のような筆で床に置いた大きな和紙に漢字一文字を淡々と書く映像が紹介され、全身を駆使して作品に挑む様子がよく伝わった。その真剣さはアレシンスキーが来日して撮った映像『日本の書』に登場する森田や江口草玄も同じで、またそのことは仕上がった作品から誰もが感じ取る。そして従妹の長男が小襖に墨で書いた作品も一気呵成さは充分に込められていた。その一気呵成は失敗が多いはずだが、そうであっても迫力がまず目に入るので、それを造形美と勘違いしやすい。井上や森田の墨象作品を見て、同じ紙と筆、墨があれば自分でも同じ迫力のある作品を書けると考える人は少なくないだろう。その中から看板文字の書き手は生まれ、また彼らの書はそれなりに独自性があって有用性を持つ。それは森田らの作品とは違って「誰にでも確実に読める」ことを前提に造形美にもこだわって独自の「型」として昇華している場合もある。となれば彼ら看板やロゴ文字の専門家は逆に森田らの作品を「はったり臭い」と思うこともあるだろう。同じように一気呵成に書くのに、一方は公の美術館で作品が展示され、片や街中の看板で自己主張するしかない。その差は何に由来するのか。大阪出身の森村泰昌が現代美術家として頭角を現わす前、有名な現代美術作品を見て、その思いつき具合に対して「こんなんでいいのか?」といった疑問を抱いて個性表出にもがいたと何かで読んだことがある。それは、現代芸術はあるアイデアがあれば、それを元に突っ走れば有名になれるとの思いで、現代芸術には「はったり臭さ」があると言い替えられることでもある。結果、森村の作品は確かに大いに手間をかけて作られてはいるが、「はったり臭さ」が前面に出たもので、またそこに面白味がある。では森村の作品は森田の前衛書とは全然異なるものか。筆者にはそうは思えない。しかし森田はどう言うか。
 作品に「はったり臭さ」を感じ、自分でも同様のものは作り得ると考える者の中から癌作者が生まれる。したがって贋作は「はったり臭さ」が露わとなって、大部分の作は直観でその厭らしさから贋作であるとわかる。そこに金儲けが念頭にあるようないわば「はったり臭い」者は贋作によく騙されると結論づけるとあまりに短絡的に物事を見ることになるが、長年展覧会を見続けて来た筆者としては、展覧会は見世物であり、当代の人気者の作品を並べてより多くの来場者を獲得する目的があるからには、「はったり臭い」作品が混じる、あるいはより歓迎される思うところもある。それでは神聖な芸術が身も蓋もない話となって、展覧会に無関心で生涯一度も行かないような人と同じ考えになりかねないが、「はったり臭さ」を内蔵しながら、神聖さを抱え持つのが人間であり芸術と思えばよい。その辺りのことを森田がどう考えていたのか気になる。「はったり臭さ」の代表的美術家は先の森村であり、また横尾忠則と筆者は思っていて、実際彼らの作品は食傷し、わざわざ見るために時間を割きたくないが、「はったり臭さ」とは正反対の位置にあるような森田の作品をまた見たいかと言えば、図録の小さな図版で充分という気がしているので問題はややこしい。また森村や横尾とは対極にある森田の作品としても、双方に共通しているのはとにかく思いついた「アイデア」を徹底させたことだ。その「アイデア」は「えっ? こんなんでええの?」といういかにも軽く思いついたものと言える反面、当の作家が苦心惨憺の果てにようやく自覚した独自のものでもあって、作家当人にすれば単なる思いつきではない。原点はそうであったかもしれないが、その原点の奥に出自から続く思考があり、人生はそもそも思いつきの連続と言い得る。それにその「アイデア」を多くの作品として仕上げて行くことは脇目もふらない人生の費やしであって、そこだけを抽出すれば「はったり臭さ」の入り込みようがない。言い換えれば森村や横尾と森田や井上は同じ土俵に立ちながら、前者は芸能人的名声を求めるような「はったり臭さ」が濃厚にあり、後者は禅僧的禁欲さが顕著なのだが、禅僧に「はったり臭さ」がないかと言えば、それは大いなる誤解のはずで、禅僧こそ「はったり臭さ」の代表であろう。それは「清濁併せ呑む」人物という意味だが、美術家や書家、禅僧のいずれもに共通するのは生涯をひとつのことに捧げるという覚悟と、実際のその行為だ。世の中は正直なもので、趣味でたまに何かを表現してもそれはいわゆるプロにはかなわない。作品に投入する思想と行為の時間の長さが比較にならず、プロは膨大な練習と作品をものにする。しかし膨大に練習し、数多く作品を生んだとして、それが多くの人が認める神聖なる芸術となる保証はない。それに森村や横尾の作品が没後に急速に忘却される可能性も大いにある。
