「
鬼ころし 呑んで赤らむ 顔を見て 互いに笑う お前鬼だと」、「ネクタイを 褒められ嬉し 趣味のよさ 男社会は 目立つが勝ちか」、「悪趣味と 紙一重とは 自覚しつ 道化のこころ たまに露わに」、「蝶の夢 見たことはなし 凡夫かな 蝶ネクタイも 締めたことなし」一昨日は平安神宮で例祭があった。スーツを着ての出席で、帰りはとある場所に立ち寄った。すると最近何度か応対してくれる若い女性にネクタイを褒められた。そのネクタイは今日の最初の写真の中央のものだ。たぶん10年ほど前に買った。彼女がレジメンタル・タイを知らないことはあり得ないが、筆者のそのネクタイは色数が多くて目立ったのだろう。筆者もそう思ったので購入した。写真ではそのネクタイの左隣りにも同じような配色のレジメンタル・タイが写っている。1本所有しているのにまた似たものを買ってしまったところ、よほど気に入っていることになる。実際近年はその2本のいずれかを締めることがほとんどだ。双方ともブランドはイタリアのBALDASSARIで、筆者はこのブランドの衣服をかなり所有している。1992年にザッパに会いにドイツに行った時は高島屋でそのブランドの黄色のジャケットとカーキ色のスラックスを買った。形の流行が変わったのでもう着ないが、捨てずにいる。最近またダボっとした形のジャケットなどが流行っている。ただし8、90年代のそれとは違うはずで、流行は繰り返すと言われながら全く同じ形の衣服がまた流行ることはないだろう。ただし、古着を気にしない人が増え、ヴィンテージと称して昔の服が高値で取り引きされる。昔のものでも生地が独特で縫製がよければ流行に関係なく重厚感がある。そういうジャケットを着る高齢者を街中やTVでよく見かけ、その人らしい独特の持ち味を呈している。2,30年前に買ったのだろうなと思いながら、お洒落な様子を他人に示す必要はもうなく、新たな流行を追う必要を感じずに昔のそれなりに高価であったはずのジャケットで通す。筆者もとっくにそういう年齢になっているのに、スーツを着る機会は年に2,3回だ。ジャケットもたくさん持っているのに着用したことのないものがあるほどで、外出時はもっぱらカジュアル・ファッションだ。スーツやジャケット姿の堅苦しさを嫌っているからではない。どちらと言えばスーツは好きだが、平安講社の例祭のような大勢の人が集まる会合に参加する機会がない。有名人になれば話は違って来るだろうが、有名になって人前に出る機会のない筆者であるからには、やはりネクタイを締める機会はめったにない。話を戻して、例祭に着たスーツもBALDASSARIで、黒っぽいダブルだが、ここ10年ほどで腹周りが大きくなってスーツのズボンがきつい。新たに買ってもいいが、着用の機会が稀ではもったいない。
箪笥の中に眠っているスーツに、一度も着ていない誂えものがある。2,3年前に状態を確認すると虫食いの小さな穴があった。また一度しか着ていないチェック柄のBALDASSARIのスーツも襟に虫食いがあってがっかりした。嵯峨のFさんは現在76歳だが、大学を出た後、50歳まで商社マンとして過ごし、当時買ったスーツが4、50着あると言う。毎日着るサラリーマンの制服であるからそれくらいはあって当然だ。仮に25年勤務で50着として、年に二度新たに購入したことになる。筆者は大阪市内でサラリーマン生活を丸3年したが、10数着はあった。しかも大半が誂えで、生地や形は好みのものを選んだ。スーツではなく、ジャケット姿で通ったこともあって、その派手気味の柄に上司が目を丸くしたこともあった。それでもネクタイを必ず締めていたので、会話する相手に失礼には当たらなかった。また派手目な柄とはいえ、焦茶ベースのチェックの大柄で、かなり気に入っていた。30歳になる頃に処分したが、今頃になってその半世紀前に買ったジャケットをまた着たくなっている。それはさておき、当然ネクタイも自分の好みによって求め、しかも好悪がはっきりしている。今日の2枚目の写真は3年のサラリーマン時代に心斎橋の虎屋で買ったレジメンタル・タイで、どれも3000円以上した。今なら1万円ほどの感覚か。写真で見るといかにも古色を帯びた風で、もう締めることはない。しかし最近TVでストライプの間に紋章の入ったロイヤル・レジメンタルを締めている人を見かけ、何となく嬉しくなった。