人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●牡丹と黄金虫、アゲイン
●牡丹と黄金虫、アゲイン_b0419387_17574408.jpgれなき 白き花弁に 囲まれし 匂いの塔に カナブン集い」、「陽が落ちて 虫の飛び去る 牡丹かな 花びら閉じて 花芯を隠し」、「白牡丹 どれも東を 向いて咲き 吾は陽を背に 花芯見比べ」、「明日は雨 今しかなしと 牡丹咲く 虫に混じりて 吾も来たりて」今年は先月から裏庭で作業することが多い。その最大の目的は合歓木の枝の剪定だ。先日までその作業に10日ほど費やした。今年はもうこれ以上は切らないでおこうと決めた頃、白牡丹の蕾が出揃った。それが今年は10個であるのは、合歓木の剪定などで付近を頻繁に出入りした際、誤って自分の尻で牡丹の枝を1本折ってしまったからだ。そこから2,3の花が咲くはずで、それがなくなったので10個になった。牡丹の株に接してサツキが植わり、さらには勝手に育ち始めた藤やグミの高さ2.5メートルの木があって、牡丹は年々肩身が狭くなっている。それを言えば筆者がそうだ。裏庭は年々鬱蒼とし、蟹のように横歩きしながら合歓木に脚立をかけてよじ上る。それはさておき、毎年12,3の花を咲かせる牡丹を去年もたぶん一昨年も写真を撮らなかった。今年は蕾をしげしげと眺める機会がままあり、その頃から写生しようと思いながら、合歓木の剪定作業に没頭して写生する時間も気力もなかった。ところが合歓木の剪定を大幅にこなし、一応望みどおりに作業を終えた後、ちょうど牡丹の花が咲き始め、久しぶりに写生する気になった。そして16日から毎日描き、明日は雨が降るはずで、そうなれば花弁は地面に落ちる。5日連続の写生で充分満足とはとても言えないが、手応えのようなものはあった。昨晩は布団に入って牡丹を素描していることを思い出し、白い紙に葉の一枚ずつの輪郭をたどって鉛筆の線が自動的に浮かぶ様子が流れ続けた。これは実際に写生している時に瞬時ごとに緊張しているからだろう。筆者はそういう張り詰めた気分を好む。収入がなくても生活の苦しさを考えない自由業を長年続けていると、たいていの日々は体も気分も弛緩状態だ。その無為が日常となっていれば反動で緊張を求めるようになる。合歓木の剪定は一歩間違えると5,6メートル下の小川に落ちて骨折では済まないので絶えず気は張り詰めるが、無防備かつ無謀な状態での長さ3メートルの鉄パイプの先に取りつけた自作した鋸を扱う緊張作業は案外気持ちがよい。伐採した枝の半分は小川に落ちて流され、後で回収するのが大変だが、全体が無様にならないように腐心するのもそれなりに楽しい。同じかもっと極度の緊張は写生だ。花は彫刻のようにいつも同じ状態にあるのではなく、風がそよげば花びらは揺れて形を変え、1時間経てば花全体の形が別のものになっている。そういう条件下で適格な線を引くことは、急ぐ一方で落着きは欠かせず、鉛筆運びの一瞬ごとが真剣勝負の気がするが、久しぶりの写生では消しゴムの出番が多い。
 16日に描いたのは蕾で、翌日から開花した。立ったまま描くので2,3時間がいいところで、5日間で描いたのはわずかに13枚だが、今日は明日が雨のようなので葉が識別出来ない日暮れまで粘って4枚描いた。もう2,3日晴天があればいいのに、今日で花は終わりだろう。真剣に線を引いていると考える暇がないというのが本当のところだが、何かの拍子にやはり考える。使っている写生帖は100枚綴りで、その前半分は去年各地で描いた鶏頭の花だ。それら50枚ほどの写生を改めて見ながら、鶏頭の花の形の不思議を思い、そこに牡丹の花を描き続けると、またその花の不思議な形がしきりに気になる。それで寝入り鼻の夢にまで描いている様子が出て来る。