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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『第32回 京都春季創画展』
今日は正午直前に目覚めた。10時に起きていれば和歌山に行ったが、正午ではもう遅い。4月に入ってずっと和歌山のある展覧会に行くことを予定していたのに、昨夜気になって会期を調べると、迂闊にも今日までであることがわかった。



京都から和歌山までは100キロある。電車を乗り継いで優に3時間はかかるので、1時間も見られない。それに見たい展覧会はひとつだけではない。ぐずぐずしていると1時になった。曇天であるし、夕方には雨も降るかもしれない。結局諦めて京都市内を回ることにしたが、行くべき展覧会は4つもある。今日1日では全部無理で、まだ会期が残っているのは後回しにすることにした。バスを待っているとバック・パッカーのアメリカ人の青年がやって来て、近くにいたおばさんに金閣寺に行くにはどうすればいいか訊ねた。すっと横に行くと、こっちに役割が回って来た。ある程度は同じ方向に行くので、来たバスに一緒に乗った。京都市バスは500円の1日乗車券がある。それを持っているかどうか質問すると、今日の日づけの入ったものを大きな財布の中から出した。つまり、最低一度は使用していることがわかった。金閣寺に行くには乗り換える必要があるが、信号をわたって別のバス停に行かねばならず、少々ややこしい。同じバス停で下りて案内してもよかったが、時間がない。それでバスの出口まで一緒に行って、下りる前にバス停を教えたが、運転手にお金を払おうとする。1日乗車券を持っているのにその使い方を知らないのだ。慌ててさえぎってバス券を出させ、それを運転手に見せた。青年は下りてからバス中の筆者をしきりに笑顔で見つめて何度もサンキューと言っていた。無事に金閣寺に行ったかどうか心配だが、京都のややこしいバス路線や乗車券システムを間違うのは無理もない。1日乗車券は使用可能なエリアがあって、それを越えると追加料金を支払う必要がある。青年はどうやらそのようにして最初は使ったようで、1回使うともう使えないと思ったに違いない。握りしめた英語版の京都市バス路線図はしわくちゃになっていて、金閣寺のバス停が赤いマジックで大きな丸で囲んであった。誰かに目印としてつけてもらったのだろう。
 アメリカ人が京都に来ると必ず金閣寺だけは見るようだ。筆者は金閣寺も小さい頃から何度も訪れ、京都の寺の中では最初に知った。だが金閣寺は京都でもかなり異質な建築物で、絵はがきを見ているようで寺の趣はない。外人がいいと思う日本文化はなかなか日本にいてはわからないが、これは外国に対して文化紹介が下手だからかもしれない。数年前、京都に来る外国人に最も人気のある絵はがきは寿司の写真を使用したものだとTVが伝えていた。これにはすぐに納得出来た。外国へ旅行して美味しいものを食べるのは、よい景色を見るのと同等かそれ以上の楽しい記憶になる。そのため京都が外国人にもっと来てもらいたいのであれば、たとえば金閣寺の境内のどこかで美味しい寿司を安価で食べさせる店を作るといった大胆な発想がいる。あるいは精進料理でもいいし、とにかく楽しい食事の思い出が作れるようなシステムをもっと考えねばならない。ところが京都はまだまだお粗末に出来ている。先に下りたアメリカ人青年を見送って、改めて市バスの1日乗車券の裏表をよく見ると、そこには英語の表記は一切ない。しかも何度でも使用出来るという断り書きもごく小さく印刷されている。最低でも英語、中国語、韓国語の3か国語表記を加え、寿司は無理でももっと楽しい写真を掲げるなどのデザインが好ましい。それでもきっと無理だろう。市バス以外にたくさんのバス会社が同じ路線を走っていて、料金体系がややこし過ぎる。これをまず根本的にもっと簡単なものにして合理化すべきだが、なかなかそうも行かない。前置きが長くなったが、さて創画展だ。この20年ほど秋、春と毎年見ている。招待券を送ってもらえるからだが、今日は最終日で、和歌山に行ったならば見ないで済ました。外国からの観光客の中にもこうした団体展の開催にたまたま遭遇して入場する人も稀にはあるだろう。そしてどんな思いで会場を出て行くことだろう。