「
導きの 親はおらずも 子は育つ 愚か賢き 問うな人の世」、「3月の 陽射しよき午後 ひとり行く 古き町並み ダンプが走る」、「古き町 家壊されて 駐車場 いずれ家建ち 若き夫婦が」、「体力が 落ちて鈍るや 気の力 死なぬ限りは また気は戻り」

2月中旬にシャツの襟が被さらない首の右後ろに吹き出物がひとつ出来た。爪で潰そうかと思いながら放置し、それが消える2週間ほど経った頃、心臓の上部が痛み始めた。今までにないことで少々心配したが、心臓ではなく、皮膚に赤い発疹がいくつか出来ていて、それが肌着に触れて痛むことがわかった。発疹は増え、今掌に収まる範囲に広がっている。じっとしていても痛く、眠る時は右肩を下にしなければならない。肌着が膿で汚れるので、家内は帯状疱疹ではないかと言う。昨日は朝から熱があり、終日横になっていたが、夕方になって「風風の湯」に行く直前に計ると38.5度だ。ネット情報によればサウナには入らないのがよく、湯に浸かるのはかまわないとあった。風呂から戻った後、いつもより4時間ほど早く寝て、いつもと同じ朝10時過ぎに起きると、37.5度であった。帯状疱疹として、花粉症が原因だろう。花粉が飛び始めた2月中旬から花粉が収まる5月いっぱいまでの約4か月間は、老化による体力の衰えから毎年発疹に悩む。備忘録として何か事がある日は数文字でこの文章を書くファイルに順次記しているが、去年5月のある個所を次に引用する。『23日:午後スーパー帰りに悪寒、24日:寝込み、25日:寝込み、26日:体温下がる、「風風の湯」で桶忘れる、満印カード、27日:寝込み、28日:寝込み、29日:寝込み、雨の中「風風の湯」で桶見つける、30日:雨上がる、熱高い』つまり下旬の1週間ほどは体調が悪化し、5日間は寝込んでいた。それが今年は2か月早く訪れたかもしれない。今月下旬は種々の用事で外出しなければならないのに、この調子ではどうなることか。今回発熱した理由は一昨日税務署に申告に出かけ、その後、気になっていた市内の道を5,6キロ歩いたことによるだろう。花粉が舞う中、マスクをせずに歩くと、吸い込んだ花粉が体内で悪さをするのは当然で、防毒マスクを被って出かけるべきだが、そういうファッションがそろそろ流行するのではないか。防毒マスクがいやなら杉花粉のない地域に行くのがよく、日本では釧路や宮古島とのことだが、どちらも4か月の滞在はかなりまとまったお金が必要だ。それで筆者は発疹で血まみれ、痛みに苦しみながら連日布団の中で呻き、腹いせでこういうことを書いて少しでも痛みを忘れる。それはさておき、今日は一昨日出かけた際に撮った写真から3枚載せる。最初は一条戻り橋で、2枚目はその東の畔で満開になっていた桜で、数人の外国人が見上げて写真を撮っていた。筆者が橋に着いてから去るまでの間ずっとで、たぶん10分ほどは同じ場所で花見をしていたであろう。

2枚目の写真を撮るのが当日の目的であった。そのことの詳述は後日とするが、いつのことになるかわからない。早ければ数日以内、遅ければ数年後だ。目下筆者は新たな関心事を抱き、それについての資料集めと読書の必要があり、充実したことを書くにはかなりの日数を要し、数日後では序的なことしか書けないが、今日はさらにその序だ。一昨日は右京税務署から西大路通りを市バスで北上し、北野白梅町で降りた。そこから北野天満宮に至る東に向かう道はこれまで何度も歩いたが、今回は一条通りを東に歩き、堀川通りの一条戻り橋まで行くことにした。帰宅して調べると西大路一条通りがあることを知った。筆者は今出川通りを東に向かい、最初の信号を南にわたってすぐの東向きの細い道に入った。それが一条通りと思ったのだ。ところがすぐに突き当たりが見え、右折すなわち南下した。やがて右手の電柱に「大将軍八社」を示す看板があって、そこに寄って写真を撮るつもりが、一条通りに出てそれを東に向かうと見つからなかった。これも先ほど調べると西に向かうべきであった。一条通りは商店街になっていて、多くの店舗前に妖怪を象った置き看板があった。京都に長年住みながらその北野商店街を歩いたのは初めてで、やがて今日の3枚目の写真の場所に着いた。三叉路で、付近が歴史的に有名な場所であることを謳っている。そのまま商店街を東に進み、やがて千本中立売に出た。その時に気づいた。筆者の母方の叔父が昔西陣の帯を織っていた頃、千本通りに出るひとつ手前の北へ上がる道を少し入ったところで工場を所有していた。そこに最後に訪れたのはもう30年ほど前だ。機織り業は廃れ、代わってマンションが増えた。先の三叉路付近でも家を取り壊し中で、ダンプが出入りしていた。同じことは千本通りから東の一条通りでも見かけた。それはそうと、千本中立売から北が一条通りのはずで、大きなパチンコ屋の前に出た。その店の北端み道の西を見通すと、それが一条通りらしく、その先がどこかと西に歩いた。すると3枚目の写真の三叉路に着いた。つまり一条通りは三叉路で途切れ、北を少し上がって東に進まねばならない。無駄足を踏んだようだが、たまたま叔父が住んでいた家付近を歩いたことはよかった。西陣辺りの古い町家もいつまであるやらで、西陣の機織り業が盛んになる以前は街路はまた全く違っていたろう。何事も少しずつ変わって行く。幼児と老人が同居するからには当然だ。ところが多くの人に長年記憶されるものが稀に生まれる。それを培うのが人間らしきことだ。京都にはそうしたものが重層的かつほとんど無数に存在している。一条戻り橋の写真を撮りたくなったのも芸術の関心による。それは現在大多数の人が知らないことであっても、作品があればそれを新たに見つける人がいる。

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