どちらも植物のごくごく一端に過ぎないが、形は大いに異なりつつ、地面から生え出てやがて枯れて見えなくなる点は同じだ。鶏頭の花は見れば見るほど奇妙な形をしているが、それは牡丹も同じで、またどちらもきわめて合理的に子孫を残すための形をしている。それを言えばすべての生物がそうで、生き物とは自分も生きるが後代を確実に残すことを忘れない。まあその話はよいとして、牡丹の花や葉を描きながら、花弁も葉も役割を自覚していることに感心する。蕾の中に花芯を中心としてしわくちゃに花弁が折り畳まれて詰め込まれ、蕾がそろう以前に広がった葉は光を受けて養分を作るのに最適な構造をしていると同時に、他の葉を邪魔しないような理想的な場所にある。写生しながら花や葉の構造や位置の確保が絶妙であることに驚嘆する。葉の位置は数センチではなく、2,3ミリの誤差もなく、相互に関連している。こう書けば何を大げさなと思う人が多いだろう。しかし2,3時間でも同じ牡丹の花を凝視し、写生すれば筆者の言いたいことがわかるはずだ。花や葉の形が巧妙かつ完璧に造られていると同時にその位置関係もそうで、つまりは株全体で隙のない調和を保っている。そういう牡丹を前にして人間がある特定の角度から精密に写生するとして、そのことにどれほどの意味があるかを次に考える。写生は素描に過ぎず、いわゆる本画に対するメモのようなものだ。一方、精密に描くことが目的であれば高精度の写真で事足りると考える人はいるし、あるいはその写真そっくりに手描きする人もよくいる。筆者は自分の立ち位置から見える牡丹の花と葉を鉛筆で描く場合、それを元にした本画を考えているかと言えば、その気持ちは半分だ。本画の大きさをどうするか、またそれに伴なう構図をどうするかを考えれば、自ずと写生する際に花を選び、自分の立ち位置を決めるが、そうなれば夢想する本画に見合う開花状態に出会う必要がある。それは無理な相談だ。牡丹の花は数日で枯れる。となれば精密に素描出来る花の数も高が知れている。そこでとにかく描き始めながら考えるしかない。描いていると新たな想念が湧くし、新たな発見もある。
●牡丹と黄金虫、アゲイン_b0419387_17585278.jpg
 毎年裏庭で咲く白牡丹を今年写生する気になったのはたまたまのことだが、写生し始めると多くの思いが渦巻く。しかし渦巻くだけでいわゆる本画、筆者の場合は友禅技法による屏風だが、そのことに思いを集中させず、写生のみが目的だ。話は変わる。数日前に筆者は自分が28歳である気分になった。活力と創作力が旺盛であると感じたのだ。そのことを家内に言うと一笑に付されたが、筆者は自分の実年齢をほとんど意識して生きて来なかったこともあって、牡丹の蕾が膨らみ始める頃、青年の気分になれる。とはいえ今年も筆者は花粉症で苦しみ、今なお連日くしゃみを連発しているので、裏庭での写生は体にはよくないことを自覚しているが、それでも開花は一瞬のことで、それに合わせて描くしかない。それはともかく、28歳であれば牡丹の写生を元に作品を染めたかと言えば、たぶんそうしたし、また実際牡丹を画題にいくつかの作品を作って来た。ところが新たな気分で牡丹の開花に対峙して写生帖に鉛筆で描くと、その素描からどういう本画が想定出来るのかとしばし呆然たる気分に陥る。牡丹を描く日本画家は多い。彼らはみな自分なりの牡丹を描いているが、それらの大半は写実的なものとは言えず、写生したとしてもわずかであろう。精密に牡丹を写生しても、それは牡丹そのものには匹敵し得ず、面白くない。絵画は人間という鑑賞者に何らかの思いを訴え、またその時の鮮烈さの度合いによって好悪が決まる。