 横尾はどうか知らないが、森村の作品はスタジオ内で緻密に計算した構図に自作の衣装や小道具を用いて名画になり切った写真を撮る行為で、写真は一瞬で得られるが、その一瞬までに費やす時間や手間は時には数か月に及ぶのではないか。森田の書は10数秒もあれば仕上がるもので、そこに「はったり臭さ」が必然的に内蔵される原因がある。それに画面の多くは計算しながらそのとおりに仕上がったものではなく、墨の飛沫や滲み具合など、同じものは贋作者でも絶対に模倣し得ない。偶然の支配度が大きいからだ。となれば作品の成功か失敗の判断は森田の感性に委ねられるが、鑑賞者はある作品の背後にどれほどの没作品があるかはわからず、またそれらと成功作との比較は出来ないから、展覧会に並ぶ森田の作品を前に「はったり臭さ」を感じることは無理がない。つまり一瞬で書いた作品であれば、素人でもあるいは猿でも似た雰囲気の作品は書き得るし、人によってはそれらの作品を森田の自信作よりいいと思うこともあるだろう。店の看板の筆文字とは違って、森田の前衛書はこう書きたいという明確な意思を持ちつつ偶然が支配する。前者は通行人や店を利用する人にある一定の価値を認めさせる「型」を持つゆえの「うさん臭い」卑俗性があり、後者は前衛芸術を理解しない無知な人を煙に巻くかのような「うさん臭さ」があって、それは現代の造形の大きな特徴と言ってしまえるところがある。筆者はTVに登場する有名人はすべて俗物と思っているが、禅寺で修行する禅僧たちがみな聖人かと言えば、それはあり得ない。では真実味溢れる造形家はどこにいるか。作品は他者があってのものか。作品を金に換えなければ芸術を気取っても生活は成り立たない。それで収入の道を井上有一のように安定した先生という職業に求める場合が多いが、「はったり臭さ」を一種のメディア対応の武器として具え、名を積極的に売る森村や横尾のような美術家が芸能人張りに人気を得ることが数少ない例としてある。「はったり」を唱える勇気のない場合、真面目な素人芸術家として陽の目を見ることなく、作品は埋没して忘却されるが、その場合の真面目にはさまざまな種類がある。ある人物がほとんど誰にも見せず、つまり人気を得ることを考えずに大量の作品を遺して死んだとして、没後に大いに評価される場合があれば、駄作ばかりとして無視される場合もあって、何が真面目かは判断のしようがなく、真面目に大量の作品を作ったから有名になるとは限らない。話が込み入って来たが、森田子龍は書家として出発して前衛書の墨象にたどり着き、生前に名声を得たのは、『墨美』によって50年代の欧米の前衛絵画家たちと交流し、一方で中国や日本の書の研究を積み重ねて独自の理論を獲得したことにある。その理論は真面目一徹が背後にあると言ってよく、言い換えれば哲学的であった。
 したがってロジェ・カイヨワと共著を出版したことに納得が行く。筆者はその豪華本『印』を一度だけ図書館で開いてカイヨワの文章を眺めただけで、思想的に両者にどういうつながりがあるのか知らない。ただし幻想絵画の研究を通してやがて絵画にうんざりしたカイヨワが、最後に森田の墨象に感心したことは、カイヨワの思想を知るうえで『印』の読破は欠かせない。それはさておき、森田は欧米の前衛絵画を知って大画面の書に目覚め、当然前衛絵画に負けないという意識で思想を固めた。それは中国の漢字の歴史を隈なく探り、日本の仮名混じりの書も学び、そのうえで前人未踏の前衛書を理論武装して書の歴史の末端に立つという、禅僧、学僧を思わせる意思と態度だ。そうした墨象作品は絵画とは違って迫力はありながら色彩的には地味で、またほとんどの人には題名を見ない限りはどういう漢字を書いたかわからず、誰にもわかりやすい森村や横尾の「はったり臭さ」とは別の、難解ゆえの「人を煙に巻く」という意味とでも言うべき「はったり臭さ」がある。もちろん森田は自作をそう見られることに憤慨するであろうが、ある作品の背後にどれほど多くの没作があるかは前衛書の作品では特にわかりにくい気がする。端正に書かれた経文や和歌であればその優美さは文字の読めない人にも通ずるだろうが、一気呵成に書いた迫力が見どころの前衛書のたまたまのよさは凡人には理解しにくい。