「
櫃まぶし ゆっくり食べて 暇つぶし 迷惑客の 私物化麻痺し」、「観音の 官能感じ あかんのん おふざけだめよ お口お塞ぎ」、「駄洒落爺 お洒落な服で 笑い福 はははと歯見せ 婆ははにかみ」、「時勢見て 自制すべきと 自省すも むらむらむくり 無理なき男」
頭の中のもやもやがむくむくと湧き立つことは常にたくさんある。その中から何となく決着がつきそうな、つまりもやもやが解消出来そうなことは、よっこらしょっと決心と行動を経て手応えを得る。筆者はそのことをブログに書いておきたい性分で、以前に投稿したことの落とし前をつけたいからだ。もっともそのことは筆者のみが気にしていることで、ブログの読者は筆者が次に何を書くかを全く知らず、またそのことを期待している人もないから、筆者の落とし前的ブログ投稿はひたすら自分が納得して楽しいだけだ。他者にそのことは伝わらないと思うが、書くのであればまずは自分が楽しいことを最優先すべきで、表現とはみなそうあるべきと筆者は思っている。とはいえ、SNS時代ではそれが自慢となり、他者に対するマウント取りに映り、批判の対象になるから厄介だ。さて、
先月24日の投稿に布石として書いておいたことがある。12日の兵庫県立美術館での資料室で探した本が24日に訪れた歴彩館にあって、そこでコピーを撮ったことだ。歴彩館に訪れた理由はそのコピーだけではなかったが、新風館で461モンブランの演奏を聴くために、より時間がかかる調べものは次回にと諦めた。そのコピーした資料は
18年前の春に東福寺で開催された展覧会では、ガラスを隔てずに明兆の作品などを目の当たりに出来た。京博での展覧会はそれ以来で、そして空前の大規模展であった。それもあって会期中に展示替えがあり、目当てにした「白衣観音図」は見られなかった。売店で図録を確認すると、1ページ大にその大幅の著色の掛軸が掲載されていた。ただし観音の顔部分の拡大図はなく、その図版では顔の幅は1.5センチほどだ。明兆の作品を紹介する大きな画集があるが、筆者はそれを確認したことがない。またあっても「白衣観音図」の顔部分の拡大図はたぶんない。なぜ拡大図を求めたかと言えば、18年前にその顔の部分を実作品を目の前にして鉛筆で模写したからだ。そのことは当時ブログに投稿し、今も鮮明に思い出せる。特別な経験はいつまでも新鮮だ。結婚式のようなよきことが離婚で幻滅の記憶になるのと違って、裏切られないことは人生の糧だ。
改装前の京博では申請すれば写生は許可された。ただし常設展示の作品で、当然のことながらガラス越しだ。平成館が出来てからはそういう写生はたぶん許されないのではないか。観客の邪魔になるし、また海外の美術館や博物館でよくあるように、作品に危害を加えようとする連中がいる。そう考えると、18年前に筆者は明兆の「白衣観音図」を初めて目にし、すぐにそばにいた若い男性係員に声をかけ、携帯していたはがきサイズの写生帖に模写していいかと尋ねたところ、快い返事がもらえたのは鷹揚な時代であったことになる。それは同展の鑑賞者が筆者しかおらず、誰も模写の許可を求めなかったので、その修行僧らしき若い男性は虚を突かれたのだろう。筆者は早速手提げ袋から鉛筆を1本取り出し、左手で厚さ1.5センチほどの写生帖を持ち、眼前の「白衣観音図」に対峙した。大きな絵で、下部は巻き上げてあり、ちょうど鑑賞者の目の高さに観音の顔が位置していた。ただし、最も近づいても距離は1メートルあり、もちろんそれ以上顔を接近させると、横にいる係員は注意するから、直立不動で消しゴムは使わず、手直しが利かない一発勝負で描くしかない。それはいいのだが、写生帖はごく小さい割りに分厚く、閉じシロ箇所を押し広げ続けなければならず、立ったままの姿勢では思いのほか描き辛い。つまり観音の顔を身動きせずにそのまま描くこと、せいぜい5分程度で描き、手直しが利かないこと、係員のすぐそばであるといった非日常的諸条件での模写で、極度の緊張を保った。ただしそういう緊張は好きだ。なかなかよく出来たのではないかと満足し、係員に礼を述べ、最寄りの日赤病院内の郵便局に直行し、そこで切手を1枚買って記念印を押した。そしてその写真をブログに投稿したが、左端の閉じシロが完全に広げられないので、絵の左端は実物より短縮状態で写るほかない。投稿後、その模写が実物とどれほどさがあるのかが気になり続けた。それで去年12月の東福寺展に出かけた。その時、展覧会を見た後に家内と一緒に日赤病院前を通って東福寺に行ったが、その歩みのルートは18年前とちょうど反対方向であった。家内と一緒であったのはお互い健康であったからで、そのあたりまえのことをそう思わずに感謝すべきだ。筆者は72、家内は70で、18年前に観音の顔を模写したことを思えば、18年後の筆者は90になっている。その年齢まで生きられない可能性が大きいだろう。生きたとしても心身の自由が利かず、思うようなことは満足に出来ない可能性が大きい。肺が悪く、リウマチで毎月医者に診てもらっている家内は、家内の母や姉の寿命を考えれば90までは無理で、元気な間に楽しもうという気になるが、特に贅沢をするというのではなく、気の済むようにしたいことをするという日々の平凡な繰り返しにある。
