沼に落ちると這い上がることが出来ずに窒息死してしまうことを子どもの頃に漫画か何かで誰もが知るが、沼が間近にないことに安心してはいけない。セメント工場で生き埋めになる事故があり、サイロでも同様のことが起こり得る。若い人では振り向いてくれない異性に魅せられて沼にはまったのと同じ苦しさを味わうが、依存症は知識欲に限っておくことだ。今日は半年経つが、 4月21日に京都市美術館の別館で見た展覧会について書く。当日は購入しなかった図録をその後入手し、文章を全部読んだ。概して展覧会図録は文章よりも図版に意味があるが、本物の作品を見た時の印象には勝らない。展覧会に出かけるのは本物を目の前にした時の迫力を味わうためだが、実際に見たことのない作品の原色図版で感心、感動することはあるし、実作品を目の当たりにして必ず心が大いに動くとは限らない。さて、本展は日本の5都市で開催され。京都展は東京富士美術館に次いで二番目の開催で、筆者は家内と一緒に最終日の4月21日に見た。中国から文物を借りての日本での展覧会は70年代初頭からたぶんもう百回は開かれていると思う。それらの展覧会の図録を全部揃えた図書館はたぶん日本にはないだろう。中国美術は西洋のそれに比べて圧倒的に作品集は少ない。それは有名な画家や彫刻家が少ない、あるいは日本ではほとんど知られないことと、そのことから容易に想像出来るが、ある時代の様式を持つ美術品は代表的なものを見ておけばそれで事足りると思われやすいからだろう。たとえば今回は目玉作品として兵馬俑が1点展示された。日本での兵馬俑の紹介はこれまでも何度もあった。その全容を知りたければ中国に行けばよいし、その発掘された状態は多くの写真で紹介されて来て、威容は想像出来る。8000体ほどあると推定される兵馬俑を毎年10点ずつ日本で展示するとして、全部紹介し終わるのに800年かかる。この事実は1点目の当たりにすれば他は同じようなものとの考えを抱かせる。そのことは兵馬俑に限らない。陶磁器や饕餮文のある青銅器もある程度は同じで、総花的に各時代の作品を揃えた中国美術展はどれも同じような印象を受ける。それででもないが、作品を各時代から選ばずに、本展のようにある枠組みを定めて出品作を選定することを関係者は考える。漢字が生まれて三千年の間にあらゆる文物に漢字は使われ、また紙に墨で書かれる書の作品は書き手の個性、人生そのものを表出する手段として美が競われて来ていることは日本でも同じで、本展では当然書の作品も展示され、その壮観さはガラス越しでもよく伝わった。珍しいことに撮影が許可されていたので多くの写真を撮ったのに、どういうわけかいつの間にかその大半が記録媒体から消えた。それで図録を入手することを思ったが、幸いなことに兵馬俑の写真は残っていて、今日はそれ以外の2点、そして図録の図版から2点を補う。
兵馬俑は本展の出品中最大で、運搬の苦労も同様であったはずだ。この兵馬俑が本展に選ばれたのは漢字が刻まれているからだ。本展は筆者ら以外に観客はいなかったが、兵馬俑に向かって左手に大柄な中年女性監視員が立っていて、暇を持てあましていたような彼女は筆者らに声をかけ、俑のどこに文字があるのかを教えてくれた。小さな文字であるので遠目にはわからない。ちょうど兵士の心臓部に小さな「不」の一字が刻印され、その字形はほぼ大阪市の紋章の「澪標」と同じで、漢字というより記号に見える。もちろん漢字は記号でもあり、差異の識別が容易でしかも単純化した形で意味を伝えるために漢字は生み出された。今回の兵馬俑の「不」や他の兵馬俑に見られる80個ほどの漢字は姓名の名とされ、名前が二字であれば、その一字を使い、また同名者と区別するために使用漢字がだぶらないようにしたであろう。「不」は「花の弁の付着している蔕の形」を表わす象形文字で、否定の意味に使うのは同音ゆえの借用だ。そうしたことも含めて漢字の世界は広大で、字形の変遷に関心の専門家はどの時代のどれを好むかで棲み分けている。話は飛躍するが、そこに現代中国が使う簡体字を現代中国の書道家たちがどう思っているのかという、本展では全く紹介されない漢字の現時点での重要事もあって、中国における漢字の世界は迷路化しているように筆者には思える。