そこに画家の作為の存在があり、またその作為は現実の牡丹から何を受け取ってそれをどう表現するかという画家ならではの思いが反映するが、そのことは常にどの画家でもまっさらな状態で挑戦し得る状態にあって、どの画家も一から写生を初めて他の画家にはない自分だけの牡丹画を描かねばならない。しかし前例として牡丹画は無数にあり、たいていの、あるいはほとんどの画家はそれら前例を見知ったうえで新たな、あるいは拙い模写のようなものを作出する。めったにないことだが、今回写生しながら筆者は本画を一瞬で思い描くことが出来た。それは2枚折り屏風で、裏庭の牡丹の株に咲く10個の花すべてを描く構図だが、それが脳裏に一瞬で浮かんだ瞬間に筆者は興覚めもした。その作品は先人の作に似ているところはない自信のようなものはあるが、それでも眼前に咲く牡丹に比べると何とも味気ない。断片的に描いた素描を元に本画の原寸大の下絵を構成し、いくつかの工程を経て屏風を染めたとして、その作品から筆者は写生の際に感じたさまざまな思いを込めることはたぶん出来ない。何かが欠けるとして、それは陽光だ。さらに言い換えれば光と影で、平板的な友禅技法ではそういう光と影の立体性は表現しにくい。それで日本の画家は牡丹を描く場合は思い切り装飾的に扱った。単純に言えば文様的に処理した。
 それが最終目的ならば、現実の花を目の前に写実的に素描する必要があるのか。参考になる先人の作はほとんど無数にあり、今後はAIに頼って無限の牡丹の絵は創出されもするだろう。28歳ではない筆者だが、存分に時間を確保して牡丹屏風を染める活力も技術もまだ有してはいる。本作品に取りかからないとすれば、充分に納得出来る作品が仕上がらないことを予想しているからだが、諦めているのであれば写生の必要もない。しかし写生するのは何かかすかな期待があるからだ。それで思い浮かんだ完成した屏風を打ち消しながら、どうすれば納得行く絵が仕上がるのかとこれまでの自作を思い返しながら、その延長に新境地が築けないかと試行錯誤を繰り返す。その手始めにはやはり幾多の写生とそれに伴なう思考は欠かせない。では写生は手始めだけに終わるのか。そうだとすれば筆者は無駄な行為に時間を費やし、何もしないでゴロゴロと寝そべって夢想していることと変わらないではないか。しかし写生する気になり、実際5日間費やした。それは写生している時の緊張感が楽しいからで、気分が緩んだ日々の連続ではその精神の張り詰めた写生時間が気分転換として心地よい。筆者は描いた片っ端からそのことを忘れるが、今回は以前の鶏頭の素描もそうだが、夕食前に見返すと、とても気分がよい。写生するからには目の前の花が気に入ったからで、その自分の決心が間違っていなかったことを忘れてしまっている写生から思い起すことが出来る。同じことはこのブログでも言えるだろう。筆者はほとんど読み返さずに投稿し、それもあっていつ何を書いたのか覚えていないことが多いが、ごくたまに読み返すと、なかなかいいことを書いていると感心することがある。そして今の自分ならもうその能力はないのではないかと思うこともあって、先の28歳であると錯覚することは本当におめでたい自惚れであることを自覚せねばならないのだが、こうして書く文章をたとえば10年後に読み返すと、また同じくよく思いが書けていると思うかもしれない。つまり、写生でも文章でもまずは他人に伝わる形にすべきで、思っているだけの自信過剰は滑稽でしかない。となれば写生を元に大作を作るべきという話になるが、眼前の牡丹の開花を納得行くように写生出来たとして、それと本作品までのいくつかの空間変異を満足出来るようにくぐり抜けることは、これまでの慣れを否定するのであれば、ほとんど不可能に近い難行として立ちはだかっている。名作はそういう難所をくぐり抜けたところで生まれるはずで、それには結局のところ多大な思考と訓練の道を通るしかない。写生はそのための基礎に過ぎないが、精神を清く改める効能は確実にある。白い牡丹の開花を前に描き始めると、牡丹の精の発散を浴び続け、自分がそれに同化出来るといった大それたことは思わないまでも、つくづく牡丹の花の不思議な生、その清らかさを感じる。
