8日に京都駅伊勢丹で見た。あまり行きたくはなかったが、京都国立博物館に行くついでに京都駅まで少し歩けばよいと前もって計画した。深水の美人画は何だか冷たい気がして好きではないとずっと思っていた。
初めて深水の作品をまとめて見たのは、手元の図録によると1981年10月のことだ。もう25年前になる。その時は「東西の美人画の巨匠」と銘打って、深水と寺島紫明のふたり展であったが、筆者は後者の方がより生きた女性の姿を捉えている気がして好きになった。それは深水の女性はどこか頭で作り上げたモデルのない理想顔で、紫明は実在する美人をそのまま描いたように思えたからだ。そして、3年前に同じ伊勢丹のこの美術館で今度は紫明だけの展覧会があって見に行ったが、81年展の時ほど感動がなかった。これは自分でも不思議であった。筆者の女性を見る目が変化したのか、あるいは単に絵の好みが変わっただけか、それともたまたま会場に来ていた作品が昔とはかなり違っていたためか、正しい理由はよくわからないが、とにかく印象にうすかった。そして今回は深水だけの展覧会だ。結果を先に言えば、初めて深水の偉大さに気づいた。この25年で女性を見る目が変化したのか、あるいは絵の好みが変わったのか、理由はよくわからないがとにかく行ってよかったと充分に満足した。図録を見ると、来ていた作品はあまり差はない。だが、前にも書いたが、図録のカラー写真と実物はあまりに違い過ぎる。これなら図版は何の意味もないどころか誤解を招く。「これぞ日本画!」と言っても何も正確に伝わらないだろうが、もうこのような絵を描ける画家は日本にはいない。また100年か200年かわからないが、当分の間は無理だ。現在の日本画の現状を根本的よ破壊してまた一から出直さない限り、絶対無理と断言出来る。深水の絵はまず線描を特徴としたもので、下絵が今回は出ていたが、1本の線を決定するのに何度も何度も修正した跡が見えていた。そのような推敲に次ぐ推敲を重ねたうえで初めて完璧な形を得、しかもその後下絵を絹に写し取り、さらに色の配置を考えてむらなくていねいに塗って行くという全くごまかしの利かない作画態度からもわかる。それだけならば現在の日本画家でも同じように描く人がいるかもしれないが、美人を描いた絵である点でもはやアウトだ。いや、現在でも美人はいるからそれは可能だと言う人があるだろう。だが、やはり無理なのだ。深水の頃と比べてキモノの美がわかる人がいなくなったし、それを着て似合う女性も少なくなった。キモノの季節感ある文様の知識が失われ,体型も変わったからだ。
昨日書いた創画展にも毎回女性を描いた絵がぽつぽつと出品されているが、今までによいと思ったものには出会ったことはない。人物をうまく描ける才能がもうごく稀なのだ。広田多津や石本正の裸婦の絵も深水の美人画には到底比べられない。深水の美人画にはもう戻って来ないよき日本のそしてよき美人がそのまま真実の姿として定着されている。それは女性礼讃と言ってよいもので、そのように女性を描くことで、描く男性も一緒の高みにのぼって行こうとしているものなのだ。深水がいた当時の美人の概念が今のそれとどの程度差があるのかはわからない。だが、昨夜TVで特集をしていたが、『can cam』といった雑誌に登場する若い女性の顔形を見ると、それらは深水が描いた美人とは全然違う人種に見える。よく今の日本の若い女性はみな美人ばかりという表現をする男たちがある。特に東南アジアから来てような若い男性にはそう見えるらしい。そこには発展した日本に対する引け目贔屓目が関与しているだろう。日本にずっといる者からすれば、今の若い女性が昔に比べてみな美しくなったとは到底思えないどころが、全く逆とすら感じられる。みな同じような化粧をし、まるでサイボーグだ。個性がありそうでない。そのため、深水のような才能があっても今の女性を描けば、それはきっと漫画絵になるだろう。実際今の女性はお目々ぱっちりに睫毛が異様に長い漫画顔をしている。若いので知性がまだないのは仕方ないとしても、そういうモデルになりたがるような女性が数年後に知性をもっと磨こうとしているかどうかは怪しい。だが、そんな単なる目立ちたがり屋の女性とは違って、きっと日本のどこかにはまだまだ美人がひっそりといるかもしれない。