10年前に家内は両方の肺に疾患が見つかり、癌の疑いがあって手術した。幸いなことに癌ではなかったので手術は案外早く終わったが、もう片肺は薬で治療することになった。その費用がわが家からすればあまりに高額で、結局その薬を服用せずにやがて済み、今は別の薬を処方してもらっているが、当初の薬もまた驚くほど高価で、しかも効き目がなく、却って体はおかしくなった。若い医師はもっと高額の薬を勧めるが、たぶん薬代だけで毎月50万円は必要だろう。筆者は薬を服用せず、たまに寝込むことがあっても自力で治す。医者や薬がないものと思って生きている。医者も薬もないと覚悟すれば無茶な暮らしはしない。好きなことを好きなようにするというモットーだ。6回結婚した
アラン・ホヴァネスは、写真で見るとかなり温厚な紳士で、女性に事欠かなかったのだろう。それも才能で、また長生きの秘訣に違いないが、年寄は清潔感と才能と経済力がなければ女性は振り向かない。たいていは経済力があっても芸術的才能は皆無で、清潔感もないが、それなりの女性が好む。清潔感と芸術の才能があっても貧乏人では話にならず、やはりホヴァネスは特別であったと納得する。話が脱線した。家内が肺の手術で入院する少し前だったと思う。ネット・オークションで楊柳観音を描いた版画の掛軸を入手した。絵は上手ではないが、観音の上に一辺20センチほどの方印が捺され、それが般若心経の篆文による全文であることに感心した。絵よりもその方印に惚れたのだが、絵は嫌味がなく、1日の大半を家内が過ごす部屋にかけておくと、何となく見守られている気分になる。その楊柳観音図が功を奏したのか、家内の肺疾患は癌ではなかった。それ以降、その観音図の掛軸をずっと掛けっ放しにしている。もちろん護符の思いからで、筆者は迷信深くはないが、不吉なことは避けたいし、部屋に飾るのであれば気持ちのいい絵がよい。それには変に芸術家を気取った作品は駄目で、無欲さを感じさせるものに限る。それはともかく、その楊柳観音の版画軸を買ったのは、その8年ほど前に東福寺で白衣観音の顔を模写したことが影響している。その絵以外に明兆の同様規模の大幅は10点ほどあったと思うが、同じく正面顔を描く達磨大師ではなく、観音を選んだのは、その顔の清らかさに魅せられ、350年ほど前に若冲も同じように目の当たりにして同じ感慨を抱いたことを想像したからだ。つまり若冲がらみで、白衣観音の模写から半年ほど前に
豊中の西福寺で若冲の鶏図を色鉛筆で写したことと対にしたかった。どちらも渋い顔をされずに模写が許されたのはありがたかった。模写は本に頼れるが、実物を目の当たりにすれば緊張感が違う。鑑賞者と同じ場所から同じ距離を取り、鑑賞者がいない合間を狙ってのわずかな時間であるから、拒否される理由がさしてないようだが、許すと際限がなく、粗相を働く者が出て来る。
今日の最初の写真は左が18年前に筆者が模写した明兆画の「白衣観音図」の顔部分だ。右は歴彩館でコピーしたその全図で、安価な白黒を選んだ。その顔部分を筆者の模写と同じ大きさになるように拡大し、2点を並べると模写の不正確さがわかる。初めて見た絵を下準備なしですぐさま描いたので、なおさら筆者の癖、内面が露わになった。原画は長年四つ折り状態で置かれていたようで、向かって左の眼に太い縦皺があるが、その欠損を補ってあまりある優美さと貫禄がある。こうした絵は手本があるのが普通で、明兆も中国から将来された絵を模写したか、大いに参考にしていたが、そうした定形に頼ることによる没個性さよりも明兆の個性が滲み出ている。筆者の模写は顔幅が少し狭く、顎に向かって尖り気味であるのは、卑俗な現代人の顔からの感化がありそうだ。また口がわずかに大きく、その点にも観音ではなく人間、すなわち俗物性が出ている。これは18年経って原画と比較してわかったことで、描き終わった時はあまり気づかなかった。また明兆画の実物を模写し、18年後にこうして画像を比べ、ブログに投稿する人はたぶん筆者だけで、こういう話題を自己満足ながら面白がる。模写の拙さを伝えて目障りになることを自覚するが、筆者の拙さは明兆の画技の素晴らしさの伝達に役立つ。「白衣観音図」の全図は原寸大で模写して自室に飾りたいと思わせる。観音のひざ元に小さく描かれる善財童子は横顔だが、その身を乗り出す仕草はこの絵を見て感動する人全員の思いを代弁している。京博での東福寺展でも展示された明兆の素朴な着衣の上半身の自画像は、人柄をあますところなく伝える。筆者は雪舟の自画像よりはるかにこの明兆の顔を好む。明兆こそは日本最大の画家であったと思うが、それは禅宗が真に力を持っていた時代に生き、東福寺の僧であったからだろう。若冲時代は売茶翁が言ったように、十中八九の僧侶はいわばろくでなしであった。それから250年ほど経ち、今はどうか。政治が、家やTVに登場する醜悪の権化のような男女を見ていると、日本の衰退ぶりは誰の目にも明らかと言いたいところだが、こういうことを唱えれば、「それはお前の戯言だ」という非難は確実にある。一方では宗教無用論が目につくが、1970年の日本の万博ではまだ仏教を前面に押し出していた。それは明治から続く万国博覧会における日本の伝統であったのに、次の大阪夢洲で開催される万博では仏教は見向きもされない。そのことは日本がこの半世紀で仏教を重視せずに忘却し、新興宗教全盛となった実情を示すだろう。となればどういう芸術家が登場し、歓迎されるかは充分想像出来る。ところで、コロナ以降はめぼしい展覧会がめっきり少なくなった。それも日本が貧しくなって来ていることの一端だろう。
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