「
巌には なれぬジャリだと 囁かれ 踏まれ蹴らるも さざれ祝おう」、「南天の 赤き葉のそば 菫咲き 吾立ち止まり しばし見惚れし」、「夕闇に どっちつかずの 菫色 やがて赤増し こぼれる笑みかな」、「満月を 模した灯りの 裏眩し 光ばかりが 望むところか」
京都の新風館が増築されるという話を甥から聞いたのは10年ほど前か。20年近く前はシュマイサーがその2階の一室で個展を開き、夕方に訪れた。会場にいたのはシュマイサーだけで、作品を一巡して見た後、少し言葉を交わし、持参した彼の本にサインをもらった。その時がシュマイサーと会った最後となった。それ以降新風館に出かけたことがなかったので、今月24日に訪れた時は昔の面影がほとんどなかったので驚いた。しかし現在の様子しか知らない人は数十年後にまた改築された時、同じ感慨にふけるだろう。ところで、人間は本質的に変わらないとはいえ、たとえば睡眠中の夢も時代や住む場所、当人の行動範囲によって全然違ったものになる。筆者は出かけるとよく歩き、道に迷うことが多々あり、夢は架空の街角がもっぱら登場する。目覚めている時にその夢をふと思い出し、現実とイメージがだぶることがままある。今後は老化のせいで現実と夢の区別がもっと曖昧になって来そうだ。生活に支障がなければよいとはいえ、他者に迷惑がかかる場合があるかもしれず、高齢になればなお自覚すべきだ。となれば外出しても用事だけ済ましてさっさと帰宅するに限る。これまでそうして来たのでそのことに抵抗はないが、前述のように個展を訪れるとなると作者と話す機会は生ずる。まあそれも作者が筆者を無視すれば何も起こらないし、そういうことはよくある。作者が会場にいなければ作品だけ見て作者の人柄を想像する。たいていの場合、それで充分だ。作品が魅力的であれば作者もそうで、その反対も言えるからだ。それに稀にしか魅力的な作品には出会わないから、本当のところは作者と話す必要はない。作品と作者は別とよく言われる。優れた作品は作者が優れた何かを持っていることの証で、優れた何かがあることは人間性に問題があることとは無関係であるにしろ、その人間性に問題云々は誰がどのようにして決めるのかという疑問がある。それに人間性に問題のない人はいない。ある人にとってよい人が多くの他者にとっては害悪以外ではないということがままあることは誰でも知る。結局のところ、作品は作者の一端を示し、それが真実味を持って鑑賞者に伝わるのであれば、作品の背後にいる作者の人格も肯定される。そのように人は元来信じたい存在だ。作品から何かを感じ取って気分が高揚することはたぶん人間以外の動物にはなく、神々しいことと筆者は思う。つまり、人間が人間たるゆえんは芸術を生み出し、またそれを大切に感じる能力を持っていることだ。
今月12日は兵庫県立美術館で安井仲治展を見るために家内と神戸に出かけた。家内に時間を尋ねると、1時40分とのこと。思った以上に鑑賞が長引き、最後の2、3部屋は見ずに同館を後にした。山手に向かって小走りに急ぎ、横尾忠則美術館に着いたのは2時5分か10分であった。家内に言わなかったが、同館で461モンブランのコンサートが2時から開催されることをX(ツイッター)で知っていたので、ついでに見ようと決めていた。百席はすでにいっぱいのようで、筆者らは最後尾に座った。館長だろうか、男性が左横手で開演の辞を述べていて、どうにか開演に間に合った。演奏は30分ほどで終わり、筆者は即座に舞台に駆けつけ、山下カナさんに話しかけた。すると背後に高齢女性がいて彼女に話しかけたので、筆者は遠慮し、森さんに声をかけた。「24日の京都は四条烏丸のどこですか」「新風館です。まだ告知はありませんが」「そうですか、行ければ行きます」Xには四条烏丸で演奏があると書かれていたが、新風館はその交差点からは北に早足で徒歩10分の距離だ。