深窓の令嬢はすでに死語にしろ、そういう言葉にふさわしい女性はいるのではないという期待だ。いや、それは単に女性にそうあってほしいと思う男の身勝手で、とっくに大和撫子など全滅しており、一皮剥けばガハハと笑って下品な話に花を咲かせることが日常の姿といった女性ばかりかもしれず、深水が描く女性と現在の美人の典型と言われるような人を比較しておろおろするばかりだ。先の話に戻って、もし日本の若い女性がみな美人とすれば男もみな格好いい男前ばかりだろう。男と女の共存社会であるから、片方だけがいいことはあり得ない。もし今の日本女性がみな美人とすれば男がそう作っているわけで、もし漫画的とすれば男もそうだ。そこから思うのは、女は男によってどうにでもなるということだ。この逆もしかりと言っていいが、それはひとまずおいて、男が女を好きなように改造するのは普遍的なことではないだろうか。それだけ男は女に対してロマンを常に抱いているということで、そのために美人画というジャンルもある。女性画家たちは男前画というものを描くだろうか。まずそれはないだろう。男前画を描くのも男なのだ。
深水の美人画を見て、今のたとえば女性の人権擁護活動家はけしからんと言うかもしれない。女性がいかにも男の愛玩物のように、ただきれいな人形のように描かれているからだ。深水は今よりもまだ女性が金と権力でどうにでもなる時代に生きた画家であるので、その指摘は多少当たっているが、それでも少し酷だろう。深水は女性を貶めるために描いたのではないからだ。今ならもうそんな活動が出来る画家は不可能かもしれない。女性性というものの深淵を見るためにそれなりに女遊びもし、また別な女性に子どもも生ませたが、それもすべて絵のためというところがあって、実際に遺した絵によってそれは証明されている。変な言い方だが、深水が仮に大の女遊び好きであったとしても、そのことによって絵の気品が失われていないならば、そんな個人的なことはどうでもよい。そして、深水が思い描いていた理想の女性、究極の女性美は現実には本当はなかったものかもしれないが、絵の中だけでもそれが見事に実現されていることは芸術の勝利として喜ぶべきことではないか。男たちが女性にこうあってほしいと思う幻のようなものを深水が実際の目に見えるような形で表現したことは、日本の、いや世界の男たちの気持ちを代弁していることにも思えるし、そういう男のロマンな心を女が見て、その男に惚れるのであれば、こんなによいことはないではないか。人間であるので女性も時には臭かったり、心が醜かったりするのが現実で、そんなことを男が一旦感じ始めると、ロマンはますます強化されて理想像を意識の中に作り上げて行くものだが、それが現実では裏切られることをどんな男でも常によく知っていて、その欲求不満のようなものがたとえば美人画というものを作り上げた気がする。深水にとってはそれは晩年のどの絵にも共通して見られるような美人顔の典型となって行って、そんな「型」としての美人顔を81年に見た時には筆者もまだ若かったので感じ入ることが出来なかったのだ。つまり、深水も晩年になるにしたがって、現実の女性というものに関心がうすれ、脳裏にますます理想像を完璧に作り上げて行ったのではないだろうか。そう思うと男は悲しい存在だ。いや、これは女性も同じで、皺くちゃの旦那より若々しい溌剌とした男の方がいいに決まっている。
深水の描く女性のキモノ姿における文様の描写の完璧さは、職人的と言ってしまえば実ば蓋もないが、同じような技術で描ける画家は現在の日本には皆無に近いだろう。職人の仕事と言って馬鹿にする一方で、それを描ける画家がいないとは全くお笑いだが、実際今の日本画はお笑いで漫画なのだ。深水は10歳の時に父親が仕事に失敗したため、小学校を中退して印刷会社の活字工になった。御舟の絵に感動して画家を目指し、13歳で東京印刷図案部の徒弟となり、鏑木清方の門下生になる。明治44年のことだ。今の芸大美大生よりもスタートは早いし、また生きるのにもっと切羽詰まっていた。13で図案を学んだことは大きい。つまり、キモノや帯の文様を本物らしく描く技術はその当時から習練された。今の芸大の日本画科ではそんな文様を描くことは教えないだろう。