それはカイヨワを思い出せば、石にたとえていいかもしれない。道端や川の中に転がっている石はどれも似ているが、ごくたまに形や色合いに面白いものがある。森田の前衛書がそれに似ると言えば森田は否定するだろうか。そうした石は自然が偶然造り、価値を認めるのは人間だ。書の作品は人間によるものだが、偶然の要素を避け得ない、あるいはそれを見どころのひとつとして積極的に取り入れた森田らの墨象は石に似るではないか。カイヨワはそのことに気づいたのではないだろうか。ジャクソン・ポロックのドリッピング絵画は別として、絵画は偶然の要素を省き、画面の隅から隅まで画家が意思を込める。だが、偶然の要素を取り入れた超現実主義の詩に批判的であったカイヨワは自作の文章のどの言葉も厳密に使って哲学をしたはずで、カイヨワが森田の作品を評価したことは何となく矛盾するようだが、文学と絵画や書はそもそも違う。絵画や書、また音楽は意味をどうにでも解釈出来る。文学もそういう面はあるし、あえて出鱈目に言葉を並べた前衛詩もあるが、言葉は色や音とは違って意味を持っている。言葉を厳密に積み重ねた文章はカイヨワにとってはある明確な意味を伝達するものであった。そのことは漢字の成立にも言える。漢字の六書の最初は象形文字で、それは実物の何かを象った、すなわち絵として描いたことからやがて単純化された。その意味では漫画の基礎である記号化に通ずる。
 ここから森田の作品を論じるために話は脱線する。あるいは冒頭の「鮑」の漢字からつなげる。これは象形文字ではなく、当然形声文字だが、鮑と蚫が同じものを指すからには、魚と虫はある程度は同一視されることがあったようだ。海老は蝦や蛯とも書くが、魚偏に老の漢字を見かけないところ、海老は魚よりも虫に近い形と思われたのだろう。蟹も同様で、やはり虫が入っている。魚偏の漢字が海や川に住む動物に対して作られたことは子どもでもよく納得出来る。だが中国は日本とは違って海に囲まれておらず、かつて寿司屋でよく使われていた魚偏の漢字がびっしりと埋まる湯呑茶碗は日本の発案であるはずで、また寿司は日本の発案で、日本では魚偏の漢字に馴染みがある。とはいえ魚偏の漢字を全部読める人は稀で、音読みは出来てもどういう現実の魚を指すかはわからない。秋刀魚は秋によく捕れ、刀のように細長いのでそのような漢字が宛てられ、また魚偏に弱で鰯と読むことを小中学生で知った頃、鮑も何となくその実態を形象文字的に表わしていることに納得したが、後に馬偏の漢字が中国では日本以上に多いことを知ると、湯呑茶碗の魚偏の大量の漢字の大部分は日本で作った国字ではないかと想像した。それが正しいのかどうか現在も知らないが、日本独自に形声文字はいくらでも作り得るし、また最初に考えた者勝ちのようなところがあるだろう。中国では鮑は鰒と書き、形声文字らしく旁の音から作られた。となれば鮑の漢字はその姿や生態を表現した象形文字的なところがあって、日本が独自に作ったものかと思わせる。筆者の座右の書の一冊として、昭和51年に買った山田勝美著『漢字の語源』がある。これは収録される漢字の数は千ほどだが、篆文や金文が載っているので収録されない複雑な漢字の篆文を読み解く際にほとんど不便がない。つまり漢字の9割は形声文字であるから、万単位で存在する形声文字の篆書体はこの本一冊でほとんど解明出来る。収録漢字の漢音や呉音も書かれ、語源の説明も詳しい。ただし語源については研究者によって意見が一致していない場合がままあり、本書で書かれることが正しいとは限らないであろう。山田氏は自身が漢字研究のどういう系譜に連なっているかを冒頭の解説に書き、あたりまえのことながら、どの分野の研究も長い歴史があり、そのどの流れの末端に自分が位置するかを自覚して研究する人は、老いは早く訪れるにもかかわらず、学は成り難しということを誰しも実感するだろう。漢字の語源研究では白川静があまりに有名だが、筆者は山田氏の『漢字の語源』が手軽で、もっぱらそれに頼っている。その本に鮑の漢字は取り上げられず、語源がわからない。そこで想像するに、「鮑」が魚偏に「包」の旁というのは、鮑の楕円形の貝殻に収まる実際の形からして、中国で使われる「鰒」よりも覚えやすい。