漢字が各時代の表現それぞれに書き手の美意識が働いていたことは当然として、おおよそどの漢字も正方形に安定をもって収まっていたのに、簡体字ではその安定感がさほど考慮されていない、つまり漢字における安定した美意識に大変革が起こったことを感じさせ、強いて言うならば本展に展示された作品すべてが現代中国とは別の国で作られたもののように思わせる。これは戦後の中国がそれ以前とは全くの別世界になったと言い換えてよいことだが、共産主義国家になったためにそれ以前の長い歴史の中国の文物がすべて否定されるはずはない。また出来ることでもないので、簡体字を使った書の美術作品と呼ばれるものがすでに生まれているかもしれない。あるいは今後は大量に出て来ることはあり得る。そうなれば千年後に「漢字四千年の美」展が開催されるとして、そこには簡体字による書作品と戦前までの書作品との断絶よりはつながりの方が強調される解説がなされるはずで、その意味で漢字は死ぬことなく、中国人が存在する限りは変化しながらも、その時々にふさわしい美意識が付与された作品が生まれる。ただし、紙に墨で書く、日本で言う「書道」がどうなるかはスマホ必須時代が続くことによって今後の予測がつかない。絶滅はあり得ないとしても、ごくごく一部の人たちの趣味と堕すかもしれない。話を戻す。「不」の刻印のある兵馬俑は一号坑では7件あって、同じ人物が制作したとされるが、ひとりとは断定出来ない気はする。
兵馬俑はどれもきわめて写実的な表現で、兵士の個性が露わになっていると同時にどの俑も完成度が高い状態で表現の質が整っている。これは兵馬俑全体を統率した者がいて、作品の仕上がりのむらを除く手はずを整えていた印象を与える。具体的には最も彫像制作の才能の豊かな人物が手本としてまず一体を造り、他の大勢の工匠はそれを手本に兵士や馬の個性を一方で思いながら、作品の質としては同じものを目指したのだろう。中国美術は清時代までそうした高度な質の高さを理想とした完璧主義に貫かれ、芸術家の個性の表出を重んじるよりも限りなく高度な技術を理想とし、またどの時代もそこに到達していたと言ってよい。そこに個性を重んじる書の芸術を持ち出すとまた別なことが見えて来るが、芸術家の名前よりは作品が優先されるべきとの考えは兵馬俑にすでに表われている。ところが現代はこのあたりまえのことがないがしろにされ、作家は有名にさえなればどのような下手な作品でも持て囃されるという異常かつ馬鹿らしい風潮が流行する。作品は作者名が優先してはならず、作者が不明であっても作品本位で評価されるべきだ。兵馬俑に小さく刻まれる漢字の名前は作者を示すとしてもほとんど無名性と同じで、全体としての兵馬俑という巨大芸術に奉仕していることで各作者は充足している。あるいは8000体すべてを仔細に検討した時、作者の技術性や個性がより明らかになり、各作者が全体の統一を目指しながらも個性の表出の自負を持っていたことがわかるかもしれない。おそらくそうだろう。誰かよりも上手に表現したいという思いがある限り、一見型どおりに作っているようでいて、作品に優劣は生じる。また兵馬俑の場合、兵士の位があったはずで、高位の兵はそれに応じて精神性も貫禄も重視した表現が意図されたはずで、技術が優秀な者ほど高位の兵俑の造形に携わったのではないか。話を戻して、兵馬俑の「不」などの漢字は制作集団の各班を示す文字とも思えるが、いずれにしても作者を区別する記号であることは確かであろう。記号であれば丸や三角などでもいいように思うが、漢字であるところに作者の技術を誇る思いが反映しているように思える。丸や三角の記号であれば、それらと対照する作者名簿がなくなれば作者名はわからなくなるからだ。つまり兵馬俑は芸術性の高さを意図された。秀吉が大坂城の築造のために遠方から巨大な石垣用の岩を運ばせた時、それらの岩には丸や三角に類する記号が刻まれた。それら石垣用の岩は組み上げる際に実用的考えとは別に一種の芸術的才能を要するとしても、岩は無名の職人が切り出し、そこに切り出した個人を特定する名前の刻印の必要はない。兵馬俑はそうした部材ではなく、現実の人間を忠実に象ったもので、誰がどの俑を制作したかの印は、作者の自尊心を満たす目的以外に、搬入その他の管理側面で不可欠であったろう。