●牡丹と黄金虫、アゲイン_b0419387_17590886.jpg
 写生の1枚に筆者がその花のその角度を選んだ決心と、そして精神を集中して描き切ったその痕跡が見られることに筆者は満足出来る。つまり、本画への準備というメモ的な絵ではなく、素描そのものに筆者の決心や選択、覚悟が素直に滲み出ている気がする。それはもちろん自惚れに過ぎないが、縁あってわが家の庭に毎年咲く牡丹の花をたまの年度には写生しなければもったいない。さて、今日の投稿の題名はちょうど6年前の投稿と関連づけてのことだ。今日の最初の写真は昨日撮ったが、残り3枚は今日の昼下がりに撮った。10個の花のうちふたつの花芯にカナブンが取りついていた。ほとんど眠っているようで、家内を呼び寄せて間近で観察しても動かない。それどころか一匹は白い花びらのシーツから落下した。また飛び去って行くのもいるが、やがてまた戻って来る。ひとつの花に三匹もいる様子を初めて見た。花と虫はセットなので、筆者はこの牡丹に取りつくカナブンの姿を大いに好むが、虫嫌いは虫を無視して花の絵にそれが描き添えられることを好まないだろう。飛ぶ蝶ならまだしも、若冲でも牡丹の絵にカナブンを描き足さなかった。せっかく白い大輪の牡丹の花の絵に、黒々と目立つカナブンが花芯にへばりついていると、誰もがそのことに違和感を覚えるだろう。筆者は白い牡丹の花を本画に描くとして、やはりカナブンをどうにか描き込みたいが、その可能性を何年も思い続けている。そして以前に書いたことがあるが、ひとつの参考として思い浮かぶのがアンリ・ルソーの「眠るジプシー女」で、その非現実的な絵画を構成させている手法を何度も思い返す。しかし白い牡丹の花芯に群がるカナブンは砂漠で眠るジプシー女に近づいて匂いを嗅ぐライオンと違って、現実そのものだ。それをそのまま描いて非現実の夢幻性よりも汚らわしさを鑑賞者に与えるようでは話にならない。10個の白牡丹を素描し、それを大画面に強固に再構成し、そのうえにカナブンを添えるとして、どのような完成度の高さが期待出来るか。意匠化が欠かせないとして、そこに至るにはせっかく素描した細部のこだわりはおそらくほとんど捨て去る必要がある。言い換えれば、漫画を描くのになぜ迫真性を持った写実表現を経なければならないのかとの疑問だ。大胆な意匠化を漫画に比することは慎むべきだが、細部を無視して単純な形を作ることに写生はほとんど不要だ。参考にすればよい先人の作は無数にあり、それらのどれかをほんのわずかに変えるだけで本人にとって新しいものは生まれる。あるいは克明な写生を経るのであれば、その先にスーパー・リアリズムというもはや古臭い、それでいて素人を驚かせるに足る絵画という安易な道がある。そのどちらにも進まずに張り詰めた精神を表現する斬新な絵があるだろうか。筆者はほとんど花芯で眠るカナブンと同じで、しばし眠って目覚めれば飛び去って行く。
●牡丹と黄金虫、アゲイン_b0419387_17592302.jpg

●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→

by uuuzen | 2024-04-20 23:59 | ●新・嵐山だより
●「新しき ネクタイ結ぶ ハレ... >> << ●「文字連ね 意味留めるは 意...

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?