 また水棲動物は蝦や蟹のように魚偏の漢字ばかりではなく、「鰒」と「蚫」が同じものを指すならば、「鰒」は「蝮」と混同しやすくて紛らわしい。しかし後者は爬虫類の蛇で、やはり日本では「鰒」よりも圧倒的に「鮑」を使う。となれば発音から「鰒」の文字を使った中国と、形象性を優先して「鮑」とした日本という対比がありそうな気がする。これは形声文字も日本では象形文字のように、音よりも形を優先している国民性をうかがわせる。その考えの元には中国と日本とでは漢字の発音が異なり、漢字に対する意味、いわばある漢字に対する好悪に差があるのではないかの勝手な思いがある。また漢字一字ではなく、二字熟語となるとまた話はややこしくなる。「昇鯉」が「勝利」と同じ発音であるので日本では鯉が滝を昇る絵が好まれたとされるが、中国でも日本でもそのふたつの熟語が「しょうり」と読む場合は問題はないが、そうではない場合は中国で、あるいは日本で描かれた縁起のよい絵の意味がお互いの国で通じ合わないし、実際にそういう場合はあるだろう。話がややこしくなるが、「勝利」は「利」に「勝」であるから、これは賭け事や商売に携わる人が使い始めた熟語かと想像するに、「利」を抜きにして名誉のために勝負に勝つという意味が語源であるかもしれない。またそのことは、「勝」と「利」の語源を確かめる必要はあるうえ、言葉は時代とともに変化するからには、名誉を賭けた戦いであっても勝負に勝てば「勝利」の言葉を使うのかもしれない。「勝」も「利」も形声文字だが、形声文字の説明を読んでわかりにくいところは、漢字に優先して存在した言葉の発音からある形声文字を作ったのはいいとして、前言を繰り返すと、形声文字の中には発音よりもイメージを重視した漢字、つまり鮑や鰯のような漢字が混じっているではないかということだ。日本では鮑は「あわび」と呼んで音読みはしないが、強いて音読みすれば「ほう」になるとして、では鰒をそう読むかと言えば、この旁は腹と同じで、「ふく」と読むだろう。ただし中国でも同じ漢字でありながら時代や国によって発音が違い、そこに日本独自の読みも加わって、形声文字はわかりにくいところも多い。かつて赤瀬川源平は「婆」は「波」と「女」が組み合わさり、その「波」は女性の額の皺の多さと解読した。もちろん遊び感覚優先の冗談だが、形声文字に象形文字的な、視覚性と言ってよいが、それをほのめかすところがあることを赤瀬川は面白がっていたのだろう。そういう感覚は中国人にもあるかもしれないが、形声文字は発音優先で作られ、漢字が示す意味を先に思い浮かべる日本とは差があるように思える。そこを基盤に森田らの墨象が立っているのではないか。これはたとえば森田が書く字や熟語が日本で喜ばれるとして、中国では同じ発音の別の縁起の悪い熟語を思い浮かべる可能性があることを意味している。
●『森田子龍と「墨美」』_b0419387_14595418.jpg 中国で「婆」の「波」が老いた女性の肌の皺を指しているかどうか。「婆」が形声文字であるからには「波」の発音がおばあさんを指す発音と同じであったからで、やはり発音優先で漢字から連想されるイメージは無視しているだろう。となれば「鮑」がその貝の形に因むとの説明はかなり眉唾で、日本人だけがそのように思っているのではないか。さて、森田子龍の墨象作品について何か書いておこうと考えると、漢字の六書を初め、語源も含めて中国と日本の違いを知る必要を感じるので話が長くなった。墨象作品が漢字の故郷である中国で生まれず、戦後の日本でなぜ出現したのか。戦後の中国は日本よりはるかに国際化が遅れたという理由だけでは説明がつかないだろう。『墨美』がアレシンスキーなどの海外の画家にも届き、森田はやがてそうした前衛抽象絵画家と交流を持ち、作品を海外に送って一緒に展示する。そうした中で書の作品が絵画に迫力負けしないために極太の筆を用いて大胆な筆致で一気呵成に大画面に漢字を拡大し、なおかつデフォルメして書くようになる。このデフォルメは森田の作品の大きな特徴と言ってよく、小学生でも知る漢字であっても即座には読めない場合がある。漢字を極端にデフォルメして書くことは中国の歴史はなかったが、草書や行書の延長上に、また篆書に遡れば、デフォルメすることの土壌は用意されていた。漢字のデフォルメが極端化すると、字画の位相幾何学的変容の自在な駆使によって漫画的すなわち滑稽味が優先し、そういう書がたとえば石川九楊にはある。そこに精神性は感じられず、「うさん臭さ」の開き直りが筆者には目につくが、前述のK先生ならそういう前衛書をどう思うかは、先生とはまだ話し合っていない。