すべての兵馬俑に漢字が刻印されているのかどうかは知らないが、どの刻印も作者の落款というほどに目立つものではない。それに美しい字体を意識したものでもなく、兵馬俑全体を管理する者にとって誰が作ったかの責任の所在を把握する意味合いが中心になったものであって、作家意識は乏しいように感じる。これが字体に明白な個性を込め、あるいは印章を捺すならば、作家の自己主張が前面に出て来るがそれはもっと後代のことで、兵馬俑には書への美意識は感じられない。また丸や三角といった記号ではなく、漢字が使われたのは、漢字が丸や三角の記号を包括してなお意味を持つという思いがあったからではないか。中国にも当然丸や三角、その他の記号への意識はあって、それらを用いた造形があるが、意味を持つ漢字とは大きく区別されたように思う。また話は飛ぶが、日本の家紋は絵画のように自然の花などを題材として定形の枠に収めた記号で、象形文字とは別の考えによりながら、同様の記号性を持ち、中国とは異なる日本美術の本質を宿している。もちろん中国にもそうした絵画的記号すなわち紋章はあるが、日本の家紋ほどには単純化かつ定形の枠内に収める精神はない。家紋のようにどの花や動物でも同じ一定の枠内に単純化して収める意識は漢字から仮名を生み出したことに前例があり、現代中国の簡体字は日本の仮名に幾分倣って編み出されたものとの感がある。仮名も簡体字も書くのに少しでも時間を短縮する思い、またそのように一部の漢字を単純化することで文面が見やすくなることで生まれたものと言ってよいが、これは意味を伝える漢字の便利さを自覚しつつ、漢字の数が増え、すべてを記憶する人が限られて来たことも一因で、三千年の間に漢字は同じ意味のまま現在に伝えられ、また使用されてもおらず、最古の甲骨文字でも現在読めない、あるいは意味がわからない文字がたくさんあるとされる。図録の解説によれば、現在まで甲骨文字は5000ほど発見され、そのうち1500ほどの解釈が問題なしとして定着しているが、学界でひとつの甲骨文字を正確に解釈出来ればすぐに博士号が得られると言う。それほどに甲骨文字は半分以上が意味不明となっている。言葉は時代に伴って変わるからそれは無理もない。甲骨文字は骨に刻むからどの線も直線となっているが、同じ時代にすでに筆は存在し、木簡が多数発見されている。筆であれば丸い形でも書けるが、ハングル文字と違って漢字に丸い画は基本的にはない。それは甲骨文字が首位にあってそれに準じたからかもしれないと勝手な想像をする。ただし後代になると自在に曲線を駆使した草書の漢字表現が生まれる。たとえば「口」という漢字はそのとおりの四角を書くより丸で表現する方が早く、草書の美は速度感を味わうものと言ってよく、その速度は手や身振りの動きに比喩されるもので、書の美は舞踊のそれに通じている。
甲骨文字は先の尖ったもので骨に刻みを入れることから「契文」と呼ばれるが、漢字の字形に関する本には「金文」も頻出し、「契文」の次にその字形が紹介される。もちろん契文がなく、金文だけの漢字もあるが、本展の図録では金文に関して興味深いことが書かれている。金文はその名のとおり、金属に刻まれた文字だが、青銅器に文字を刻むには鉄の刀を要する。ところが青銅器時代にそれはないから、別の方法で青銅器に刻印した。もちろん青銅器は鋳造であるから、鋳型に文字を刻むのだが、甲骨文字と同じように型に刀で漢字を刻むと鋳造が仕上がった青銅器は文字が凸状に浮き出る。そのような青銅器は皆無で、どれも甲骨文字と同じように凹状に文字が表わされている。しかもそれらの文字はたとえば注ぎ口の首がすぼんで胴部の中がほとんど覗けない器の内面といった、ほとんど誰にも見えない箇所にあって、その理由は不明だが、祭祀用の器となれば刻印する文字の意味をなるべく不特定多数の鑑賞者には見せないという気持ちはわかる。甲骨文字も元来社会の頂上部の人たちだけが見て意味を把握するものであったはずで、青銅器に表わされた文字も呪術的な意味を持ったのだろう。さて、青銅器の鋳造工程はまず仕上がりと同じ大きさと形のものを土で作る。そこに別の土を被せて雌型を得る。次に同じ大きさと形で作った土の型の表面を薄く削る。