間近にならなければ告知出来ない理由が新風館にあるのだろう。それはいいとして、24日の今日また家内と出かけた。まず堂本印象美術館で最終日の企画展をまず見て、それからバスを乗り継ぎ、歴彩館に調べものに行った。12日に訪れた兵庫県立美術館の資料室になかったからだが、今度はさすがにあった。461モンブランの演奏は午後に3回あって、1時半、2時半、3時半と思っていたが、1時半はなく、代わりに4時半であった。それはともかく、堂本印象美術館を訪れる際、筆者は東端の道路際の細い階段を上る。今回もそうしたが、斜面の植え込みの根本付近に紫色の菫の花がたくさん咲いていた。今日の最初の写真のように、その珍しい眺めを即座に撮ったはいいが、帰宅して確認すると色合いが全然違って少しもきれいでない。自然はそのままで美しい場合があるが、やはり感動を自作の何らかの形で表現するしかない。筆者は即座に菫の小さな花を散らしたキモノを思い浮かべた。昔ヴィオラ・スミレを題材に多くのキモノを作った。和菫ではもっと可憐なものが出来るだろうか。話を戻す。歴彩館を出て府立大学前のバス停付近に至った時、家内に時刻を訊くと、3時10分とのこと。すぐにバスが来ても新風館に3時半に着くのは難しい。市役所前で下車し、そこからまた家内をはるか後方にしながら西に向かって急いだ。新風館の北門に着くと、中庭が見え、アコーディオンの音が聞こえた。時計を持っていないのでどれほど遅れたのかわからないが、ともかく演奏の最中でよかった。中庭には蛇行した小径があり、そのところどころに球体の石が置かれていた。いつもなら必ずそれを立ち止まって撮影するのに、後でいいと考えて演奏中の461モンブランの前に進んだ。
ブログでは長年載せていないが、各地で撮影した同じ丸い石の写真は数十枚はある。その形は阪神尼崎駅近くのスーパー「アマゴッタ」の前に置かれる鉄の丸い塊の彫刻と同じで、筆者は勝手に「ゴッタ」と呼んでいるが、その最大は満月だ。それを「ムーンゴッタ」と命名して毎月の満月の写真をブログに載せて来た。それはいいとして、山下カナさんはそのひとつの「ゴッタ」のすぐ際に立って演奏中で、キモノは菫色であった。小柄な彼女にその色は似合う。演奏を聴いていると遅れて来た家内が461モンブランの背後を歩き、筆者の後方にゆっくりと移動した。最初に聴き逃した曲が何かを知りたいために、演奏終了後にまた山下さんの前に行った。片付けに忙しい彼女は筆者の質問に答えてくれなかったが、家内がやって来て彼女に挨拶をした。てっきり筆者はその時の演奏が最後と思っていたのに、それは早合点でもう30分すれば最終の演奏があることをふたりから聞いて知った。寒い日で、ふたりは手がかじかんで指が動きにくいと言い、そうこうしている間に新風館の係員の男性がやって来た。そこで筆者らも場を後にし、係員がふたりを控室に案内するためにエレベーター前に着くのを横目に東門から外に出た。だが次の演奏まで30分ではないか。新風館のあちこちをうろつくだけでそのくらいの時間はすぐに去る。ところが家内は大丸に行くと主張する。筆者はしぶしぶ着いて行き、地下の売り場で別れて待ち合わせをすることにした。「さっき聴き逃した最初の2曲ほどがどういう曲か知りたいだけやし、4時40分には戻って来るし」「せやけど、さっきは怖い顔して前で見てたから、あれは格好悪いで。迷惑がられているかもしれへん。何かプレゼントでも持って来たらまだええけど」「プレゼントは考えるんやけど、荷物になっては悪いしなあ」だが家内の言葉になるほどと思う。古稀過ぎの年齢でストーカーしているかのような自分の姿を顧みると、確かに格好悪い。