金閣寺に匹敵するワンダフルの感動が得られるだろうか。金閣寺を見て素晴らしいと思う外人は京都の町並みの雑然さをどう見るのか、先日はようやく中京あたりのビルの高さ制限の条例が出来た。200年ほどすれば理想的なビル並みになるという想定だろうが、フィレンツェのような整然とした瓦屋根が続く街並みとは比較すべくもないごちゃごちゃ具合は解消されるはずはない。人間は環境に左右される動物であるから、日本あるいは京都に長年住んでいると、それに釣り合った人間になる。芸術もしかりだ。であるので、現在の日本の真実の姿を知ろうと思えば、日展、院展、そして創画展を見ればよい。そこには街並みが抱える問題と同じことが内在している。現在の日本文化は、住居、建物、食べ物、衣服、それに芸術までのすべてが、津波のような大きな波となって押し寄せた西欧のそれに影響を受け、混沌とした波の中でもがき苦しみながらどうにかこうにかバランスを取ろうとして来た、そして現在もなおしているのが実情だが、今では言葉すらも小学生から英語を学校で積極的に教えて行こうとされ、江戸時代に世界にも稀なほどに昇華させて行った諸文化はみなその存続がとっくに危ぶまれ、あるいはすっかり消え去って形骸しか残っていない。
 だが、たとえば江戸時代の絵がよかったとして、その伝統をそのまま今に受け継ぐのは無理がある。まず筆の文化ではなくなった。今でも確かにエリート教育として、絵の上手そうな子どもを見出し、数歳くらいから徹底して筆を使わせることで昔の絵師のような技術を身につけさせることは出来る。だが、世間がもう筆の文化ではないし、そんな人材を得ても、温室で育てられた植物のように、か細い、そして一般から乖離した存在にしかなり得ない。今は今なのであるから、今みんなが普通に入手出来る道具や材料で、今の人々が愛好出来る絵を描くことが理想だろう。その意味でまた、たとえば日展、院展、創画展といった日本を代表する団体公募展に並ぶ作品がそうした点を満たすべきものと言ってよい。ところが、なぜかそうした展覧会に並ぶ作品は正直な話、感動がない。大画面がずらりと並ぶ様子はそれなりに壮観かもしれないが、若手が100号の絵を充実して描くのは無理がある。ごちゃごちゃの街並みよりまだ混沌としていて、美を探すのに苦労する。これは当然か。大画家がそんなにたくさんいるはずはない。100人のうち0.5人としても、会場に並ぶせいぜい2、3点がおやっと思えるものであるに過ぎない。つまり、最初からあまり期待しないことに限る。実際筆者は日展、院展は全く見たこともないが、創画展に関してはずっとそのようにして何かはっとさせられる作品があるかどうかという見方で今まで来た。だが、筆者が目をとめた人物はいつも1、2年後には作品がない。日展、院展、創画展に出品して受賞し、やがて会員になるには、まず芸大美大を出ている必要がある。これは審査員がそうだからだ。いくら絵が好きでも、誰でも知る有名な芸大美大を出ていない限りは公募展に長らく出しても無駄だ。これははっきりしている。たまに受賞しても絶対にボス格にはなれない。芸大美大で教育を受けた者は、たとえば独学でいくらいい絵を描く者よりも実力があるとされるのが世間だ。絵の実力など、権力者によってどうにでも決められる。月並みな技術であっても、芸大美大を出ていればそれで世間は立派な先生と見る。問題はそんな上層だけにはとどまらない。日本画を描く人々はみなどこか特権階級的な意識を持っている。100号の絵を描くのに、わずかはがき大程度のあまりに簡単な鉛筆描きの小下絵1枚しか作らず、後はいきなり絵具を塗りたくって描いて行く光景を見たことがあるが、そうした作品がたとえば日展、院展、創画展に並ぶ。写生などろくにせず、構図をしっかりと練ることもない。確かの結果がよければ下準備などどうでもかまわないが、そう簡単に絵を思うのはどうか。年2回ある展示にどうにか入選して、みなと一緒に作品が並べばそれで日本画家という自尊心が満足らせられるから、絵に真実がこもっているかどうかはどうでもかまわない。画家であるからには1日最低でも8時間は筆を持って絵を描いていて当然だが、そんな「絵の馬鹿」がどの程度いるだろう。前にも書いたように、日本は独自の絵の評価は持っていいと思うから、世界から認められなくても好きにやればよい。だが、問題は日本の中で本当に有名団体公募展に並ぶ絵をみんなが世界に誇るべきものと思っているかどうかだ。たとえば日本の現代の画家を海外に紹介する時、一体誰がそれを選定するか。これは政治の問題が大きく絡むことであるので、まず在野の、たとえば風刺画家と行った存在は初めに選定に載りもしない。日展、院展、創画展に若い人々がせっせと作品を出品するのは、やがて日本を代表する存在になり得るという夢をどこかで思い描くからだ。そんな頂点に立つ人物は限られていても、そういう人々の末端に連なっていることで優越感を抱く。かくして永遠に団体公募展は続く。