それはデザイン科の仕事というわけだ。現在の日本画を深水時代のものに戻すにしても、あらゆることが関連していて単に学校で深水と同じ筆を使って同じ描き方をしたからそれで済む問題ではない。とにかくまず謙虚さを取り戻す必要がある。それに、深水が単に型どおりの美人画家ではないことは、今回も出品された昭和30年(1955)の「戸外春雨」からも明らかだ。筆者はこの縦60、横165センチが4点連なった絵巻き状の作品を大いに好む。中村岳稜が昭和8年に描いた「都会女性職譜」を連想させるが、深水のはもっと大きくて、表現が大胆かつ赤裸々だ。岳稜が描かなかったストリップ劇場の楽屋裏に取材して、2、30人ばりの半裸の女性を描く。57歳の作だ。福富太郎のコレクションに入っているのは運命であろう。いかにも昭和30年で、カストリ誌の表紙に描かれるような際どさと共通した味わいがあるが、それでも春画的なところはどこにもないし、下品でないのはさすがだ。写真をかなり参考にしたと思うが、どの女性の体の線もわずかな単純な線で構成されているのにふくよかでリアルだ。全く健康一点張りとは言えないが、それは深水があえて意図したことだ。戦後の性風俗の一端をあますところなく伝え、そしてペーソスもちゃんと表現している。キモノの文様を描かずにどこまで女性の美しさや妖しさに迫ることが出来るかを実践した代表作で、深水以外にこうした絵を描いた人はいないだろう。同じように女性の働く場を描写して現代の絵巻が可能だろうか。深水のような才能もなくなったが、女性もこの絵に描かれるようなものではなくなったのかもしれない。
今回は展示はなかったが、深水は大正時代に労働者や貧民窟の住人を描いたこともある。きれいな理想的女性ばかりを同じように繰り返し描いたのではないのだ。だが、大正6年に描かれた「笠森お仙」からして、すでに美人画への傾倒が予想されるのは面白い。これは明和の三美人のひとりで江戸谷中にあった笠森稲荷門前の水茶屋、鍵屋の看板娘で当時鈴木春信が錦絵に描いて大人気であった女性を題材に取り上げたもので、いかにも男心をかき立てられたのだろう。現実の美人だけではなく、江戸時代に評判であった美人を想像するほど男はロマンティストなのだ。大正11年の「指」は切手図案にもなった代表作で、竹の床几に座る黒の絽のキモノを来た女性が朦朧体で描かれる。背景は特に昔の写真館のスクリーンによくあったぼけ具合で、どのような技術で描いたかと実物を前にして信じられない気持ちになる。モデルは大正8年に結婚した好子だが、自分の愛する女性であるからこそこういう絵が出来た。ある博覧会で2等を獲得したが、1等は堂本印象であったという。この作品によって深水の名声は決定的なものとなった。昭和5年の「浄晨」は塩原あたりの山部の温泉に取材し、露店の岩風呂を楽しむ5人の裸の女性を描く。アジサイや羊歯、笹が画面左上部に添えられ、画面下の川の流れのうえに一羽のセグロセキレイが飛ぶ。色彩も抑え気味で、「指」とはまた全然違う作風であるにもかかわらず、完成度はきわめて高い。昭和7年の「暮方」は2点対の額装仕立てで、1点が100号ほどもあってどちらも緻密に描き込まれている。左は鏡台に向かって日本髪を整える襦袢姿の女性で、顔は見せない。右は風に揺れる紗の紺色のキモノや風鈴、朝顔の鉢植え、畳のうえの団扇が描かれて、夏の風を見事に表現する。キモノの美や日本の夏の風物詩といったものがもう遠い昔のものになった今ではこんな絵は仮に描けても現実味がなくて評価はされないだろう。戦後直後には、雪の中を傘を指して行く日本髪の女性を描いた「吹雪」という典型的な美人画に類する作風が続くが、昭和21年の「雪持ちの梅」といった2曲の金箔地屏風に枝垂れの紅梅を描いた珍しい作もあって、マンネリには陥っていないことをよく示していた。戦後も30年代になると、宋の時代の磁器を持った現代女性の群像を描いた「宋磁」でもがらりとモダンさを表現し、実在の女性を描いた「黒いドレス」や「菊を活ける勅使河原霞女史」といった名作があった。すべての日本画を志す者は折りに触れて深水は見直す必要がある。模倣しても意味がないと諦めたり侮るのはまだ早い。学ぶべきことは少なくない。