それに雌型をセットして青銅を鋳るが、青銅器内の文字は表面が薄く削られた土の型の表面に刻めば、先に述べたように鋳造後は器の内部に凸状に文字が浮かび上がる。となれば土の型に凸状に文字を盛ればいいが、それは現実問題としてかなりの手間を要し、また仕上がりの凹状の漢字は美しくなりにくい。甲骨文字と同じく、金属に表現される文字も凹状であるべきで、そこには青銅器を鋳造する人の工夫と手間を要した。現在考えられている工法はこうだ。文字を刻んだ土の別板から土の型を取れば、それは文字は反転され、凸状に表現されている。その土板を前述の青銅器の内側の型となる表面を薄く削った土の型に嵌め込み、そうして雌型をセットして鋳たとの考えだ。また中国各地で使用する文字は違っていたので、兵馬俑の秦の時代に文字は統一され、篆書や隷書が生まれた。それは221年とされる。また秦は15年で滅びたので、秦が駆逐した他国の文字がその後どうなったかの考察が本展図録に書かれ、中国の歴史に詳しい人は心躍るだろう。あるいは中国の歴史を知るのに中国の文字の歴史は欠かせない。当然「漢字」は漢時代の文字を意味するが、漢に至るまでにまず秦による文字の統一があった。また殷時代の骨や甲羅に刻まれた甲骨文字が大量に発掘されてまだ百年は経っておらず、兵馬俑に匹敵する世紀の大発見は今後の中国にあると考えてよく、古代の漢字史料は増え続けるとして、字体に関しては出揃っている。
思いつくまま書きながら、話がまとまる気がしないのは、中国で生まれた漢字を日本が使いながら、その発音の差があり、時に意味も異なっている現実を思うからだ。日本は漢字を使うようになってやがて仮名を作ったのは、中国と日本の言葉の違い、つまり発音が違ったからだ。文字以前に言葉がある。文字を知らない人でも話すことは出来るし、その言葉による意思疎通はおそらくどの民族でも程度の差がない。ということは通訳が可能ということで、その考えは正しい。民族固有の、たとえば赤色に因む言葉が韓国では日本よりはるかに豊富と聞いたことがあるが、生活におけるさまざまな赤に因む事象をひとまとめに「赤」と言い換えてもおおよその意味は通じるだろう。とすれば言葉は無限に増えても実際に使う数は限られる、あるいは限ってよいことになる。語彙の少なさを教養の質が劣るとみなすことは全世界共通のはずだが、語彙を限りなく増やすことに執心し、それを奨励する社会であれば、やがて支障を来すであろう。それで日本では常用漢字を設け、通常の社会生活に困らない程度の漢字の数を決めている。常用漢字のみでノーベル文学賞並みの小説が書けるのかどうか興味深い問題がそこにあると筆者は思っているが、時代にそぐわない難解な言葉を使った小説はやがて読者は減少するはずで、難解な言葉を誰にもわかりやすい言葉に代えるべきという意見があるかもしれない。これは一筋縄では行かない問題で、難解な言葉のその程度を誰が決めるかという問題がまずある。言葉に関心があり、語彙の豊かさを目指したい人は一般に難解と思われている言葉をそう思わないであろうし、そういう一般的ではない言葉を散りばめた文章はそれ相応の風格を帯びることを否定する人はいないだろう。夏目雅子は交際前の伊集院静が「鬱」の漢字を目の前で書くことに驚いたことをTVでかつて語った。その時の彼女の表情からして、難解な漢字を書くことの出来る男に一瞬で魅せられたということで、語彙の豊富さ、漢字をたくさん知っていることは相手を驚かせる手段になり、またその現実があるからには言葉の豊富さは人が目指すべき態度ということになる。となれば、語彙が豊富でなければ表現出来ないことが存在すると考えてよく、先の韓国におけるさまざまな赤色の表現を単純に「赤」に代表して言ってしまうことは文化の多様性を無視することになって、最低限の意味は通じても伝わらない本質はあるということになる。となれば使う言葉の違う者同士はある程度しかわかり合えないことになるが、言葉を使わなくても理解し合えることは人間にはあり、言葉には限界があるという見方も出来る。実際そうで、前にも書いたことがあるが、たとえばある人物の顔は絵や写真によって一瞬でわかるのに、百万語を費やしても誰もが想像するだけで、またその想像の像には差がある。