ネクタイにも流行があるはずだが、レジメンタルは基本で、いわば永遠の柄だ。昔のスーツはすべて処分したのにネクタイだけは保存しているのは、織物の美を好むからだ。筆者は女性が締めるキモノの帯をたまに買うことがある。その織の美にほれぼれするからで、近年は大鶏頭文や有栖川鹿文の帯を何本も買っている。それらの帯に似合うキモノを染めたいと思いながら、年々やりたいことの思いが増える一方だ。話をまた戻すと、今日の最初の写真のネクタイの半分ほどをここ10数年はもっぱら使用している。紫の無地ものはミラ・ショーンで、ある人の形見としていただいた細身のリヴァーシブルもので気に入っている。右端は麻製の深緑の無地で、サラリーマン時代によく締めた。紫色の左の若葉色の無地は知り合いの女性染色家による草木染で、四半世紀前にプレゼントしていただき、とても気に入っていて現役使用している。2枚目はすべて30年以上締めたことはなく、鑑賞用と化している。それでもたまにレジメンタルのいいネクタイがあるとほしくなる。買っても一、二度締めるくらいしか機会がないが、そうなるとよけいにネクタイが真剣勝負の重要な道具に思え、スーツを着ることが強烈な印象となる。人生にはそういうメリハリが必要だ。弛緩しがちの老境ではなおさらだ。
スーツやネクタイもそうだが、実際は靴が重要で、それで人格その他を値踏みされる。とはいえ、値踏み出来るほどのお洒落感覚のある男性は少ないだろう。あるいは筆者はそういう人に出会わないほどに貧しい自由業者として長く生きて来た。Fさんが昔着ていたスーツやネクタイも、ビジネス本位のさほど高価なものではないはずで、そのことはFさんの普段着や言動から明らかだ。男が服にこだわるのは特別な部類で、たいていは印象に皆目残らないか、残ってもひどいネクタイをしている。そう言えば平安講社のある人は筆者の身なりを観察しているのか、例祭で声をかけられた。「大山さんはいつもお洒落ですね」その言葉は最初に書いたように筆者のレジメンタル・タイを見てのことと思うが、ネクタイ一本で相手のファッション・センスを知ることは美を特に意識しない人にもある。何となく印象的であると気づき、それがネクタイであると思い至れば、そのネクタイからその相手の全人格の目立ち具合に思いを馳せることになる。したがって男はネクタイに気を配るべきだ。3枚目はペイズリーなどのプリントものが主体で、気に入って買ったはいいがほとんど着用したことがない。似合うスーツを持っていないからでもある。さて4枚目は左端から4本はどれも筆者が友禅染めで作ったもので、左端の濃紺や灰水色は四半世紀ほど前はよく使った。特に左端のものは「大山甲日」の四文字を散らした柄で、これをある年の染色展の授賞式に締めて出かけた。すると隣りのテーブルにおられた5代目の田畑喜八先生から「大山くん、自分の名前を染めたネクタイやな!」と大声で言われ、『さすが、見る目のある人は違う』と感心した。そう言えば10年ほど前か、喜八先生はTVの『徹子の部屋』に出演され、独自の茶屋辻染めを宣伝されていた。友禅は茶屋辻のような伝統文様だけではなく、自由な絵模様を染めることが出来る。筆者は友禅で1本ずつ模様が異なるネクタイをたぶん100本以上は染め、手元に残っているのは写真の4本のみで、しかも左から4本目は売れ残りだ。その右のムンクの「叫び」を菱形枠内に収めたプリントものは面白がって買い、一度しか締めたことがない。その右はBALDSSARIのプリントで、丸い太陽の顔を散らしてある。それが気に入った。いつか締めようと思いながらその機会がない。右端は10数年前に自宅付近の道端で昔拾ったもので、皺くちゃになって捨てられていた。そのままゴミ箱行きはかわいそうなので、洗濯屋に出してきれいしてもらった。好きな柄ではないが、細かいプリント柄はまあいいかと。4枚の写真のほかに10年ほど前ネットでまとめ買いした200本ほどのネクタイがある。ただし1本もそれらから使ったことがない。どれも実物を見ると安っぽく、鑑賞に堪えない。こだわることは楽しく、楽しむとそのことをもっと欲する。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→