「
撫で声に 悪い気せぬや 仙人は 俗人の世 みな知り気高き」、「シンフォニー 真に不穏に 始まりて 紆余曲折で ブラボー狙い」、「おおげさな 曲を喜ぶ おおげささ おけさ踊りの 化け猫にゃーお」、「広島の 原爆ムード 金になり いかに稼ぐは 沙汰の神なり」
去年から佐村河内守の交響曲第1番『HIROSHIMA』が気になり始め、ようやく最近中古盤を入手し、10数回聴いた。このCDは2011年の発売で、筆者は12年も経ってまともに聴いたことになる。NHKの番組その他でゴーストライターの存在が明らかになり、佐村河内の耳が聞こえことが嘘ではないかとされ、この作品の評判は一気に地に落ちた。そういう話題が影響したためではないが、筆者は佐村河内の音楽に全く関心が湧かず、この曲の一部が有名なスケート選手の試合の出番にBGMに使用されたという話も家内を通じて先日知った。それほど話題をかっさらったのに興味がなかった最大の理由は、どうせ日本で見事な交響曲が生まれるはずはないと思っていたからだ。その偏見が正しかったことがこの曲からよくわかった。家内は筆者がこの曲を大音量で最初にかけ始めた時、「なんかどこかで耳にしたことのある感じやな」と言い、「佐村河内や」と応じると、「やっぱりそうか。パッチワークみたいや。聴きたくない」と明言した。その言葉が正しいのかどうか、筆者は納得出来るまで聴き続けようとした。ブルックナーそのままといった箇所は笑いを誘ったが、全体としてはうまく出来ている。いかにもドイツの交響曲の歴史から耳馴染んだ箇所を模倣し、それらを散りばめながらほとんど印象に残らない旋律の連続で、重厚長大で劇的効果を狙った点で簡単に言えば通俗的だ。それは漫画やアニメに限らず、日本のすべての芸術において今は大手を振る。たとえばX(ツイッター)のフォロワー数が万単位であれば本人はすこぶる己惚れ、メディアも賛辞を贈るといった、数にものを言わせる、よく言えば民主主義性を体現している。それは馬鹿本位、贋者万歳の世を招いて来た側面があって、日本では芸術はもはや死んでいるも同然だ。あるいは筆者が認めないだけで、今の日本は世界に冠たる現代芸術の国と主張する人のほうが圧倒的に多いだろう。そういう人が佐村河内の出現を期待し、また持ち上げた。そして贋者とわかれば徹底的に叩いて存在を消し去る。本質的に贋者を礼賛する文化国家の日本であって、政治家でも芸能人でも芸術家でも、名が売れた者ほど奈落へ突き落される可能性を秘める危うさがあるが、ドーピングしてでもオリンピックで金メダルがほしい人が世界中で多数派を占めるそうであるから、どんな手を使ってでも有名になりたい病気は世界共通だ。その意味では佐村河内の事件は珍しくなく、出るべくして出て来た、そして消された存在ということなのだろう。「持ち上げて べたりと落とす 餅つきや 搗くほど粘り 味増すからは」
佐村河内守という名前を筆者は「サムラカワチノカミ」と最初は読み、江戸時代の殿様かと思ったが、本名だろうか。この名前の珍しさが話題をより大きくした気がする。ゴーストライターの名前は忘れたが、それほどに目立たず、TVで見る氏も印象的ではあっても交響曲を書くような重厚な感じは全くない。また偏見を書くが、化粧で化ける女と違って男は、そして堂々と仕事を主張出来る場合は、それなりに見栄えに風格がある。それがない男は女の目に留まらず、真の意味での無名で生涯を終える。佐村河内はどうか。本曲のCDのブックレットに彼の写真が2枚ある。それが何とも様になることを狙ったもので面白い。よく似たタイプの表情、態度をする男は世の中にごまんといる。特に芸能界で生きる者はみな彼と同じと言ってよい。自己演出が好きなのだが、化け猫が尻尾を見せるように、下手な演技が、あるいは本質が露わになっている。それは目をまともに見ればわかるだろう。
以前アラン・ホヴァネスの音楽について書いたが、ホヴァネスの肖像写真で印象的なのは目の輝きとその奥深さだ。そういう目をした男は筆者の知る限りはいない。ホヴァネスのことを思い出したのは、本CDのブックレットに長木誠司氏が「21世紀の日本に可能な交響曲の姿」と題する解説を寄せていて、文中に「ソ連のショスタコーヴィチとスウェーデンのアラン・ペッティション(そして、それらとまったく文脈を違えるアメリカのアラン・ホヴァネス)。ともに抱えている病理に悩みながら、多くの交響曲を書き続けた。」とあるからだ。長木氏の文章を初めて読んだが、佐村河内をショスタコーヴィチやホヴァネスと比較しながら、「21世紀の日本に可能な交響曲の姿」と書いたのは、佐村河内の才能を手放しで賛美しているのではなく、しょせん「21世紀の日本に可能な交響曲の姿」とはこの程度のものだと暗に貶めている側面も感じ、そこに依頼されて何か賛辞を書かねばならない評論家の辛さに同情する気も湧く。