若者かダンディであれば話は別だが、予告なしに急に眼前に姿を見せ、しかも最前列に陣取っては、いかに彼らが客を前にしての演奏に慣れていても戸惑いはあるだろう。そう思うと、乞われるのでもない限り、ライヴハウスに行くことも控えようという気になる。筆者は自分の年齢を気にしていないが、現実はそれではよくない。前にも書いたことがあるが、演奏会場を訪れたことを悟られないようにして、そっと聴いてそっと出る。夕暮れの中、そう思いながら新風館に向かって北上した。会場に着くとちょうどふたりは演奏の準備中で、筆者は姿を見られなかったはずだ。つい先ほど演奏を聴く際に背にした褐色の鉄板を張った方形の太い柱の後ろに隠れて立った。そして中庭の北方上部に掲げられた直径2メートルほどの白い板を見つめながら、結局30分の演奏を全部聴いた。そして大丸の地下に急ぐと、家内は外に出て筆者を待っていた。
演奏曲目は第2回目とは全部違っていたと思う。そして当日の三度の演奏はみな曲が違った可能性がある。本人たちに訊いていないが、たぶんそうだろう。12日の神戸と今回の演奏は感想を書こうと思って出かけたが、書く時間が見つけられそうにない。それに書いて喜んでもらえるとは限らない。存命中の人のことを書くのは勇気がいる。あるいは金森さんがいみじくも言ったように、無邪気さだ。筆者のその無邪気は悪気を含まないが、相手はそう受け取らない場合がある。ライヴハウスでは筆者はなるべく演奏者との会話の機会を求めている。決めている原稿用紙9枚の文章を書くには、演奏に接しただけでは話が続きにくいからだ。とはいえ、演奏者と話が出来ない場合のほうが多い。461モンブランはその部類で、会話らしいものがほとんど得られない。だがその壁のような隔たりがいいのだろうし、主役となる演奏者はそれを意識すべきと言える。開高健が熱烈な読者から飲み会の誘いを受けながら、それに一切応じなかったのは、スター気取りとの偉ぶった意識だけからではなく、読者の幻想を壊したくないからでもあったはずだ。スターにもファンにも節度が求められ、気安く交わることは避けたほうがよい。筆者は2枚目の写真の左端に映る鉄張りの柱の陰に立ちすくみながら、その行為の趣味の悪さを思いながら、陰で応援している思いに塗り替えた。新風館は今回のように無料の演奏会などの催しをまま開いているようだ。満月の日は毎回催事があるのだろう。そして当日は雨でない限り、中庭に面した建物の最上階近くに満月を模した白い板を掲げ、夕方になればそこに当夜の満月を映し出す。それは望遠鏡のカメラで撮影した満月をリアルタイムで白い板ぴったりに収めて上映するもので、今回は上映し始めた頃、白い板上で満月は固定せず、わずかにずれがあって端に三日月状の余白が生じていた。また満月は移動するから、当夜は閉館までの5,6時間、望遠鏡に付きっ切りで満月をストーカーする人が必要だ。本物の満月は夜空にあり、映写は無駄なようだが、京都の中京は高いビルのために満月は見えにくい。461モンブランの演奏が終盤に差し掛かった時、白い板に満月のクレーターがどうにか識別出来るようになり、その後は5分ほどで満月ははっきりとわかった。そうして撮ったのが今日の4枚目の写真だ。ほとんどの満月を自宅付近で撮影して来たが、今回の新風館のプロジェクション・マッピングは461モンブランの演奏があって知り、雨でなくて運がよかった。ただし球体ではなく、円盤であるから、「ムーンゴッタ」とは呼べない。帰宅後に「風風の湯」に行くことにし、家を出てすぐに満月を撮った。木立の影は開花前の枝垂れ桜だ。最後の写真は「風風の湯」を出た直後で、前景に桜の木、満月はおぼろに変わっていた。
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