 今回最も印象に残ったのは去年秋も見てそう思った中村槙吾で、「春に旅立つ」だ。全体に黒っぽいモノクローム調で、小さな人物が画面のあちこちに孤独に点在している。空港の施設の中、高いところから人を見下ろして写生したものだろう。あるいは写真を撮ってそれを見て描いたかもしれない。ところどころにライトを表現しているのか、白緑や白茶、オレンジの周囲が滲んだ円が散らしてある。あちこちに絵具が垂れてそれが染みのようになっているが、近寄って見ると独特のマチエールといったものを作り出していて、これがまたよい。塗り残し、激しいタッチも混ぜつつ、全体は静謐な印象があり、しかも絵が汚れていない。なかなかの実力を感じる。空疎な、しかしどこか懐かしいような現代の風俗をよく表現していて、写実と抽象をうまく混ぜたこうした題材は創画では珍しい。もうひとり梶岡百江の「ラルゴ」は、夕焼けの街の通りを描き、遠くにひとりの人物のシルエットが浮かぶ。簡素な構図とモチーフで、ごてごてと絵具を盛り上げずにすっきりとしているのが珍しい。キリコや斉藤真一の世界にやや近いが、独特の情感がある。竹原城文の「洗い場」はタイかどこかの川上の貧しい住居を写生したものか、妙に目についた。空は金箔を貼っていかにも夕焼けを思わせ、逆光の中、3人の小さな人物も懐かしさのようなものを伝えた。黒やエンジ色の使い方がよく、色彩感覚に独自のものがあってよい。このような夕暮れの雰囲気をいつも描く画家としては岩田清州がいる。今回の「山村秋日」はいつものように金箔の光をうまく生かし、どこにでもあるような田舎町の一角を描かいている。いつも人物を描かずに何かしら懐かしさを感じさせるところがよい。土手朋英は創画では珍しい現代琳派的ともいえる写生に根づきながら日本的装飾の画面を作り出す画家で、昔から筆者は好きだが、今回は立葵や早苗、オモダカを描き、日本の季節感の表出を試みている。だが、近年は定型化が目立ち、また色彩にも若干の濁りのようなものを感じる。浅野均の「雲開深処」は、近年の山並みを描く一連の作のヴァリエーションだ。今回は今までとは違った味わいがあって面白かったが、習作的であったのが物足りない。松本祐子の「春の雪」は以前のどこか幻想的で力強さのようなものが減退して、オーソドックスな方向に傾きがちなのがやや不満だ。白梅に雪が降るという難しい題材ではあるにしても、もう少し工夫がほしい。梅を題材にすることは日本画の長い歴史を全部相手にすることであり、今後さらにテーマを深める必要を感じる。木村英史の「花降る日」は、今の季節にぴったりだ。桜の花びらが広い水溜まりに無数に浮き、そこに桜の幹の梢が写っている。こういう光景を絵にしたくなるのはよくわかるが、本当は写真かあるいは洋画がこうした視点で表現するには最適だ。桜は陳腐な絵に陥りやすいし、奇を衒うと花の精が逃げて行く。それゆえ、絵がよいと言うよりも、絵で表現されている世界を連想して酔える感じがした。これでは絵は成功しているだろうか。大河内正人は4点出ていた。いつもの氏らしい「渓流」よりも、「窓」「日暮里風景」が別の色使いで面白いかった。石原貴暉、今井文二、吉川弘、坂本瞬、山口由紀子と言った、少なからず話をして顔も知っている人物の作品はみな今までのスタイルを保持していた。それは創画全体に言える。そう違ったモチーフに切り変わることも無理というものなのだろうが…。
●『第32回 京都春季創画展』_d0053294_12254333.jpg

by uuuzen | 2006-04-23 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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