模倣と軽佻浮薄が昔から得意芸の日本では、どれほど逆立ちしてもブルックナーに比肩出来る交響曲の作曲家が生まれるはずはない。ブルックナーは教会でオルガン弾きをしながら交響曲を書いた。それはキリスト教と無縁ではあり得ず、そのキリスト教には神学、哲学を育んで来た歴史があって、それを致命的に欠いた精神的支柱のない日本ではどれほどあがいても猿真似しか出来ない。猿回しの芸を喜ぶ大衆がいることはいつの時代のどの国でも同じで、佐村河内が狙ったのはそこだろう。本CDは当時12万枚売れたそうだ。そのことで佐村河内その他、関係者は目的を果たし、後はどうなろうと知ったことではないというのが本音ではなかったか。ただし、思惑はすぐに破綻し、汚名は佐村河内のみが被った。それもひどい話だが、誰かの全責任を負わせて他の関係者が被害者面するのはTVで毎度お馴染みの光景だ。
ホヴァネスは若い頃にシベリウスと文通し、それがシベリウスの死まで続いたという。筆者は10代終わり頃から何とはなしにシベリウスに惹かれ、彼の生涯を描いた本やレコードを入手した。最もよく聴いたのは交響曲第2番で、いつでもその曲のあちこちのメロディを脳裏に再生出来る。そして感じるのはフィンランドの自然だ。シベリウスが自然の中を逍遥しながら思いついたメロディを連綿とつなぎ合わせて交響曲を仕上げたことに感服するが、ホヴァネスも同じように思ったはずで、シベリウスから学んだとすれば作曲の語法ではなく、自然から何を導き出すかという最重要なことであった。それは芸術史的に見ればロマン主義の残滓ということになるかもしれないが、フィンランドはドイツとはバルト海を隔てて隣り合うものの、民族が異なる別の国だ。ホヴァネスのアメリカもそうで、ドイツの交響曲の歴史に学びはしてもそれに染まり切る必要はなかったし、するつもりもなかった。日本ではバッハ、ベートーヴェンのクラシック音楽が義務教育で教えられ、ドイツ音楽が神聖視されている。そういう伝統ではシベリウスはまだしも、ホヴァネスの音楽は大きな人気を得ることはない。そして日本で交響曲を書くとなると、黛敏郎のような仏教に因む『涅槃交響曲』があるが、それとてめったに演奏される機会はない。和の要素を持ち込んでも今では国民性に馴染まないとの考えが支配的であるからだろう。そこでやはり交響曲はドイツとなり、それ風の、そして日本が世界に主張出来る有名な何かを題名その他で味付けしたものが構想されるのは、ごく自然な考えだろう。真の意味での独創からは遠い作品になることは目に見えているが、独創より大事なことは、いかに有名になって金儲けが出来るかだ。しょせん芸術は消耗品で、より多くの人が喜べばそれで目的を充分達したとの考えだ。運がよければ浮世絵のように外国が認めて再発見してくれるから、発案者と実際に音符を書き連ねた者との共作であるこの曲も、百年後に外国で再評価されるかもしれず、そうなれば長木氏の「21世紀の日本に可能な交響曲の姿」も予言的であったと認められる。その可能性はゼロではないが、シベリウスの交響曲第2番のように、半世紀すなわち一生よき思い出として残るメロディや楽器の総和の音というものが、佐村河内のこの交響曲には欠如していて、簡単に言えば聴いていて楽しくない。そういう音楽は多いが、全3楽章計82分の大曲がどの箇所もどこかで聴いたことのある気にさせることは、作品としては駄作、凡作としか言いようがない。いかにも重厚であるのに中身が空っぽの印象を与えるのは、ろくな本が1冊もない成金の豪邸のようなものだ。そういう空疎さを意図して表現する作品はあるが、佐村河内はそうではなかったであろう。図らずも空虚さが露わになった作品ほど惨めなものはない。
先ほどの長木氏の文章に「スウェーデンのアラン・ペッティション」という現代音楽作曲家の名前を見て、筆者は初めてそういう人物がいることを知った。それで早速ネットで調べると1980年に亡くなっていることを知った。今後筆者はその作曲家のCDを手に入れるかどうかわからないが、アマゾンでその作曲家のCDの一般人による批評を見ると、筆者が知る限り、最も文章量の多いものがあった。あまりに長いため、またあまりに読む気を起させない文章であるため、最初の10行ほどで読む気をなくした。文章を綴ることは、言葉を話せる人間であれば誰でも出来る。したがって時間をかけさえすれば長文も書けるが、誰かに読んでもらうには、最後まで読ませる筆圧が欠かせない。これは書いていて楽しく、読者にその楽しさが伝わるような工夫と言うべきものがなければならない。ある作品に感動した場合、その感動を他者にどう伝えるかとなれば、文章という表現が感動的でなければならない。