日本では漢字を音読みと訓読みで学ぶ。これは中国にはないことで、同じ漢字を使うとして、日本は中国より不利な状態にあると言える。だが中国でも同じ漢字は時代や国によって違う発音になることがあるはずで、まずは言葉があって、それに文字を対応させることを念頭に置かねばならない。そこで筆者が昔から気になっていることに、漢詩の発音がある。漢詩の音読には平仄があって、これを整える必要がある。ところがこの平仄は中国人ならば発音から自ずとわかるが、中国語の発音を知らない日本の知識人は言葉の意味を優先して漢詩を作る。そういう漢詩は中国人にどのように思われるのだろう。あたりまえのことながら、詩は言葉のリズムの美しさと、謳い上げる意味とが合致する必要がある。日本に伝えられた中国の名詩は意味はわかるとして、中国人が読んだ時の発音の美は基本的にはわからない。これは詩の半分しか理解していないことになりはしまいか。平仄に関しては日本人が漢詩を作る時に便利な手引書がある。これは漢詩を半ば機械的に整える手段で、そうして作った漢詩は中国の名詩の味気ない模倣か残り滓のような味わいがまとわりつくだろう。何が言いたいかと言えば、中国の言葉を文字化した漢字を使った詩文はやはり発音が大事で、意味だけを重視するしかない日本では漢詩の理解に限界があるということだ。次に別のエピソードを書く。93年にサイモン・プレンティスさんと話をした時、日本語の巧みな彼は日本語で話す時、平仮名や漢字を思い浮かべるより先にアルファベットで脳裏に綴ると言った。これは日本語の言葉を知っているのに、それを必ずしも仮名や漢字を充てる必要がないことを意味している。結局言葉が先にあって、それを表現する文字はひとつとは限らない。たとえば難解な漢字は必ずしも必要ではなく、ハングル文字のように日本語を全部平仮名で書いてもいいことになるし、それに近い文章をあえて書く人はいるだろう。となればアルファベットやハングル文字、日本の仮名など、表音文字だけでいいではないか。それがよくないとしても、表意文字に優先しそうだ。日本語は表意文字として漢字を使い、表音文字として仮名を使う文化を育んで来た。中国では漢字ばかりで、しかも表音文字的に使う必要上もあって漢字を増やし続け、その行き過ぎを現代の簡体字によって克服したのであろう。そう考えると日本は漢字を輸入しながら仮名を生み出し、中国よりもかなり早く言葉を示す方法に簡略さを見出したと言えるだろう。その簡略化する考えの中から前述した家紋、そしてやがて漫画を生んだ気がする。これは記号に対してどういう思想を持っているかの文化比較論になるが、筆者は日本のアニメや漫画をあまり好意的に捉えていない。平仮名だけで、しかも書かれた稚拙な文章なぞらえられる気がするからだが、同じように単純きわまりない赤塚不二夫のギャグ漫画は愛好する。
その理由は自然を忠実になぞろうとしていないからだ。漫画やアニメはみなそう言ってよいところがあるが、特に背景画を実写そっくりに細密に描くアニメがあって、筆者はそのどこがよいのかさっぱりわからない。それにそうした実像そっくりのアニメ画像は実写映像をAI技術でアニメ化する技術が今後発達するはずだ。ところが省略と誇張の独自性を記号化した赤塚漫画は全く別の地平に立っている。ただし、赤塚漫画が駆使するキャラクターの表情や動きはごく限られ、難解な漢字を使った文章のようなものではない。漫画とはすべて単純な、記号化した人物の表情や動きを駆使するもので、物語もそうならざるを得ず、絵と言葉を使うことで結局のところ中途半端な、奥行きの乏しい表現になる。人間は言葉で想像させられ、想像することを楽しむ。そこに説明的な絵があれば想像が限定され、たちまち白ける。絵は絵のみ、文章は言葉のみで表現を深めるのがよく、文学的感動を盛ろうとするアニメや漫画に筆者は興味がない。日本のアニメや漫画が世界に認められ、輸出産業の一翼を担っているのはいいとして、なぜ日本でアニメや漫画が盛んになって来たかのひとつの理由に漢字から仮名を生んだ文化がある気がすると先に書いた。だが、漢字と仮名が混じる文章は、今やアルファベットも混入し、文章の字面は美しいものとは思えない。一方、簡体字を使うようになった中国だが、依然として文章では漢字のみを使い、厳格な美意識は保たれているように見える。