本展からは、『墨美』の刊行を続けることで森田は中国や日本の書の歴史を隈なく探り、書の作品がどのように発展して来たかを学び直し、そのあらゆることがやり尽くされてがんじがらめになっている歴史の先端で突然変異の思いつき、すなわち素人には「はったり臭さ」が感じられる手法によって墨象作品を生んだのではないことがわかる。そこには時代最先端の欧米の絵画に物申し、また日本の書の伝統に立ちながら、日展の旧弊の書に甘んじない師の上田桑鳩らの影響があり、森田は書の歴史のコマを一歩進めただけと言ってよい。しかし上田桑鳩やあるいは上田と同時代の前衛的と言ってよい書家を網羅する展覧会はそれぞれの作家を生んだ地元ではいざ知らず、有名な美術館での大規模展の開催はない。そもその日本の書の歴史における古典作も膨大にあり、その末端の実験的と言えば語弊があるが、上田らの書を体系的に見直す機運は森田の作品でさえ、現在はごく一部の人しか知らない状態で、光の当たる機会は少ない。その別の理由は、森田の作品をさらに進めることが可能なのかという疑問があるからだ。
●『森田子龍と「墨美」』_b0419387_15000804.jpg 墨象作品は子どもでも真似がしやすく、前衛書家を自称する人は多くいるはずだ。彼らは森田には到底敵わぬ練習や知識の量によって、一瞬で見るに堪えない作で己惚れている。それはあらゆる表現の分野に見られ、SNSなどで有名になりさえすれば勝ちという価値感が拡大し、自己の「はったり臭さ」を自覚しない。そうした人たちが大勢を占めれば森田の作品はやがて埋没するが、幸いなことに森田の代表作は美術館に収められている。それは欧米の前衛画家たちの作も美術館で展示されることを前提にしたことに倣った意識の結果であろう。言い換えれば大画面作ゆえに美術館でしか飾られず、また美術館で展示されることで聖なる雰囲気がまとわれることを森田は知っていて、そこを狙ったとも思える。そのことにも「うさん臭さ」があるかもしれない。積極的に美術館での展示をする森村や横尾もそうで、美術館で展示されることで初めて大家とみなされる。筆者はそのことがよいとは思わないし、そもそも筆者の作品が美術館から目に留まることはない。本展の図録には読み物が多く収録され、その最長は「具体美術」のメンバーらとの長い対談だが、特に吉原治良の考えがわかって興味深い。彼は書には批判的で、またその批判される点を森田は書の利点と考えた。本展では森田の新作3点も展示し、海外収蔵作が23点あることも別紙印刷で示され、森田の評価は揺るがないように思えるが、それにしても作品展示の機会があまりに少ない。今日の最初の写真の右上は本展のチラシで、使用図版は森田による「蒼」だ。そう言われるとそう読めるし、「蒼」から感じる青さを見ようと誘導される。2枚目はチラシ裏面で、4点の図版のうち最上部と最下部の4面屏風が森田の作で、それぞれ「圓」と「龍」だが、どちらもそう読める人は少ないだろう。この「圓」は3枚目に拡大図版を載せた。「鮑」と題されば、人はなるほどそのように見えると思うのではないか。「龍」は子龍に因んで森田が好んだ漢字で、同じように書いた作が他にもある。4枚目は京都市美術館蔵の昭和24年の「養心」で、『墨美』発刊前夜の作だ。図録に説明はないが、漢詩を書いたのだろう。5枚目は左が上田桑鳩の昭和20年代の「開窓青山遊」で、どうにか読める。右の作は井上有一の昭和34年の「骨」で、絵画的な、また迫力満点の書だ。『漢字の語源』によれば、「骨」は会意文字で、下部は「月」(にくづき)、上部の「冎」(カ)は「穀」(コク)の「から」の意味を表わし、転音して「コツ」になったが、字義は「からの頭蓋骨」で、その延長によって一般に骨を指すようになった。井上はこうした字義を知ったうえで書いたと思うが、この作は頭蓋骨が欠けた、あるいは著しく小さい胸部すなわちトルソーのレントゲン写真を思わせる。何事も骨組みが大切で、特に墨象ではそれが重視されたことは今日の図版からも伝わるだろう。
●『森田子龍と「墨美」』_b0419387_15002482.jpg

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by uuuzen | 2017-11-23 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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