それはなかなか至難の業で、それで大多数の人は凡人さを露呈することになるが、限られた時間の人生において、駄作や駄文に時間を割いては損した気になるから、音楽なら聴いて楽しかった、文章なら読んで何となく得したという気を起させないものは持続した人気を得ることは難しい。どれほど深刻な思想の経路を綴った哲学書であってもそれは同じことで、文章を積み上げた全体の構成が、時に破綻もそれなりの意味があると思わせるほどに作者が吟味し続けた痕跡を示すものでなければならない。そうした「作品」は他にはない斬新な工夫が必ずある。それは個性だが、誰にも個性はあるから、それを抜きん出たものにするには、他を研究し、視野を広げる努力をする一方、今までにはない「形」を創り出さねばならない。20歳やそこらの若い間はその研究や努力の量は高が知れているから、生まれ持った何かを中心に表現するしかないが、無意識であってもそれは出自に大いに関係した本質を提示しているもので、またそれゆえに20代で絶大な人気を獲得する作家はよくいる。シベリウスもそうであった。ところがその後は同じことの繰り返しを避ける思いもあって、他の研究し、視野を広げることなるが、その努力を怠る者がまた大半だ。一時はちょっとした人気を得てもすぐに才能が枯渇して忘却される作家は枚挙にいとまがない。しかし研究し続け、視野を広げる努力をし続けても、そのことで名作が生まれるとは限らない。楽譜を書く才能がなかった佐村河内はその点でどうであったかの想像を誘う。というのは、パソコンを使って自分の歌声を入力すれば、音符が書けなくてもメロディを自動演奏される機能があると聞くからだ。佐村河内は交響曲の構成が脳裏にあったようであるから、ゴーストライターを使わずにパソコンのAI機能を使えば手っ取り早く作品が書けるのではないか。
あるいはAIに指示するだけで佐村河内の交響曲ならいくらでも創出出来る時代になっているのではないか。この曲を聴いてまず感じたのはそのことでもある。AIがやれることを佐村河内とゴーストライターが協力してやったことであって、その意味で21世紀的であり、また無名性を持ち、感動めいたことを演出している点でも「作りもの」としてのAI性を体現している。これは言葉を代えれば「不気味」ということになるが、この曲が面白いのは「HIROSHIAMA」と題するからには、誰でも原爆にまつわるあらゆる悲劇に思いを馳せるからで、筆者は第1楽章の初めって早くも3分ほどで登場する爆発的な音に原爆を思いついた研究者の閃きを連想したが、一方では原爆で誕生したゴジラが眠りから覚める様子も思い浮かべた。そのようにこの曲は広島が経験した悲劇と結びついて聴かれることが正しいはずだが、音はどのように解釈してもいいものであるから、ある楽章のある個所を全体の物語の中でどのような場面を想像してもそれは聴き手の勝手だが、映画音楽的にこの曲を長大な物語の描写音楽として見つめると、その途端に安っぽさが露わになる。原爆の悲惨さを描いた丸木夫妻の絵画とは違って、音楽で原爆の悲惨を表現することは不可能だ。それにこの曲は第3楽章では明るい希望を描くような調性に変化し、それがまた交響曲にありがちの予定調和そのものを感じさせるが、原爆の悲劇の前でどのような癒しが可能と佐村河内は思ったのか。つまり、筆者はこの曲の題名が鼻についてならない。しかし広島ないし原爆を大上段にかざすことがなければ話題にはならないと佐村河内は思ったのだろう。そこがいかにも安っぽいが、話題に飛びつきたい連中には歓迎される。「作品に罪はない」とよく言われる。それゆえこの曲も百年後にどう評価されているかは誰にも予想がつかない。10数回聴いた筆者は過去の作品のいいとこ取りをしながら大オーケストラで鳴り響かせた重厚長大な曲であることは認めるが、繰り返すと後で思い返すことの出来る印象深いメロディがない。記憶に残らないことは作品としては致命的だ。筆者はこの曲の全3楽章に合唱がついていて、それが心に残る物語であれば、もっと作品として成功したのではないかと思った。今からでもそうしたオラトリオとしての改作は可能で、佐村河内やゴーストライターとは別の第三者の優れた才能を付与すればどうか。そのことに協力する作詞者が今はいなくても、将来はわからない。それにCDがあればその音に合唱を加えることは案外たやすい行為ではないか。しかしそれはAIでは駄目で、広島の原爆を通じて人間の愚かさを見抜いた詩人でなければならない。あるいはこの曲にアニメなどの映像をつければどうかと思えば、それは絶対にやめておくべきで、交響詩とするにはあまりに全体は暗い色調に覆われている。
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