ここからどういう方向に話を進めたいかと言えば、書道についてなのだが、別の文脈で述べることにする。漢字に話を戻すと、漢字の書体について述べる必要を感じるが、これも機会を改める。漢字の成り立ちに六書があって、象形文字はそのひとつとして、最も多いのは形声文字で、これが漢字の9割以上を占めるとされる。たとえば偏と旁で構成するので、組み合わせによってほとんど無限に作り出し得る。しかし偏と旁で構成された意味を知らない形声文字があってもその旁の読みで正しく発音出来ることを知っているので、読むだけであればほとんど困らない。たとえば「惻惻」という言葉を「そくそく」と読むことは想像がつくが、意味を知らない人は少なくないだろう。意味を知っても会話で使うことを控える気がするのは、ほとんど誰も日常会話に使わないからで、意味を知って別の平易な言葉に置き換えて使用する。その伝で言えば先の韓国における豊富な赤色の表現も翻訳者は単に「赤」とひとまとめに訳すだろう。それは大多数の人には便利でも言葉固有の味わいを消失させてしまう。つまり「惻惻」という言葉が生まれたのはそれでしか表現出来ない味わいがあるからで、人の顔がみな違うように言葉で表現したいことも無数にあって、漢字はそれに対応して来た。ところが日常生活ではある程度の言葉で充分で、義務教育で学ぶ漢字の数を定めている。
形成文字が増え続けたのは、ひとつには前述したように偏と旁の組み合わせで簡単に創出出来るからだろう。なぜ新たに作る必要が生じたかと言えば、新たな言葉が生まれたからだが、その言葉があまり使われなくなればそれに応ずる漢字もそうなる。六書のひとつに仮借があり、これはある言葉を表わす漢字がない場合、同じ発音の既存の漢字を使うことで、そこにも発音の重視が見られる。同じ音の別の漢字を署名に使うことは江戸時代の日本の絵師でもよくあって、漢字の意味よりも発音が優先していた。そのある漢字の意味とは、その漢字が表わす言葉の意味で、たとえばある王朝で誰かが「正」の意味を「悪」と定めると、その後はそのように認識されて行くのであって、「正」に絶対的に「ただしい」の意味はないと言ってよい。つまり「ただしい」という言葉に「正」を充てているだけで、漢字そのものに不変で唯一の意味があるのではない。まあ「正」を明日から「悪」の意味として使えと命ずる権力者はいないだろうから、「正」を見ていつも「ただしい」という感情を抱くことは常識化しているが、漢字を知らない人にとってはその意味はわからず、「正」は「正」が意味することを知っている人だけに通ずる符合だ。そして、漢字を二字並べた熟語はそれぞれの漢字の意味を知っていると想像しやすいが、中国と日本とでは同じ漢字の二字熟語で意味に違いがある場合はしばしばある。となれば自分だけの二字熟語を作って仲間うちに通ずることを試みる人がいるだろうし、それが広がればやがて辞書に載る言葉になることも想像出来る。だが言葉の短縮を望む傾向のある日本では、たとえば「セクハラ」のように仮名四文字で新しい言葉を作り、そこに漢字の出番はなさそうだ。しかし中国でも同じ傾向はあるはずで、簡体字の二字や四字の熟語で新しい流行語を作るのかもしれない。だらだらと話がまとまらない。中国語を学べばもっと詳しいことや新たな疑問について書くことが出来る気がするが、筆者は漢字の字面から踏み込もうとするはずで、それではやはり駄目で、まずは発音を習得し、それに対応する漢字という手順を踏まねばならない。さて、本展図録から書の作品の図版を2点紹介しておく。今日の4枚目の書は17世紀の傳山(ふざん)の作で、紙の艶と山水の絵模様の美しさに流麗な草書が相まって見事であった。5枚目は19世紀か20世紀初頭の西太后が書いた漢字の組み合わせによる「福禄寿」で、漢字でこのように人物を象る絵画的書は日本では白隠に例が多いが、その原点はやはり中国にあるのだろう。西太后は同様の作を何枚も書いたようで、大臣に与えられたと説明にある。手本を絵師に描かせ、それを何度も臨書したのか、ともかく筆を持てば達者な技術を披露した中国の権力者を示し、漢字は筆があってその美意識が伝えられて来た真実を思う。
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